デイヴィッド・マッケンドリー・キー (外交官)

アメリカ合衆国の外交官

デイヴィッド・マッケンドリー・キー(David McKendree Key, 1900年2月4日 - 1988年7月15日)は、アメリカ合衆国外交官

生い立ちと家族 編集

1900年2月4日に日本東京市で誕生[1]。父親はアルバート・レノア・キー (Albert Lenoir Key)、母親はグレイス・コンディット・スミス (Grace Condit Smith)[2]。父親はアメリカ海軍士官であり、デイヴィッドの出生時は日本滞在中であった[3]。マサチューセッツ州の私立学校グロトン・スクールで学び、1922年にハーバード大学を卒業[1]。1922年から1923年までイングランドケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに在籍[1]。1923年から1923年までジョージタウン大学外交学部に在籍[1]。1918年にアメリカ海兵隊に所属し[1]第一次世界大戦に参加[3]

マージョリー・ライト (Marjorie Wright) と結婚し、以下の子供をもうけた[2]

  1.   デイヴィッド・マッケンドリー・キー (David McKendree Key)
  2.   ライト・キー (Wright Key)
  3.   アルバート・レノア・キー (Albert Lenoir Key)
  4.   マージョリー・キー (Marjorie Key)

外交官時代 編集

1925年3月20日に国務省外交局に入省し、外交官として任命を受けた[1]。1925年9月2日に副領事としての地位に任ぜられ、国務省本省での勤務を開始[1]。1926年3月9日からベルギー王国アントウェルペンで副領事[1]。1927年7月18日から外交局で書記官の地位となり、ヴァイマル共和国ベルリンに三等書記官として駐在[1]。1929年10月19日からイングランドロンドンに駐在[1]。1933年8月31日から国務省本省での勤務に復帰[1]。1934年11月14日から国務省最新情報部にて副部長[1]

1936年6月11日から領事としての地位に任ぜられ、カナダオタワで二等書記官として駐在[1]。1940年4月18日からイタリア王国ローマで二等書記官、1941年12月9日から同一等書記官[1]。1941年12月22日から国務省本省での勤務に復帰[1]。1941年12月29日から連絡官補、1944年4月10日から連絡官代行[1]

1944年5月27日からスペインバルセロナで領事、1944年6月24日から同総領事[1]。1945年2月20日からイタリア王国ローマで参事官[1]。1947年4月15日からブラジルリオデジャネイロで参事官[1]。1948年、万国農事協会常設委員会の最終会合にアメリカ代表として出席[1]。1950年1月30日から国務省本省での勤務に復帰[1]

1950年2月16日からビルマ連邦ヤンゴンで公使参事官[1]。1950年3月17日に駐ビルマ特命全権大使に指名され、1950年4月26日に信任状を奉呈[4]。1951年10月28日まで在任[4]。1952年に国務省外交局を退職[5]

1953年12月4日に国務次官補(国際連合担当)に任ぜられ、1953年12月18日に着任[4]休会任命のため1954年3月17日に再委任[4]。1954年8月25日付で国務次官補(国際機関担当)に改称[6]。1955年7月31日の退任後[4]、国務省から2度目の引退[5]

1988年7月15日、フロリダ州レイクウェールズの自宅にてにより死去[5]

出典 編集

外交職
先代
ジェローム・クラー
在ビルマアメリカ合衆国大使
1950年4月26日 - 1951年10月28日
次代
ウィリアム・ジョセフ・シーボルド
公職
先代
ロバート・ダニエル・マーフィー
アメリカ合衆国国務次官補(国際連合担当)
1953年12月18日 - 1953年7月27日
次代
フランシス・オーランド・ウィルコックス