トム・パーカー (マネージャー)

芸能マネージャー

トマス・アンドリュー・"トム"・パーカー大佐(Colonel Thomas Andrew "Tom" Parker、出生名:アンドレアス・コルネリス・("ドリエス")・ファン・カウク、Andreas Cornelis ("Dries") van Kuijk、1909年6月26日 - 1997年1月21日)は、パーカー大佐(Colonel Parker)と通称される、オランダ王国出身の芸能インプレサリオアメリカ合衆国エルヴィス・プレスリーマネージャーとして長期間活動したことで知られている[1]

トム・パーカー (Tom Parker)
60歳のパーカー(1969年)
生誕 アンドレアス・コルネリス・ファン・カウク
(1909-06-26) 1909年6月26日
オランダの旗 オランダ王国北ブラバント州ブレダ
死没 1997年1月21日(1997-01-21)(87歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ネバダ州ラスベガス
職業 芸能マネージャー
配偶者
マリー・フランシス・モット
(m. 1935; 死別 1986)

ロアン・ミラー (m. 1990)
子供 なし
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概要 編集

パーカーによるプレスリーのマネジメント手法は、プレスリーの生活のあらゆる側面に関与するものであり、タレントのマネジメントを統括する役割のあり方を決定づけるとともに、プレスリーの驚異的な成功に中心的な役割を果たしたものと考えられている。「大佐(カーネル)」は、クライアントの利益のためには容赦なく相手から搾り取り、その稼ぎの中から一般的な10%から15%という水準以上の自分の取り分を得ていた。その額は、プレスリーの晩年には、最大50%に達していたという。プレスリーはパーカーについて、「彼がいなかったらこんなにビッグになっちゃいないよ。彼はとても賢い男さ。(I don't think I'd have ever been very big if it wasn't for him. He's a very smart man)」と述べている[2][3]。長年に渡りパーカーはアメリカ人を詐称していたが、実際にはオランダ人であることが判明した。また、音楽プロデューサーとしても活動していた。

経歴 編集

パーカーは、アンドレアス・コルネリス・ファン・カウクとして1909年にオランダ王国北ブラバント州ブレダ[4]カトリック系家庭の11人兄弟姉妹の7番目に生まれた[5]。少年の頃は、ブレダの謝肉祭などで呼び込み (barker) として働き、後に芸能界で働く上で必要となった様々なスキルを身に付けた[4]

15歳で乗組員の職を得たパーカーは、港町ロッテルダムへ移り住んだ[4]が、17歳の頃から富を築くためにアメリカ合衆国へ脱出したいという意思を持ち始めた[4]。翌年には生活費を貯めた上で勤務していた船から脱走してアメリカへ密入国した[4]。この最初の渡米の際には、ショトーカ運動 (Chautauqua) のテント・ショーの一座に加わって旅をしたが、その後はオランダに短期間だけ帰国した[4]

パーカーの伝記を著したアランナ・ナッシュは、当時まだカウクとして知られていたパーカーが、ブレダで殺人事件の容疑者となった、あるいは、少なくとも何らかの関与が疑われたのではないか、という疑惑があることを、後に繰り返し述べている[6]。これが事実であれば、オランダ犯罪人引渡し条約アメリカ合衆国と締結していたので、オランダ当局によるこの事件の追及から免れようとしたパーカーが、パスポートを取得せずに密入国を試みたのかもしれない[6]

アメリカ移住 編集

パーカーは20歳でアメリカに戻り、オランダでの経験を活かしてカーニバルで働き始めた[4]。パーカーは、密入国者であることを欺くためにアメリカ陸軍に志願し、面接を担当した士官トム・パーカーの名を名乗るようになった[4]

パーカーは、ハワイ州ホノルルフォート・シャフター基地に沿岸砲第64連隊の一員として2年間駐屯した後、程なくしてフロリダ州ワリントンのフォート・バランカス (Fort Barrancas) 基地に移った[4]。それまでパーカーは名誉ある勤務態度を貫いたが、許可なく部隊を離れ (AWOL)、敵前逃亡に問われた[4]。パーカーは懲罰房での禁固に服したが、精神病を発症して精神病院に2ヶ月間入院した[4]。こうした精神状態を踏まえ、陸軍はパーカーを除隊させた。

除隊後のパーカーは、食品の売り子から、カーニバルの人寄せまで、様々な仕事を渡り歩いた[4]。この間、パーカーは後年役立つ人脈を築き始め、権威や影響力のある人々とも交わった[4]

1933年、パーカーは27歳だったマリー・フランシス・モット (Marie Francis Mott) と結婚した。夫婦は世界恐慌の中を必死に生き延び、詐欺行為を働きながら、仕事を求めて国中を旅して回った[7]。後にパーカーは、週にたった1ドルしか使えないこともあったと述べている[7]

タレント・マネジメント経歴(1938年 – 1954年) 編集

パーカーの音楽産業への関わりは、1938年にポピュラー歌手ジーン・オースティン (Gene Austin) のプロモーターになったことがきっかけであった[8]1924年以来、8600万枚以上のレコードを売り[8]、1700万ドル以上を稼ぎながらもオースティンは不振に陥っていた。オースティンは稼いだ金の殆どをパーティーや車、大邸宅、そして女性たちに浪費して尽くしており[8]、かつての人気もビング・クロスビーなど新しい歌手たちの台頭によって翳りを見せていた[8]。オースティンを支える仕事に就いたパーカーは、自分のカーニバルでの経験を活かせば、群衆を集められると確信した[8]。パーカーは非常に優秀なプロモーターであったが、彼の関心はマネジメントへと向けられていた[8]

オースティンはパーカーに、当時すでに音楽が大きなビジネスになりつつあったテネシー州ナッシュビルへの移住の機会を提供したが、何故かパーカーはこの申し出を断った[9]。パーカーは、家族とともにフロリダ州テンプル・テラス (Temple Terrace) に住み続けたが、恐らく転居の際の手続きをする中で不法在留が明るみに出る可能性を危惧したのであろう[9]。しかし、その後1年も経たないうちに第二次世界大戦の開戦後に成立した、米国のために戦ういう誓約と引き換えに不法在留外国人にも市民権を与えるとした、1940年外国人登録法Alien Registration Act of 1940:通称スミス法 (Smith Act))によって、アメリカ合衆国の合法的市民となる機会を得た[10]。しかし、パーカーはこのとき登録をしなかったが、おそらくは軍務に就いていた前歴が公になることを避けたかったからだったのだろう。

代わりにパーカーは、ヒルズボロ郡の動物保護施設を運営していたヒルズボロ郡人道協会 (the Hillsborough County Humane Society) に就職した[10]。この仕事は、パーカーに十分な給与に加えてウェスト・タンパ (West Tampa) にあった協会施設に家族と住み込める無料の住居を与えた[10]。協会が資金を必要としていたため、パーカーは自らのプロモーションの経験を活かして施設の認知度を上げた[10]

資金集め活動の中で、パーカーはチャリティ行事に出演する芸能人を雇うためにテネシー州へ向かい[10]ミニー・パールエディ・アーノルド (Eddy Arnold) たちを呼び寄せた[11]。こうしてパーカーは、協会のためではなく自身のビジネスとして、再び音楽プロモーションに以前より深く関わることになった[10]

1945年、パーカーは常勤のマネージャーとして、アーノルドが稼ぐ収入の25%を得るという契約を結んだ[11]。その後、数年間にわたって、パーカーはアーノルドのレコード制作、テレビ出演、公演活動を支え続けた[11]

1948年、パーカーは、かつてカントリー歌手だったルイジアナ州知事ジミー・デイヴィス (en:Jimmie Davis) の選挙運動に貢献し、デイヴィスからルイジアナ州防衛隊 (Louisiana State Militia) 名誉大佐(カーネル)の称号を与えられた[11]。パーカーはこの称号を生涯を通して使い続け、知人たちの間では、単に「大佐/ザ・カーネル (the Colonel)」で通っていた[11]

1952年トミー・サンズ (Tommy Sands) という歌手に注目したパーカーはすぐにこの若者を売り出しにかかった[12]。パーカーは公演活動を支援し、15歳だったサンズの父親のような存在となった[12]。パーカーは、サンズをロイ・ロジャース (Roy Rogers) の後継者のように育てようとしたが、サンズ自身はそうした目論見に関心は示さなかった。そこでパーカーは、RCAレコードスティーヴ・ショールズ (Steve Sholes) にデモテープを送った[12]。ショールズは、サンズにはほとんど関心を示さなかったが、サンズにふさわしい曲を探すと約束した[12]

パーカーが歌手ハンク・スノウ (Hank Snow) との仕事に時間を大きく割くようになったため、アーノルドはパーカーを解雇した[11]。しかし、その後もパーカーは、アーノルドの公演の多くに関わり、解約と引き換えに5万ドルを支払うようアーノルドに要求した[11]。パーカーとスノウは、その後も上手く協力しあい、後にはハンク・スノウ・エンタープライジズ・アンド・ジャンボリー・アトラクションズ (Hank Snow Enterprises and Jamboree Attractions) を創設し、売り出し中のカントリー歌手であったスノウにとっての成功した宣伝手段とした[11]

エルヴィス・プレスリーとの出会い 編集

1955年、パーカーはエルヴィス・プレスリーという若い歌手の存在に気づいた[11]。プレスリーの特徴はその流行とは異なる歌い方であり、パーカーは即座にプレスリーの先進性と将来性に関心をもった[11]。プレスリーの最初のマネージャーはギタリストスコティ・ムーアだったが、これはサン・レコードの社長であるサム・フィリップスによる、プレスリーをあくどい関係者たちから守るための措置であった[13]。当初、プレスリーは、ムーアとベーシストのビル・ブラック (Bill Black) と共にブルー・ムーン・ボーイズ (The Blue Moon Boys) というバンドを組んでいた。一方でプレスリーがフィリップスと契約を交わした際に、ムーアとブラックは契約の対象とされなかった。フィリップスは2人に対し、自分とではなくプレスリーとの間で個別契約を結ぶよう告げた[14]。ムーアによれば、収入の半分をプレスリーが受け取り、残り半分をムーアとブラックが折半する合意が成立した[14]。ムーアがプレスリーと結んだ単年マネジメント契約は、手数料として収入の10%をムーアに支払うと規定していたが、ムーアは実際にこれを受け取らなかったと述べている。プレスリーたちが最初の録音を行なった8日後にあたる1954年7月12日付の契約書には、プレスリーと両親が署名をしている[14]。この契約が満了したとき、メンフィスのラジオ局のパーソナリティだったボブ・ニール (Bob Neal) が割り込み、フィリップスと契約してプレスリーのマネージャーとなった。この時点でムーアとブラックは、フィリップス及びプレスリーとの契約を失った[14]。ニールがプレスリーの宣伝に苦戦していた一方で、パーカーの接触を受けたプレスリーは1955年2月にパーカーに自身に関する営業活動にまつわる一定の権限を与えることに合意した[11]

プレスリーを宣伝するため、パーカーとニールは運営していた「ハンク・スノウ・ツアー」にプレスリーを加えて公演に出演させた[11]。ニールは依然としてプレスリーの正式なマネージャーであったが、プレスリーへの関与を益々拡大していったパーカーは、1955年夏にはプレスリーの特別顧問に就任した[11]。この時点で、プレスリー自身はまだ未成年であったため、契約には本人だけでなく両親が署名する必要があった[15]。パーカーの役割の中には、より大きなレコード会社との契約を獲得することも含まれていた[11]。プレスリーはデビュー以降サン・レコードに所属していたが、経営者のフィリップスは、プレスリーの成功のためには大企業の支援が必要だと感じていた[11]。しかし、フィリップスはパーカーに対し、プレスリーとの契約解除にあたり、当時の移籍金としては破格の4万ドルを請求した[11]

パーカーは、直ちにプレスリーの新たなレコード会社を探し始めた[11]マーキュリー・レコードコロムビア・レコードも関心を示したが、彼らの提示した条件は、4万ドルには遠く及ばなかった[11]ハンク・スノウが所属していたレーベルであるRCAビクターも関心を示したが、やはり既存の契約解除にかかるコストを考えて、交渉から撤退した[11]。しかし、RCAビクターのプロデューサーであったスティーヴン・ショールズは、然るべきレーベルから売り出せば、プレスリーの楽曲は巨大な売上につながると確信し、パーカーとの交渉を始めた[11]。RCAは、事実上無名の歌手のために2万5千ドルを出すことはできないと明言したが[11]、パーカーは、プレスリーはただの無名歌手ではないと説得した[11]。同じ頃、莫大な移籍金のためにプレスリーの売り込みが失敗する可能性を危惧したパーカーは、代わりに再度トミー・サンズをRCAに紹介した[12]。パーカーはショールズに、サンズならプレスリーのような楽曲を作れるだろうと売り込んだが[12]、以前からサンズを知っていたショールズは提案を却下した[12]

11月、パーカーとスノウはサン・レコードからプレスリーを4万ドルで買い取るようRCAを説得し、21日にプレスリーの契約を正式にサン・レコードからRCAビクターへ譲渡した。この契約の署名に立ち会ったスノウは、彼がパーカーと共有していたジャンボリー・アトラクションズ社とマネジメント契約を結んだものと考えていた。しかし、これは誤解であり、実際にはプレスリーとニールとの契約がまだ有効であった。11月21日に署名されたのは、レーベル間の移籍に関する内容だけであった[16]。経済的にもっと大きな意味を持った取引は、1956年3月にニールとプレスリーとのマネジメント契約が満了した時点で、再契約の放棄にニールが同意したことである[17]。これによりパーカーはマネージャーとして名声を得る機会を手にしたのであった。

エルヴィス・プレスリーのマネジメント 編集

プレスリーとの契約:1956年 – 1957年 編集

1956年3月26日、プレスリーとニールのマネジメント契約が失効した後、プレスリーはパーカーに独占代理権を委ねる契約を締結した[18]。その後、プレスリーとの契約内容についてパーカーに尋ねたスノウは、プレスリーはパーカーと独占契約を結んでおり、自身とは既に無関係であることを知らされた[19]

RCAビクターからの最初のシングル盤となった1956年の「ハートブレイク・ホテル[20]で、プレスリーは、凄まじい人気を獲得した。1956年以降、パーカーはプレスリーを全国的に売り出すべく動き始めた。パーカーは『The Milton Berle Show』や『エド・サリヴァン・ショー』といった人気テレビ番組への出演契約を結び、出演者として最高級の出演料を確保した[21]。この年の夏までに、プレスリーは、最も名の売れた新人のひとりとして、新たな10代の聴衆には大々的な興奮を巻き起こした。一方で一部の年長者や宗教団体には、大々的な怒りを巻き起こした[21]

パーカーは、ビバリーヒルズの映画関連商品販売業者であったハンク・サパーステイン (Hank Saperstein) と、プレスリーをブランド名とすることで4万ドル近い商品化権の契約を結んだ[21]チャームブレスレットからレコード・プレーヤーまで、78種類で展開されたプレスリー関連商品は、1956年末までに2200万ドルを売り上げた[21]。パーカーはその利益の25%を受け取り、アーティストから金を生むための様々な新しい手法を編み出した[21]。パーカーは、「私はエルヴィスが大嫌い (I Hate Elvis)」と書かれたバッジを、プレスリーを嫌う人々にも売ろうと構想していた[21]

4月、パーカーは、プレスリーに関して最初の間違いを犯した。プレスリーに4週間のネバダ州ラスベガスでの公演を設定したパーカーは、ラスベガスに集まる少し年齢層が高くおとなしい聴衆の趣向を読み誤っていた[22]。若者の人気を集めたプレスリーだったが、ラスベガスの中年の聴衆には、何かしら奇妙な存在としか映らなかった[22]。プレスリーを、ピーナッツを欲しがる猿のように叫び声をあげながら腰を振る姿から道化師と見た者もいれば、そのパフォーマンスが粗野で、深夜の紳士向けクラブにふさわしいと思った者もいた[要出典]。数回の出演で極めて冷ややかな反応を受けた後、パーカーはプレスリーの出演を2週間で終した[20]。後にプレスリーは、この出来事を自分のキャリアで最悪の事態のひとつだったと語った[22]

躓きはあったものの、プレスリーの人気はいよいよ勢いを増した。最初にパーカーと接触した頃から映画出演に意欲を示していたプレスリーのため、パーカーはその実現に動いた。やがてパラマウント映画のスクリーン・テストの機会を設け、演技力を印象づけたプレスリーは7本分の出演契約を締結することができた[23]。パーカーはこの契約に少なくとも年に1本は他の映画会社で撮影する権利を認めるという条件を盛り込んだだけでなく、パラマウントの社屋にプレスリー関係者の駐在事務所を設置させた。プレスリーの映画出演は、当初は真剣に俳優としての可能性を追究しようとするものだったが、シングルやアルバムを映画とともに一緒に宣伝できる可能性が出るにつれて、パーカーは作品の中で歌うようプレスリーを説得した。この予見は莫大な売上に繋がり、特に初主演映画『The Reno Brothers』(後に曲名と同じ『Love Me Tender』に改題)からのシングル「ラヴ・ミー・テンダー」は、100万件以上の予約を集めた。1956年末までに、パーカーはプレスリーを世界中で最も有名で最も高い出演料を取る芸能人に仕立て上げた[24]

1957年、プレスリーの生い立ちや活躍を下敷きにしたNBCのドラマ『The Singing Idol』を企画したパーカーは、トミー・サンズを出演させて遂にサンズを大きく売り出した[12]。当初、NBCは、プレスリーに出演を要請したが、パーカーはこれを拒んでいた[12]。作品の中で、パーカーにあたるマネージャー役は、「ひねくれた精神病質者 (twisted psychopath)」として描かれた[12]。批評家たちが本作や主演したサンズを非常に高く評価したことで、サンズは、1週間以内にキャピトル・レコードとの契約に漕ぎ着けた[12]。程なくして、サンズの歌う「ティーンエイジ・クラッシュ」がポップ・チャートの3位まで上昇し、最終的には80万枚を売るヒットとなった[12]

プレスリーの徴兵:1958年 - 1960年 編集

プレスリーは商業的成功を成し遂げたが、パーカーはプレスリーの成功は1-2年しか続かないだろうと信じ込もうとしていた[25]。マネジメント業を始めて以来、パーカーは多数の人々の盛衰を目撃してきた。最も成功した例とはいえ、プレスリーを盛衰の例外だと考えるのは、馬鹿げているように思われたのである。やがて1958年1月、プレスリーはアメリカ陸軍から召集令状を受け取った[26]。プレスリーは、自身の活動に対する兵役の影響に動揺したが、パーカーは密かに喜んだ[25]。パーカーに反抗する姿勢を見せ始めたプレスリーも、陸軍で厳しい扱いを受ければ変化するだろうとパーカーは期待したのである[25]

パーカーはプレスリーを説得して通常の一兵卒として兵役に服させた[25]。特別待遇を望んでいたプレスリーは、特別サービス部隊 (Special Services, SS) に加わり、演奏をしながら他の一般の兵士たちより気楽な任務につくことを望んでいた[25]。しかし、パーカーはプレスリーがいかなる形でも特別待遇の対象となれば、プレスリーの音楽を嫌う人々やメディアから確実に非難されることを予見しており[25]、むしろプレスリーが普通の若者であることを社会に示すことができれば、より多くの人々の関心を引けるだろうと考えた。また少しでもプレスリーmの兵役回避を試みれば、パーカー自身の軍歴が詮索されかねないとも懸念していた[25]。さらにパーカーは、破壊された側の世界(敗戦国などアメリカ軍が進駐した地域のこと)で最も有名な髪型である、陸軍流の髪型に刈り上げられる様を含め、プレスリーの入営準備をメディアに取材させれば、格好の宣伝機会になることも見通していた[25]

プレスリーは機甲科員として戦車に関する訓練を受けたのち、1958年に西ドイツへ赴任した。兵役期間中、パーカーはプレスリーが社会の関心を失わないよう懸命に動き回った。プレスリーの価値を高めておくことで、プレスリーが復帰した際により良い条件で契約交渉に臨めると踏んでいたのである[25]。パーカーはプレスリーの入営前にシングル5作品分の録音を手配し[27]、RCAに2年間シングルを提供し続けた。RCAはプレスリーに西ドイツでも録音をさせようとしたが、パーカーは一兵卒として軍務に就いているプレスリーの評判を失墜させるとしてこれに反対した[27]。兵役期間中もプレスリーは定期的に新聞記事の題材となり、帰国後のテレビでの生放送計画や、テレビで全国中継されるスペクタクル番組の年間契約に合意した等の噂が広められた[27]。いずれもパーカーが意図的に広めた誤報であったが、こうした施策によってプレスリーは2年間注目を集め続けた。

パーカーは、プレスリー不在の間も事態を完全に掌握しているように見えたが、実際は外部から与えられるプレスリーへの影響を心配していた[27]。パーカーはヨーロッパへは渡らず、外国語は話せないと偽っていた[27]。代わりに、兵役期間中のプレスリーの補佐を理由にプレスリーの関係者を派遣し、電話と手紙で頻繁に連絡を取った[27]。パーカーは、25%もの報酬などは求めない他の人物とプレスリーが接触する可能性を危惧していた。また、この時点でも人々が誰か新しいスターを見つけ出してしまうのではないか、自分の金の卵を生むガチョウ(プレスリー)が没落してしまうのではないかと恐れていた[27]

プレスリーの復帰:1960年 – 1965年 編集

陸軍を満期除隊したプレスリーが帰国した1960年3月、パーカーはワシントンD.C.からテネシー州メンフィスまでの列車を手配し、途中の駅に停車するごとにファンたちがプレスリーに会える機会を設けた[28]。もし、パーカーがプレスリーの復帰に一抹の不安を抱いていたとしても、帰路に起こった出来事を知れば、すぐに消し飛んだことだろう。

かつてプレスリーとロックンロールを1950年代の汚点だと公言していたフランク・シナトラは、自身の番組への出演をプレスリーに依頼した[29]。一方でかつての厳しい非難を忘れていなかったパーカーは、8分間の出演で演奏する2曲に12万5000ドルを要求した。この金額は、番組全体への出演に対してシナトラ自身が得ていた総額よりも大きかったが、シナトラはこの条件に合意した[30]1957年1月の『エド・サリヴァン・ショー』以来、プレスリーにとって久々のテレビ出演となったシナトラの特別番組は『en:The Frank Sinatra Timex Show: Welcome Home Elvis(お帰りなさいエルヴィス)』と題された。

特別番組の後、パーカーはプレスリーの将来をハリウッドに託すことにした[29]。パーカーは、プレスリーを、10年間にわたって毎年3本の映画とサウンドトラックを生み出す娯楽機械に仕立て上げようと構想したのである[29]1960年、パーカーはプレスリーに3回のチャリティ公演を行わせたが、うち2件はメンフィスで、1件はハワイで開催された[29]。その後は、1968年までプレスリーは一度も公演を行なわず、ファンとの接触の機会を欠いた[29]。パーカーは映画会社と長期契約を結んだが[31]、これは自分とプレスリーへ仕事と収入を保証する狙いがあったようである。しかしこれは、一方でパーカーにとっては失敗でもあった。もしパーカーが、直前の興行成績に基づいて都度契約を結んでいれば、得られた報酬はより多かっただろう[31]1960年代を通じて、パーカーはプレスリーの契約に関する交渉を続けたが、脚本の内容や制作者側の思惑は殆ど意に介さなかった[32]。パーカーの持ち出す条件には映画会社側にとって無理難題も多かったため、映画プロデューサーハル・B・ウォリスは、「悪魔との契約は止めてしまおうかとも考えた (I'd rather try and close a deal with the Devil)」とこぼしたと伝えられている[32]

プレスリーは、年にアルバム3枚をRCAに提供する義務を負っていたが[29]、映画のサウンドトラックによってこの義務は果たされた。プレスリーは公演を控え、公の場に姿を現すこともなかったため、パーカーの経費を最小限に維持することができた[29]。最初の数年間、プレスリーの映画は一定の成功を収め、アルバム及びシングルもチャートの首位まで上昇した。しかし、世界的現象としてのビートルマニア及びブリティッシュ・インヴェイジョンが始まると、ビートルズローリング・ストーンズがチャートを支配するようになり、プレスリーの売上を減少させた。それでも、プレスリーの映画は利益を生んでいたし、アルバムの売れ行きも好調だった。このためパーカーは、映画の制作経費を引き下げるべく日程管理を厳格にしつつ、問題を極力避けるようになった[31]

行き詰まり:1966年 – 1967年 編集

1960年代後半まで、プレスリーはエキゾチックな設定と平凡な歌に依存した映画を発表し続け、逃れられない契約に束縛されていた。パーカーは、映画の内容ではなく収益のみに強い興味を持っていた[31]。プレスリーが、低質な脚本の改善をパーカーに求めた時、プレスリーの贅沢三昧の生活と、年100万ドルを稼ぎ出せる状況が変わる可能性を指摘した。ビートルズスプリームスローリング・ストーンズボブ・ディランといったアーティストたちがチャートを席巻するようになる中、プレスリーの活動は動きを止めていた。1983年に、パーカーはプレスリーの映画とサウンドトラックから得られた収入が1966年以降は劇的に減少していたことを認めた[33]

業績不振を挽回するため、パーカーはプレスリーの黄金のキャデラック[33]をRCAに2万4000ドルで売却し、最新の映画『フランキー and ジョニー (Frankie & Johnny)』の宣伝のために利用した[33]。このキャデラックのツアーは、映画自体よりも大きな反響を呼ぶ成功を収めた[33]ニューストンでは、ある日の午後だけで、4万人がこの車を見るために入場料を支払い、ある女性はこの車の座席に座れるならツアー・マネージャーとセックスをしてもいいとまで言ったという[33]

1967年1月2日、パーカーは、マネジメント代理契約についてプレスリーと再交渉を行ない、25%だった自分の報酬を50%にまで引き上げるようプレスリーを説得した。この契約について質問した評論家に対し、プレスリーは「70%を取っていくイースト・コースト・エンタテイメントとだって契約したかもしれないぜ! (I could have signed with East Coast Entertainment where they take 70 percent!)」と切り返した[34]。パーカーは、自分にとってプレスリーは唯一の顧客であり、自分はプレスリーからしか収入を得ていないという理屈を述べた[34]

プレスリーが再びパーカーに反抗するそぶりを見せ始めた1966年、プレスリーの人気低下が否めなくなったパーカーは新たな宣伝材料としてプレスリーの結婚を仕掛けた[33]。同年にミア・ファローと結婚して大きな話題を呼んだフランク・シナトラの手法をパーカーはこれを参考にしたのである。プレスリーは既に10歳年下のプリシラ・ボーリューと4年間同棲していたが、その事実は公にされていなかった。ジェリー・リー・ルイスと当時13歳だった従妹との結婚が判明した際、ルイスの人気が大きく低下したことを踏まえ、パーカーは同様の現象を許さなかったのである。

パーカーは、結婚を利用することでプレスリーの人気を再上昇させるだけでなく、プレスリーを従順にさせられると期待していた[33]。既にプリシラの父親が2人の関係を示唆していたため、関係が公になることを恐れたパーカーは、早急に彼女との結婚を決めるようプレスリーを説得した。しかし、彼らの結婚式は平穏なものとはならなかった。パーカーは、結婚式をラスベガスで企画したが[33]、内容はごく簡素なものであった。1967年5月1日に2人はわずかな招待客だけが立ち会った僅か8分間の結婚式を挙げた[35]。メディアが新婚の2人の写真を撮影した後、レセプションとして朝食会が設定された[35]。この結婚式はサーカスのようだったと述べる者もいた。

音楽活動の再開:1968年 – 1972年 編集

音楽界におけるプレスリーの評価を回復させたのは、ミシン製造会社シンガーが提供した1968年のテレビ特別番組『ELVIS』と、これに続いてテネシー州メンフィスで行なわれた一連の優れた録音作業であった。一方で、プレスリーが復帰した1960年代後半の音楽業界と文化は、根本的に変化を遂げていた。「シンガー・スペシャル」の内容に関して、放送予定の1968年12月に合わせてプレスリーがサンタクロースの服装など、クリスマスらしい衣装で登場し、クリスマス・ソングを歌うべきだと強硬に主張した(プレスリーを取り上げた歴史家たちの中には、当初の番組名が『Elvis and the Wonderful World of Christmas』であったと記す例も複数いる。)。プレスリーはかつてのヒット曲を歌うべきと主張したのは、番組プロデューサーだったスティーヴ・ビンダー (Steve Binder) であり、さらにかつてのバンド仲間であるスコティ・ムーアD・J・フォンタナと共演するという提案は、リハーサルを終えたプレスリーの楽屋でなされたものであった。従順にパーカーに従い続けてきたプレスリーは、この番組が音楽活動再開のための重要な機会だ考えており、パーカーに対しビンダーの案を採用すると告げた。これはプレスリーがパーカーに反抗した最初の出来事であった。

プレスリーとビンダーの直感は正しかった。特別番組は大反響を起こし、演奏を収録したアルバムは莫大な収益を上げた。プレスリーの歴史家たちによれば、この特別番組は10年近く舞台から離れていたプレスリーの生演奏に対する意欲を向上させた。放送の後、パーカーは、短期間の全米ツアーや、ラスベガスにおける多数の公演を含め、プレスリーの公演活動への復帰の準備を進めた。ラスベガスでの復帰公演が成功すると、パーカーはラスベガスのインターナショナル・ホテルと、1ヶ月に及ぶ公演を、当時としては前代未聞の週あたり12万5000ドルの報酬で行う契約を交わした。この当時、パーカーとプレスリーは、利益を折半するパートナーシップ関係に合意していたが、グッズ販売などの音楽に関係しない事業を管理していたため、パーカーはプレスリーよりも大きな利益を得ていた。

プレスリーがラスベガスで復帰に成功すると、パーカーは13年ぶりに本格的なツアーを再開すると決断した[36]。ツアーが人気を集め、興行的にも成功して利益をもたらしたことは、プレスリーの人生とキャリアにおける働き方を決定づけた。こうしたツアーにおけるパーカーの主な役回りは、必要な物資の調達を手配し、入場券が確実に売れるようにすることだった[36]。パーカーは、いつも公演の開催地へいち早く飛行機で赴き、到着するプレスリーの受け入れ準備にあたっていた。従ってプレスリーとパーカーが顔を合わせる機会は殆ど無くなり、やがてパーカーにとってもプレスリーとの接触は段々と難しくなっていった[36]。一連の公演活動は商業的に大成功し、パーカーにとって、RCAとのレコード契約にあたる好材料となった。1969年から1972年までの4年間に、RCAはライブ・アルバムを3枚も発売することができた[37]

1972年、パーカーはラスベガスにおけるプレスリーの報酬を週あたり15万ドルに増額、年5万ドルを「ホテル・チェーンのコンサルタント」としての顧問料として支払わせた[38]。またパーカーはプレスリーのニューヨークへの再進出を企図し、6月にマディソン・スクエア・ガーデンでの公演を手配した[38]。もともと3回の公演が計画されていたが、需要の強さを受けて、パーカーは4回目の公演を追加した。プレスリーはマディソン・スクエア・ガーデンを4日続けて満員にした最初のパフォーマーとなった。4公演の売上は73万ドルに達した[38]

1972年7月8日、その数ヶ月前に行なわれたリチャード・ニクソン大統領の訪中に着想を得た[39]パーカーは、世界中の全ての大都市での公演開催が困難であるとして、ハワイから世界に向けて衛星中継を行い、全世界にプレスリーの公演を配信する構想を発表した[40]。プレスリーはその活動期間を通して、1957年カナダの数都市で公演を行った以外、アメリカ合衆国外で活動することはなかった。1972年9月2日にラスベガスで開いた記者会見で、パーカーは同公演の名称「アロハ・フロム・ハワイ」を公表し、1973年1月14日に放送されることを発表した[41]。記者会見では、この「世界中に生中継される最初のエンターテイメント特別番組」を視聴するために、10億人がチャンネルを合わせるとされたが[41]、パーカーはヨーロッパやアメリカの一部を含む多くの国々で、最適な放送時間が生中継に合致しないことに気づかなかった[41]。ラスベガスでの記者会見から2週間後、パーカーはエディ・シャーマン (Eddie Sherman) という『ホノルル・アドバタイザー』紙のコラムニストから手紙を受け取った[42]。シャーマンは、ニュース報道で、同公演は入場券に定価を設定しない代わりに慈善活動への寄付金として任意の入場料を取る予定であることを知った。シャーマンはパーカーに、プレスリーが録音し公演でも演奏している「アイル・リメンバー・ユー」を書いたクイ・リー1966年に死去した後に設立されたクイ・リー・癌財団 (the Kui Lee Cancer Fund) への寄付を提案した[42]。熱心に慈善活動に勤しむプレスリーの姿を宣伝する好機と見たパーカーは、この提案を受諾した[42]。同公演のライブアルバムは世界中で同時発売され、アメリカ合衆国のチャートで首位に立ったが、これは1964年の映画『青春カーニバル (Roustabout)』のサウンドトラック・アルバム以来のことであった[43]

下り坂:1973年 - 1977年 編集

1973年 - 1974年 編集

「アロハ・フロム・ハワイ」が、プレスリーとパーカーにとって最後の偉大な出来事であったことは、やがて明らかになっていった。1973年5月、プレスリーが処方薬への依存し始めたため、プレスリーの父ヴァーノンとパーカーは、薬の供給源を断とうとした[44]。私立探偵を雇って薬の出所を突き止めたパーカーは、薬を処方しないための工作を図った[44]。しかし、プレスリーは直ちに彼が必要とする薬を処方する別の医師を探し出した[44]。後年、プレスリーの関係者の一部は、プレスリーに服用を止めるよう説得することの困難さを述懐した[44]。プレスリーの主治医であったジョージ・ニコポウラスは、しばしば偽薬を処方し、プレスリーの薬品依存を治療しようとした[44]。この方法は短期間効果を見せたが、やがて作為に気づいたプレスリーは、自分に協力する他の医師を探した[44]。パーカーの伝記作家であるアランナ・ナッシュは、パーカーが更なる措置を講じなかったのは、この状況への対処法が分からなかったからであると示唆している[45]。ナッシュによる伝記『The Colonel』は、「当時はまだベティ・フォード・クリニック (Betty Ford Clinic) もなく、治療のためにプレスリーをどこに連れて行くべきか大佐は分かっていなかった[45]。」と述べている。

「アロハ・フロム・ハワイ」の放送後、パーカーは後に法廷において彼がプレスリーにとって最善の利益を追求していなかったことの証拠として使われることになる契約を結んだ[36]。パーカーは、プレスリーの過去の音源に関するの諸権利(バック・カタログ)を、わずか540万ドルでの買収をRCAに提案したのである[36]。当時、プレスリーの音源は高く評価されていなかったため、RCAも当初より低い金額が妥当だと計算していたが、その後これは音楽ビジネスにおける最も価値が高いカタログのひとつとなった。

RCAに対する音源の売却は、プレスリーの死後、1973年以前の楽曲からプレスリーに生じる収入の消滅を意味していた[36]。パーカーのために公平を期すならば、妻との離婚を望んでいたプレスリーが、解決のための資金確保をパーカーに要請していたという事情もあった[36]。プレスリーは音楽ビジネスにおける財務について十分に理解することもバック・カタログの重要性について考えることも無く、この件に関するパーカーの判断を信用していたものと思われる。パーカーも、このカタログに生じる価値の高さを知る由もなかった。

1974年以降、プレスリーは過食によって肥満体型になり、処方薬の乱用も制御できなくなっていた[46]ラスベガスでの公演でも、呂律が回らなくなったり、歌詞を忘れるなど薬物の影響下にあると思わせる姿を見せ始めた[46]1973年9月のある公演では、プレスリーと懇意だったホテルの従業員の解雇を知らされたプレスリーが怒りをあらわにして、バロン・ヒルトン (Barron Hilton) を罵倒するという事態も生じた[46]。パーカーは激怒し、終演後、楽屋に押し掛けてプレスリーと直談判に及んだが、プレスリーから解雇を言い渡される。この発言に激昂したパーカーは「お前は俺をクビにはできない。こっちから辞めてやる!(You can't fire me. I quit!)」と宣言した[46]

パーカーは、契約解除にあたり、プレスリーに以前貸し付けたと主張した200万ドルの返済を求めた[46]。しかし、パーカーが送付した請求書を見たプレスリーの父ヴァーノンは、これに対応できる資金は持ち合わせていないと連絡した[46]。さらに2週間近く互いに罵倒し合ったパーカーとプレスリーは、結局和解に至った[46]

プレスリーの周囲にいた人々の多くは、悪化していく薬物依存を心配していたが、パーカーはこの件を無視しているようだった[47]。後に、プレスリーのバンドのメンバーたちの何人かは、パーカーが事態の重大性を認識していなかったと述べたが、中には、パーカーはどう対処してよいか分からず、また対処することによってな悪印象が生じる可能性を懸念して、この問題の存在自体を認めたくなかったという見解を支持する者もいた[47]。パーカー自身によれば、顧客であるプレスリーとこの件について議論を試みたが、プレスリーから私生活に関与しないよう求められたと述べている[47]

1975年 – 1977年 編集

1975年2月、ラスベガスに滞在していたプレスリーは、バーバラ・ストライサンドジョン・ピーターズに会った[47]。彼らは、映画『スター誕生』で、プレスリーがストライサンドと共演できないか、可能性を探った[47]。遂にシリアスな俳優として認められる機会がきたと考えたプレスリーは、契約の条件が整うのならばこの役を受けると同意した。プレスリーの友人だったジェリー・シリング英語版によれば、プレスリーはこの機会を新しい挑戦として大いに喜んでいたという[47]。ストライサンドの制作会社ファースト・アーティスツは、プレスリーに50万ドルと利益の10%という条件を提示した[47]。プレスリーの映画出演交渉を長年担当してきたパーカーは、提示された条件は交渉の起点に過ぎないと考え、100万ドルと利益の50%、さらに必要経費として10万ドルを要求し、サウンドトラックについて追加の議論が必要だと主張した[47]。こうした巨額の取引に慣れていなかったファースト・アーティスツは再提案を行なわず、主役をクリス・クリストファーソンに依頼することを決めた[47]。後にパーカーは、プレスリー自身が強気の契約を求めたために、制作会社が配役から降ろしたのだと主張したが、プレスリーの友人たちの多くは、プレスリーはこの役を失ったことに激怒していたと述べていた[47]

1975年、パーカーへサウジアラビアから出演料500万ドルを提示する現地公演の依頼が届けられた[47]。パーカーは依頼を断ったが、これに対してサウジアラビアが1000万ドルを再提示したことで、プレスリーは大喜びした[47]。プレスリーが出演を熱望したにもかかわらず、パーカーは再び依頼を断った[47]。南アメリカの興行主たちが提示した出演料250万ドルの提案も、パーカーによって断られていた。「まあ、250万ドルが必要になったら、こちらから電話をするよ」とパーカーは言ったという[47]。プレスリーは、パーカーに代わる新たなマネジメント担当者を検討し始めており、コンサーツ・ウェスト(Concerts West:後にアンシュッツ・エンターテイメント・グループに合流)の共同創立者のひとりトム・ヒューレット (Tom Hulett) が適任だと考えていた[47]。ヒューレットの会社は、プレスリーのツアーの実務を担っており、レッド・ツェッペリンなどのアーティストたちも手がけていた。当時のプレスリーを知る複数の人々が、ヒューレットとの交渉はかなり進んでいて、契約締結は確実だったと語っている。 両者の交渉は、ヨーロッパでのツアーの詳細な計画を含んでおり、ヒューレットと彼の会社は、プレスリーの契約を買収することもできた[47]。しかし、この交渉が契約に結実することはなかった。プレスリーの伝記作家ピーター・グラルニックによれば、プレスリーとパーカーの関係は、「まるで結婚している夫婦のようなもので、大いなる愛情、忠誠心、尊敬によって始まり、それが相当の時間持続した後、様々な段階を経て、プレスリーの人生の終わりまで続いたが、どこかで決別しておくべきものであった。両者の関係の間にあったはずの決まり事は最後にはことごとく機能しなくなっていたが、どちらの側も自分から去る勇気はなく、そうしない様々な理由が両者にはあった」という。いずれにせよ、パーカーは、1977年にプレスリーが死去するまでマネージャーの地位に留まり続けた。

パーカーは、プレスリーが活動を休止して中毒症状に対処する必要があることに気づいていた[48]。パーカーは、プレスリーの父ヴァーノンに休養を提案したが、ヴァーノンはツアーを休止できるような金銭的余裕はないと返された[48]。さらにヴァーノンは、もしパーカーがプレスリーのツアーを続けないなら、新しいマネージャーを探すと言ってパーカーを脅した[48]

1976年、解雇されたプレスリーの元警備員3人は、暴露本の出版を決めた[49]。内幕の詳細が公になることを恐れたプレスリーは、父を通じてパーカーに連絡し、出版を止めさせるよう依頼した。パーカーは出版の阻止に動いたが、その試みは失敗した[49]。プレスリーの友人であったラリー・ゲラー (Larry Geller) によると、実際には密かにこの本の出版を望んでいたパーカーは、プレスリーが自身のひどい状況に気づき、何らかの対処をするための説得を受け入れる状態になることを期待していた[49]。本は、1977年8月に出版されたが、それはプレスリーの死の2週間前のことであった。

その後、プレスリーの死までパーカーは殆どプレスリーに接触しなかった。2人は他人同然のようになっており、プレスリーの契約が売り出されているという誤報が流れた[49]。噂を公に否定したパーカーは、実際にレッド・ツェッペリンのマネージャーだったピーター・グラントに、プレスリーのヨーロッパ・ツアーの手配を依頼していた[49]。プレスリーは海外公演を望んでいたものの、パーカーがそれを実現させたことは一度も無かった。

海外公演がなかったことをめぐって 編集

プレスリーのファンたちの間には、極めて魅力的なオファーがあったと思われるにもかかわらず、プレスリーが一度しか海外公演を開かなかった理由は、パーカーがアメリカ合衆国のパスポートを取得できない、あるいは申請の段階で国外退去にされかねないと恐れていたからだという憶測が流れていた。アメリカ陸軍の退役軍人として、また、合衆国市民の配偶者として、合衆国市民権を申請できる立場にあっても、パスポートの取得に必要な合衆国市民権を申請すれば、これまで注意深く隠蔽してきたオランダ人という事実が暴かれかねなかったのである。

プレスリーは、キャリアを通して、1957年に短いツアーを行ったカナダオンタリオ州トロントオタワブリティッシュコロンビア州バンクーバーのわずか3カ所でしか海外公演を開いていない。いずれにせよ当時はアメリカ合衆国とカナダの国境を越えるのにパスポートは不要だった。バンクーバーのラジオの人気者で、公演の司会を務めたレッド・ロビンソン英語版は、パーカーはプレスリーに同行せずに、ワシントン州に滞在していたと述べている。もっとも、国内ツアーの場合でも、パーカーはプレスリーの全公演に同行したわけではないため、これがプレスリーが海外公演を行わなかった理由にはならないように思われる。

プレスリーが初の海外公演を開く可能性は、1974年オーストラリア公演に100万ドルの報酬が提示されたという報道によって高まったが、パーカーは興味を示さなかった。プレスリーの関係者の間では、パーカーの過去や、パスポートを取得しない理由についての憶測が飛び交った。結局、パーカーは海外からの依頼に応えたいというプレスリーの意向を封殺したが、プレスリー自身も海外での仕事のみに強い関心を持っていなかったことは明記しておくべきであろう[50]

プレスリーが海外公演を行わなかった理由としては、このほかにも以下のような説がある。

  • パーカーが、海外における治安がアメリカ合衆国内よりも悪いと恐れていたこと。
  • パーカーが、外部からの影響(マネージャー、代理人等)を通じてパーカーとの契約内容の実態についてプレスリーが知る可能性を恐れていたこと。
  • プレスリーほどの有名人が公演を行うのに十分な大規模会場がないこと。これらの言い訳は、プレスリーが海外公演に関心を示した際に持ち出された。他者との厳しい対立を嫌ったプレスリーは、こうした見解に反論することはなかった。
  • 興行主たちの中には、ファンたちに1枚100ドルの入場券を売ろうとした。パーカーは、ファンたちが搾取されるのを見たくないと言い、それを海外公演を断る理由のひとつとして用いていた。

プレスリーの死 編集

1977年8月、ツアー出発日の前日に、プレスリーはテネシー州メンフィスの自宅で死去したが、一説にはパーカーは何事もなかったかのように振る舞っていたという[51] 。また別の説では、彼は椅子に崩れ落ちて「なんてこった (oh dear God)」とつぶやき、直ちにプレスリーの父ヴァーノンに連絡を入れ、プレスリーの印象を損なわないよう助言したという[52]

今後の対応を記者に問われたパーカーは、「なぜ訊くんだ。彼をマネジメントし続けるだけだよ! (Why, I'll just go right on managing him!)」と答えた[51]。パーカーは訃報を受け取ると、メンフィスでは無く直ちにニューヨークへ向かい、グッズ販売事業関係の取引先やRCAの幹部と会い、プレスリー関連商品へ生じる巨大な需要に向けて準備するように指示した[51]。その後、直ちにメンフィスで営まれたプレスリーの葬儀に出席。弔問客たちは、ハワイアロハシャツ野球帽を着用して葉巻を吸い、棺を担おうとしないパーカーを見て驚かされたという[51]。葬儀の場で、パーカーはヴァーノンを説得し、プレスリーの死に関わる事業の管理を自分に委ねるという契約に署名させた[51]

1978年9月、プレスリーの一周忌の直前に、パーカーはファンたちの集う「オールウェイズ・エルヴィス (Always Elvis)」という興行を開催し、ヴァーノン、プレスリーの元妻プリシラと共に、ラスベガス・ヒルトンのロビーにプレスリーのプロンズ像を献納した[53]

プレスリーの死後 編集

プレスリーの死後、パーカーは Factors Etc. Inc とプレスリー関係の商品のライセンス業務提携を進め、プレスリーの残した資産を支える安定した収入を確保した[54]。プレスリーはこの会社の22%、パーカーは56%、残りの22%は様々な取引関係者が所有していた[55]。パーカーとプレスリーの間に結ばれた不適切な助言に基づいた合意のために、1973年以前の全音源による収入はRCAが独占することとなり、エステートはもっぱら Factors Etc. Inc からの収入に依存せざるを得なくなった[54]。しかし、パーカーは依然としてプレスリーに支払われる収入の50%を得ていたため、税金を支払った後にエステートの維持のために残される金額は年間100万ドル未満しかなかった[54]

1979年1月、プレスリーが作詞者ないし作曲者として名を連ねた曲の使用料がプレスリーに納入されていないことが判明したが、これはパーカーが、米国作曲家作詞家出版者協会 (ASCAP) や後発のBMIとも契約しないようにプレスリーに助言していたためであった[55]。この分野の専門家たちは、当時これによってプレスリーが逸失した金額は数百万ドルにも上るだろうと推察したが[55]、パーカーにとっても巨額の損失になっていたはずである。

1980年当時、エステートの維持には年間50万ドル程度が必要と見積もられていた[54]。プリシラと遺産管理にあたるトラストは、引き続きパーカーがプレスリー関係の事業に関わることを認め、それが認められるよう法廷で訴えた [56]。しかし、ジョセフ・エヴァンス判事 (Judge Joseph Evans) は、プレスリーの長女リサ・マリー・プレスリーが未成年であったことを踏まえ、法廷弁護士ブランチャード・E・トゥアル (Blanchard E. Tual) を指名して、パーカーのマネジメントについての調査を命じた[54][56]。以前、リサ・マリーの訴訟後見人 (guardian ad litem) に指名されたこともあったトゥアルは、パーカーがプレスリーのマネジメントにあたった全期間について精査し、まずパーカーの50%もの報酬が、業界の平均的な水準である15-20%に比べて法外なものであることを確認した[54]。トゥアルは、プレスリー存命中のパーカーの仕事ぶりについて、特に1973年に過去の全音源に関する諸権利をRCAへ540万ドルで売却したことを、「非倫理的 (unethical)」で、不手際な対処だったと論じた[56]。その後、2回目のより詳細な調査によって、すべての収入は直接にはパーカーに入らず、全額がいったんトラストに入ることをトゥアルは確認した[54]。この時点までに、アメリカ合衆国内国歳入庁 (IRS) は1500万ドル近くの支払いを求めており、エステートは破産の危機に瀕していた[54]。遂にパーカーの悪事が判明したのである。

1981年8月14日、エヴァンス判事はエルヴィス・プレスリー・エンタープライジズ英語版に対し、不適切な管理 (mismanagement) をしていたパーカーを提訴するよう指示した[56]。これに対しパーカーは反訴した[56]。パーカーに対する訴訟は、1983年に法廷外での示談となる。エステートは200万ドルを支払い[56]、5年間にわたってプレスリー関連の事業からパーカーを解任した[54]。また、パーカーは自身が所有しているプレスリーの音源や映像の諸権利を全て放棄せねばならなかった[54]

プレスリーの没後、パーカーはヒルトン・ホテルズコンサルタントとして働いていたが[57]、一部からは、プレスリーがヒルトン・ホテルに出演していた頃にカジノギャンブルで負った借金を返済しているとも見られていた[57]。この役職名を利用し、パーカーは以前と同じ4階のスイートルームに居住し続けたが、1984年にはギャンブルの負債が増えたためにパーカーは退去させられた[57]。しかし、表面上はパーカーとヒルトンの関係は以前と変わらず良好で、パーカーは、ヒルトンによるプレスリーの死去10周年の記念行事を支援した[57]

プレスリー・エステートとの紛争にもかかわらず、パーカーは高名な顧客たちを失うことはなかった。パーカーは、プレスリーの死後に開かれた様々な追悼行事に出席し、1993年アメリカ合衆国郵便公社がプレスリーを讃えて記念切手を発行した際にも姿を見せた。パーカーはエステートとの関係も修復させ、プリシラの招きに応じてメンフィスでの特別な儀式や行事にも出席し始めた[57]。しかし、時には遺族の感情を逆撫でするような、エステートの決定に逆らう発言もした。1994年、リサ・マリーがマイケル・ジャクソンと結婚した後、パーカーはプレスリーが存命であればこの結婚を認めないだろうと発言し[57]1993年にはプレスリーが伝説的存在であり続け、顕著に熱狂的な人気が利益を生んでいることに激昂し、「私がエルヴィスから搾り取ったものなど、彼がいま搾り取られているものには及ばないだろう (I don't think I exploited Elvis as much as he's being exploited today)」と述べた[57]

1994年カリフォルニア州パームスプリングスパームスプリング・ウォーク・オブ・スターズ英語版において、ゴールデン・パーム・スターがパーカーに与えられた[58]

死去 編集

パーカーが公の場に最後に姿を見せたのは、1994年であった[59]。その時点で、パーカーは既に病に冒されており、外出も困難であった。1997年1月20日、パーカーの妻は居間で何かが倒れる音を聞いた。直ちに彼女は居間へ行き、椅子の上で動かなくなったパーカーを発見した。彼は心臓発作を起こしていた[59]

翌朝、パーカーはネバダ州ラスベガスにおいて87歳で死去した。死亡診断書には、出生国はオランダで国籍はアメリカ合衆国と記載されていた[59]。葬儀はヒルトン・ホテルで執り行われ、友人たちやエディ・アーノルドサム・フィリップスといった、かつての仕事仲間が集まった[59]。エルヴィス・プレスリー・エステートを代表してプリシラ・プレスリーが出席し、次の弔辞を述べた。出席者の多くが、以下の文をパーカーの生涯に関する完璧な要約だと感じたという。

エルヴィスと大佐は、一緒に歴史を作り、ふたりの共同作業によって、この世界はより豊かで、より良く、より面白いものになったのです。そして、今や私は自分の財布の場所を確認しておかなければなりません。ここに来るまでチケット売り場はなかったけれど、ここから出て行くまでには、大佐がどこかで料金をとるよう用意しているはずですから。 Elvis and the Colonel made history together, and the world is richer, better and far more interesting because of their collaboration. And now I need to locate my wallet, because I noticed there was no ticket booth on the way in here, but I'm sure that the Colonel must have arranged for some toll on the way out.[59]

私生活 編集

結婚 編集

1935年、まだサーカスの一員として旅をしていたパーカーは当時27歳だったマリー・フランシス・モット (Marie Francis Mott) と出会い、結婚した[60]。マリーは6人きょうだいの1人で[60]、既に2回の結婚歴があり、最初の結婚で生まれた息子を育てていた[60]。当時のパーカーは知らなかったが、彼女には最初の結婚でもうけたもう1人の息子があったが、障害(先天性内反足)のために生まれてすぐに養子に出していた[61]。一部の論者は、パーカーがモットと結婚した目的は彼のアメリカにおける不法滞在を欺くためだったと見ている [60]。子どものいる合衆国市民との結婚によって「出来合いの家屋」をもつことは、彼の過去を隠蔽するのに十分だったというのである.[60]。しかし、恋愛から結婚につながったという以上の事柄を裏付ける証拠は何も見つかっていない[60]

しかし、また別の論者たちは、そもそも2人が法的に結婚した事実を疑っている[62]。パーカーが後年AP通信の取材に応えて述べたところによれば、彼はモットとフロリダ州タンパで、1932年の冬に結婚したというが[62]、フロリダ州政府人口統計局 (the Florida Office of Vital Statistics) には1927年から1946年までの間に該当する記録は存在していない[62]また、他方ではモットが2人目の夫と1936年まで離婚できていなかったという記録もあり、彼女のきょうだいは、パーカーとモットが結婚式らしいことは何もしなかったと述べている[62]。 著作家アランナ・ナッシュは、ふたりが単に聖書に手をおいて「巡回する見世物としての結婚式 (carny wedding)」をやっただけと示唆している[62]

結婚当初、パーカーとモットは、カーニバルなどで一緒に働いていた[62]。パーカーがマネジメント業で働くようになると、彼女は徐々に専業主婦になっていったが、時にはパーカーとともに全国各地への旅に出かけた。1960年代になると、永く健康を害していたモットは認知症の兆候を見せるようになった[63]。かつて自分が知っていた女性が急速に衰えていくことに心を痛めたパーカーは、彼女から距離を置くようになった[63]。彼女は1986年11月に、慢性脳症候群で死去した[64]1990年10月、パーカーは、1972年から秘書を務めていたロアン・ミラー (Loanne Miller) を結婚した[63]。これ以降、パーカーはラスベガスに居を定め、報道陣との接触を避けるようになった。

ギャンブル癖 編集

ダーク・ヴェレンガオランダ語版やアランナ・ナッシュなどパーカーの伝記作家たちの多くは、パーカーのギャンブル癖が常軌を逸するようになっていったのは1960年代半ばのことだったと述べている[54]。妻の健康の悪化や、プレスリーの活動停滞からの精神的開放をラスベガスのカジノに求めたのである[54]。ファンの多くも、伝記作家たちも、パーカーが1969年に、復帰公演の会場としてラスベガスのホテルを選んだ理由は、ホテルのカジノで作った借金の返済だったと考えている[54]。パーカーは、巨額の賭けを繰り返しながら、時に14時間もカジノで過ごすことがあった[54]。プレスリーが死去した1977年には、パーカーのラスベガス・ヒルトンに対する負債は3000万ドルに達していたとも推測されていた[54]。パーカーは生涯に少なくとも1億ドル以上を稼いでいたはずであるが、遺産として残されていたのはわずか100万ドル相当だけであった[54]

関連作品 編集

映画、テレビ映画 編集

パーカーは、様々な役者たちによって演じられている。

チャールズ・ディケンズの古典的作品『クリスマス・キャロル』を現代に置き換えた映画『3人のゴースト (Scrooged)』には、パーカーが言及される場面がある。

1991年の映画ザ・コミットメンツ (The Commitments)』では、バンドのマネージャーであるジミー・ラビット(Jimmy Rabbitte:演じるのはロバート・アーキンズ英語版)が、父親から皮肉を込めて「ジミー・ラビット大佐 (Colonel Jimmy Rabbitte)」と呼ばれる場面がある。

2022年、映画『エルヴィスElvisが公開。トム・ハンクスがパーカーを演じた。

文学 編集

  • ヴィヴェク・ティワリー英語版の『The Fifth Beatle』(2013年)は、ビートルズのマネージャーであったブライアン・エプスタインの小説仕立ての評伝であるが、1960年代半ばにパーカーとエプスタインが会う場面を描いている。そこでパーカーは、貪欲な悪魔的人物として描かれている。この場面は、パーカーによるエルヴィスの管理ぶりと、エプスタインがビートルズに認めていた自由を対比して描いている。この場面で、パーカーは、反ユダヤ主義的人物といても描かれている。ティワリーはインタビューの中で、パーカーは実際にそういったコメントをしていた、と述べている[65]

テレビ 編集

  • パーカーは、アニメ・シリーズ『Archer』の第5シリーズ『Archer: Vice』の第5話「Southbound and Down」でも言及されている。主人公の母親マロリー・アーチャー (Malory Archer) が、自分はクライアントから所得の50%をもらっていると述べたのに対し、ラナ・ケイン (Lana Kane) という登場人物が「あんた何様なの? マム・パーカー大佐? (Who are you, Colonel Mom Parker?)」と応じる。
  • テレビ・シリーズ『新スーパーマン (Lois & Clark: The New Adventures of Superman)』では、登場人物ペリー・ホワイトが頻繁に、クラーク・ケントにとっての自分は、エルヴィスにとっての大佐のようなものだと述べる(とある回では、クラークがキャット・グラントに言い寄られているところで、ペリーがクラークを引き離し、駆け出しのころのエルヴィスがある女の子に恋をして結婚しようと思ったが「大佐が直ちに止めさせた。そんなことをすればキャリアもお終いだし、その娘は彼にふさわしくなかった。俺がいいたいことが分かるか、おまえ。」と言うと、クラークは頷く。また別の回では、クラークが「今年のジャーナリスト賞」を受賞したと聞いたペリーが、直ちにクラークを抱き寄せ、「これでエルヴィスが最初のゴールドディスクを獲った時の大佐の気持ちがわかったよ」と言う。)。
  • スポンジ・ボブ』のエピソード「Hello Bikini Bottom!」には、パーカーのパロディである音楽プロモーターのカーパー大佐(Colonel Carper:声はアンディ・サムバーグ)が登場し、主人公スポンジボブ英語版とその隣人イカルド・テンタクルズにツアーの咄を持ちかける。
  • 原始家族フリントストーン』のエピソード「The Girls' Night Out」では、フレッド英語版が、遊園地でアルバムを録音して、十代のアイドルになる。彼のマネージャー(声はメル・ブランク)は、「大佐 (The Colonel)」と呼ばれる、エルヴィスに対するパーカーを極端に誇張して戯画化した人物である。大佐は、ほかにも「もみあげの長い奴」のマネジメントもしているが、その名前は思い出せない、という[66]
  • ザ・シンプソンズ』のシーズン21、第9話「エイブのすべらない話英語版」には、パーカーへの言及が出てくる。
  • 連続テレビ・ドラマ『Vinyl』では、ボビー・カナヴェイルが演じるリッチー・フィネストラ (Richie Finestra) というレコード・レーベル「アメリカン・センチュリー (American Century)」の社長が、1973年にラスベガスでエルヴィス・プレスリー(ショーン・ウェイン・クラッシュ (Shawn Wayne Klush) が演じている)に会う。リッチーは、エルヴィスに、ラスベガスで歌うのを止めて、キングらしく、新しい創造的な音楽制作に打ち込むべきだと説得する。大佐(ジーン・ジョーンズが演じている)は、リッチーの動きを知ると激怒し、エルヴィスに自分との契約書の話をするが、エルヴィスは銃を取り出して大佐に向ける[67]

出典・脚注 編集

  1. ^ Strauss, Neil. "Tom Parker is Dead at 87; Controlled Presley's Career." New York Times. January 22, 1997.
  2. ^ Osborne, Elvis: Word for Word, p.15
  3. ^ Guralnick, Peter (1995). Last Train to Memphis: Rise of Elvis Presley. Abacus. pp. 168. ISBN 978-0-349-10651-9 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m Victor, Adam (2008). The Elvis Encyclopedia. Gerald Duckworth & Co Ltd. pp. 385. ISBN 978-0-7156-3816-3 
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関連文献 編集

外部リンク 編集