チロ・フェラーラ

イタリアのサッカー選手、監督 (1967 - )

チロ・フェラーラ(Ciro Ferrara, 1967年2月11日 - )は、イタリアナポリ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー

チロ・フェラーラ
2012年撮影
名前
ラテン文字 Ciro Ferrara
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1967-02-11) 1967年2月11日(57歳)
出身地 ナポリ
身長 180cm
体重 75kg
選手情報
ポジション DF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1984-1994 イタリアの旗 ナポリ 247 (12)
1994-2005 イタリアの旗 ユヴェントス 253 (15)
通算 500 (27)
代表歴
1985–1987  イタリア U-21 6 (1)
1987-2000[1] イタリアの旗 イタリア 49 (0)
監督歴
2009-2010 イタリアの旗 ユヴェントス
2010-2012  U-21イタリア代表
2012 イタリアの旗 サンプドリア
2016-2017 中華人民共和国の旗 武漢卓爾
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴 編集

子供の頃のアイドルはディノ・ゾフで、遊びではよく、GKとしてプレーしていた[2]。13歳の時、MFとして、サルヴァトル・ローザのトライアルを受けて、本格的にサッカーを始めた[2]。そこでコーチからDFへとコンバートされた[2]。1981年にグルメーゼへと売却されたが、家から遠す過ぎたことから、1度トレーニングに参加しただけで退団[2]。その後ナポリのトライアルを受けて合格し、ナポリのユースへと入団した[2]。この時、ナポリには同姓同名の選手が居たため、それぞれにニックネームが付けられ、ウリ・シュティーリケに由来する、シュティーリケというニックネームをで呼ばれていた[2]

現役時代 編集

1984-85シーズン、トップチームへと呼ばれ、何度か試合でベンチ入りしていたが、1985年5月5日、ユヴェントスとの試合でデビューを果たし、ズビグニェフ・ボニエクと対峙、ユヴェントスを0点に抑えた[2]。1985-86シーズンは、リーグ戦14試合に出場した[2]。1986-87シーズン、1986年10月5日のトリノ戦において、プロ初得点を決めた[2]。この年、レギュラーに定着して、28試合に出場、リーグ初優勝とコッパ・イタリア制覇の立役者の一人となった。1987年6月10日、アルゼンチンとの親善試合に出場してイタリア代表デビューし、ディエゴ・マラドーナのいるチームに3-1で勝利した[2]。1988年の欧州選手権では、メンバー入りを果たすも、出場機会は与えれなかった[2]。1988-89シーズンにはUEFAカップを制し、1989-90シーズンに2度目のリーグ優勝を飾ったが、地元開催のワールドカップイタリア大会では、3位決定戦にフル出場したのみに終わった[2]。1990-91シーズン、スーペルコッパ・イタリアーナで優勝したが、このシーズン終盤、マラドーナがチームを去りると、以降、キャプテンを受け継いだ[2]1991-92シーズンクラウディオ・ラニエリ監督の指揮下、優勝争いに絡むなど、リーグ4位、UEFAカップの出場権を確保した[3]カレッカジャンフランコ・ゾラらが退団したが、1993-94シーズンマルチェロ・リッピ監督指揮下、リーグ6位と、UEFAカップの出場権は確保した[2]。ナポリでは、公式戦通算319試合に出場し、15得点[2]

1994年夏、ナポリからユヴェントスに引き抜かれたリッピ監督は、フェラーラの獲得を就任の条件に要求した[4]。この時、ASローマパルマに移籍する可能性もあったが、ユヴェントスへの移籍を選択した[2]。ここでは、これまで務めてきた、フルバックのポジションでも起用されたが、次第にセンターバックとして起用されることが多くなった[2]1994-95シーズン、移籍後すぐにチームの守備の中心となり[5]、9期振りのリーグ優勝とカップ制覇の2冠に貢献した。1995-96シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝、アヤックス戦のPK戦では、一人目のPKキッカーを務めて、PKを成功させ、優勝を果たした[2]。しかし、怪我により、6月のユーロを戦う、イタリア代表のメンバーから外れた[2]。1996-97シーズンから加入した、パオロ・モンテーロと強固なセンターバックのコンビを組み、このシーズン、トヨタカップとリーグ優勝を果たした。1997-98シーズン、チームはリーグ優勝を果たすも、レッチェ戦で怪我を負い、最後の数か月戦線を離脱した[2]。これにより、チャンピオンズリーグ決勝のレアル・マドリードも欠場、チームは0-1で敗れた。1998年のワールドカップフランス大会は大会前の怪我により出場を逃した[2]。2000年、ユーロが代表として、最後のメジャー大会となった[2]。代表チームでは、通算49試合に出場した[2]。1997-98シーズン以降、3年連続で無冠が続いたが、2001-02シーズンには自身6度目(ナポリ時代を含む)のスクデット獲得を果たした[2]。2005年5月15日のパルマ戦でセリエAでは通算500試合出場を達成、この試合が現役最後の試合ともなった[2][6]

ナポリで活躍したディエゴ・マラドーナとは親友である。ロッカールームに置き忘れてあったマラドーナのスパイクを拝借し、チャリティオークションに出品したことがある[4]

指導者へ 編集

引退後、2006年からユヴェントスの下部組織の責任者を務めた。また、2006 FIFAワールドカップでは技術スタッフとしてイタリア代表に帯同し、イタリア代表の優勝をサポートした[7]。また、2008年7月にマルチェロ・リッピがイタリア代表監督に復帰してからは再度、技術スタッフとして帯同していたが(ユヴェントスの下部組織責任者との兼任)、後述のユヴェントスの監督就任により、2009年6月にイタリアサッカー連盟との契約を解除した。

2009年5月にユヴェントス前監督クラウディオ・ラニエリの解任により、臨時ではあるが自身初の監督に就任し、采配初戦となったACシエナ戦では、3-0で勝利し、6試合勝利から遠のいていたチームに久々の勝利をもたらした。最終節SSラツィオ戦でも勝利し、チームを2位に導いた。この2試合の采配により、シーズン終了後にクラブと2年間の契約を交わした[7]

2009-2010シーズン、チームはグループリーグの時点でUEFAチャンピオンズリーグ敗退が決まり、リーグでも8試合で5敗と低迷。コッパ・イタリアインテル戦で負けた後に解任された[8]

2010年10月、U-21イタリア代表の監督に就任した[9]。2012年7月、U-21イタリア代表監督を辞任し、UCサンプドリアの監督に就任したが、12月に成績不振のため解任された[10]

2016年、武漢卓爾足球倶楽部の監督に就任した。

個人成績 編集

クラブでの成績 編集

[11]

クラブ成績 国内リーグ 国内カップ UEFA大会 その他 合計
シーズン クラブ リーグ 出場 ゴール 出場 ゴール 出場 ゴール 出場 ゴール 出場 ゴール
1984–85 ナポリ セリエA 2 0 0 0 - - - - 2 0
1985–86 14 0 2 0 - - - - 16 0
1986–87 28 2 8 0 2 0 - - 38 2
1987–88 23 1 7 0 2 0 - - 32 1
1988–89 27 0 8 0 12 1 - - 47 1
1989–90 33 0 6 0 6 0 - - 45 0
1990–91 29 2 8 2 3 0 1 0 41 4
1991–92 32 1 2 0 - - - - 34 1
1992–93 31 4 5 0 3 0 - - 39 4
1993–94 28 2 0 0 - - - - 28 2
ナポリ時代 247 12 46 2 28 1 1 0 322 15
1994–95 ユヴェントス セリエA 33 1 7 0 9 1 - - 49 2
1995–96 31 3 1 0 9 0 1 0 42 3
1996–97 32 4 3 0 11 0 2 1 48 5
1997–98 17 1 2 0 5 0 1 0 25 1
1998–99 18 0 2 1 3 0 0 0 23 1
1999–00 31 1 1 0 9 0 - - 41 1
2000–01 23 1 1 0 6 0 - - 30 1
2001–02 22 3 4 1 4 0 - - 30 4
2002–03 25 0 0 0 12 1 0 0 37 1
2003–04 17 1 4 0 4 0 1 0 26 1
2004–05 4 0 1 0 0 0 - - 5 0
ユヴェントス時代 253 15 26 2 72 2 6 1 358 20
通算 500 27 72 4 100 3 7 1 680 35

代表での成績 編集

出典[1]


イタリア代表国際Aマッチ
出場得点
1987 3 0
1988 4 0
1989 7 0
1990 5 0
1991 6 0
1992 0 0
1993 0 0
1994 0 0
1995 6 0
1996 4 0
1997 8 0
1998 1 0
1999 1 0
2000 4 0
通算 49 0

監督成績 編集

2017年5月23日現在
チーム 就任 退任 記録
試合 勝利 引分 敗戦 勝率
ユヴェントス 2009年 2010年 30 15 5 10 050.00
サンプドリア 2012年 2012年 15 5 3 7 033.33
武漢卓爾 2016年 2017年 16 8 1 7 050.00
合計 61 28 9 24 045.90

獲得タイトル 編集

SSCナポリ
ユヴェントスFC
個人

栄誉 編集

イタリア共和国功労勲章
 

カヴァリエーレ(1991)

 

ウッフィチャーレ(2000)

脚注 編集

  1. ^ a b “Ciro Ferrara - International Appearances” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation. http://www.rsssf.com/miscellaneous/cferrara-intl.html 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y Ciro Ferrara calciatore: da 'scugnizzo' nel Napoli di Maradona a pilastro della Juventus di Lippi”. GOAL (2023年8月7日). 2023年8月16日閲覧。
  3. ^ Antonio Careca, sublime centravanti di Brasile e Napoli e partner preferito di Maradona”. GOAL. 2023年8月17日閲覧。
  4. ^ a b ワールドサッカーダイジェスト』、日本スポーツ企画出版社、2003年5月15日号
  5. ^ ワールドサッカーダイジェスト 1995年8月号 日本スポーツ企画出版社 P.15-17
  6. ^ LA CARRIERA DI CIRO”. Tutto Juve.com (2009年6月5日). 2014年7月5日閲覧。
  7. ^ a b フェラーラ氏、ユーベ監督に正式就任uefa.com、2009年6月5日
  8. ^ ユベントスがフェラーラ監督解任、新監督にザッケローニ氏ロイター通信、2010年1月30日
  9. ^ Official: Former Juventus Boss Ciro Ferrara Appointed As Italy Under-21 Coachgoal.com、2010年10月22日
  10. ^ カターニアに敗れたサンプドリアが監督交代Goal.com、2012年12月18日
  11. ^ チロ・フェラーラ - National-Football-Teams.com

外部リンク 編集