トヨタ自動車

トヨタ自動車株式会社
Toyota Motor Corporation
ロゴ
Toyota Headquarter Toyota City.jpg
トヨタ自動車 本社
種類 株式会社
市場情報
東証1部 7203
大証1部 7203
名証1部 7203
福証 7203
札証 7203
NYSE TM
略称 トヨタ / TMC
本社所在地 日本の旗 日本
471-8571
本社:
愛知県豊田市トヨタ町1(地番)
東京本社:
東京都文京区後楽1-4-18
名古屋オフィス:
名古屋市中村区名駅4-7-1
設立 1937年8月28日
業種 輸送用機器
事業内容 自動車車種一覧を参照)
代表者 豊田章男代表取締役社長
資本金 3,970億円(2008年3月期)
売上高 連結:20兆5295億円(2009年3月期)
単独:9兆2784億円(2009年3月期)
営業利益 連結:-4610億円(2009年3月期)
単独:-1879億円(2009年3月期)
純利益 連結:-4369億円(2009年3月期)
単独:-566億円(2009年3月期)
純資産 10兆0612億円(2009年3月期)
総資産 29兆0620億円(2009年3月期)
従業員数 連結:32万808人(2009年3月期)
決算期 毎年3月31日
主要株主 日本トラスティ・サービス信託銀行 6.08%
日本マスタートラスト信託銀行 6.05%
豊田自動織機 5.55%
主要子会社 トヨタ車体 100%
豊田中央研究所 54.00%
関東自動車工業 100%
ダイハツ工業 51.19%
日野自動車 50.11%
他多数
トヨタグループも参照
関係する人物 豊田佐吉(創業者)
豊田喜一郎(創業者)
張富士夫(取締役会長)
渡辺捷昭(取締役副会長)
岡本一雄(取締役副会長)
外部リンク http://www.toyota.co.jp/

トヨタ自動車株式会社(トヨタじどうしゃ、英称:Toyota Motor Corporation)は、愛知県豊田市トヨタ町1番地に本社を置く自動車メーカーである。東京都文京区の東京本社をはじめとして世界各地に拠点を有する。

概要

日本自動車メーカーであり、日本の企業。2007年(平成19年)の世界販売台数はゼネラルモーターズの方が多い[1]2008年(平成20年)には世界金融危機の中で897万2000台と前年より4%減少したものの、アメリカゼネラルモーターズがそれ以上に落ち込み835万5947台にとどまったため逆転、世界で最も多く生産し販売する自動車メーカーとなった[2]。また、ダイハツ工業日野自動車の親会社で、富士重工業の筆頭株主でもある(株式保有比率17%)。

通称「トヨタ」(日本のテレビ局・ラジオ局では、2005年(平成17年)7月より「トヨタ自動車」を改めこの呼称を使用(「レクサス」ブランドを併用するようになったため))、英語表記「TOYOTA」。トヨタグループ内では「TMC」の略称で表記される。本社がある豊田市は、日本有史以来「ころも」であり、また奈良時代以来「挙母」と表記、江戸時代には挙母藩も置かれ明治以降は挙母町、その後挙母市となった歴史ある地名であったが、1959年(昭和34年)にトヨタ自動車に合わせて「豊田市」と改称された。2009年(平成21年)6月23日に豊田章男が代表取締役社長に就任し、豊田家出身としては4人目の社長となった。

歴史

トヨタ初の量産乗用車であるAA型復元車
トヨタi-unit(高速姿勢モード)
トヨタPM

豊田佐吉(人名は「とよ」と濁る)が創業した豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)に、1933年(昭和8年)9月に開設された自動車部が起源である。この設立の中心になったのは佐吉の息子である豊田喜一郎であるが、初代社長に就任したのは佐吉の娘婿で喜一郎の義兄である豊田利三郎である。織機製作における鋳造・機械加工技術等のノウハウを活かし、研究期間を経て1935年(昭和10年)に自動車製造を開始。1937年(昭和12年)に独立した新会社「トヨタ自動車工業株式会社」が設立された。

創業当時の社名は「トヨダ」、ロゴや刻印も英語では「TOYODA」でエンブレムは漢字の「豊田」を使用していた。しかし、1936年(昭和11年)夏に行われた新トヨダマークの公募で、約27000点の応募作品から選ばれたのは「トヨダ」ではなく「トヨタ」のマークだった。その理由としては、デザイン的にスマートであること、画数8画で縁起がいいこと、個人名から離れ社会的存在へと発展することなどが挙げられている[3]1936年(昭和11年)9月25日には「トヨタ(TOYOTA)」の使用が開始され、翌年の自動車部門独立時も「トヨタ」が社名に採用された。

ちなみに本社所在地の豊田市の地名は有史以来「ころも」であり、奈良時代以降約1,300年間挙母と称されて来た歴史ある土地であったが、トヨタ自動車に拠り1959年(昭和34年)に「とよた」にあらためられた。本社所在地の表示は、「挙母市大字下市場字前山8番地」から「豊田市トヨタ町1番地」に変わった[4]

利三郎は太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)に会長に退き、第2代社長には創業者の喜一郎が就任した。太平洋戦争時は陸軍用のトラックを生産したが、物資不足のため簡素なものだった。 愛知の工場は米軍による爆撃が予定されていたが、その前に終戦となる。戦後の1950年(昭和25年)、ドッジ・ラインに伴うデフレにより経営危機に陥り豊田喜一郎社長は辞任。朝鮮戦争勃発で軍用トラック特需があり倒産を回避、同時に技術者の中村健也の監督のもと、国産自家用車の開発を開始。

帝国銀行(後の三井銀行、現・三井住友銀行)を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のためにトヨタ自動車販売株式会社(「自販」と略された)が設立された。これを工販分離という。この時に、融資に協力した三井銀行と東海銀行がメインバンクとなる。逆に貸付金の回収をした、三菱銀行と住友銀行は三菱は東京銀行と、住友は三井銀行と合併するまで50年も口座の開設・取引をされることはなかった。

喜一郎の後を継いだ石田退三社長の時代にはクラウン1955年(昭和30年))、コロナ1957年(昭和32年))、パブリカ1961年(昭和36年))などロングセラーカーを開発し、販売網の整備を推し進めた。1956年(昭和31年)クラウンがロンドン-東京間を走破、国産自動車メーカー各社の自信となった。その後中川不器男社長時代にはスポーツ8001964年(昭和39年))、カローラ1966年(昭和41年))、ハイエース2000GT1967年(昭和42年))などを発売した。

豊田英二社長の時代にはセンチュリー(1967年)、スプリンターマークII1968年(昭和43年))、カリーナセリカライトエース1970年(昭和45年))、スターレット1973年(昭和48年))、タウンエース1976年(昭和51年))、ターセルコルサ1978年(昭和53年))、カムリ1980年(昭和55年))、ソアラ1981年(昭和56年))などを投入し、公害問題や排ガス規制などに対処した。販売面では1980年にビスタ店を設立し、トヨタ店トヨペット店カローラ店オート店1998年(平成10年)に「(旧)ネッツ店」に改称)とともに「販売5チャネル体制」を確立した。

1982年(昭和57年)にトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売は合併、現在のトヨタ自動車株式会社となった。新会社の社長には喜一郎の長男・豊田章一郎が就任し、佐吉の甥である英二は会長に退いた。国内市場では1982年のビスタマスターエース1984年(昭和59年)のハイラックスサーフMR21985年(昭和60年)のカリーナED1986年(昭和61年)のスープラ、1989年のセルシオ1990年(平成2年)のエスティマ1991年(平成3年)のウィンダムなど次世代のトヨタを担う車種を投入し、販売高トップの座を不動のものにした。

1992年(平成4年)に章一郎は社長を退き、弟の豊田達郎が社長となった。しかし、バブル経済の崩壊は自動車業界を直撃し、トヨタもその影響を受けた。バブル崩壊後の不況の中、1995年(平成7年)に達郎は高血圧で倒れ、副社長の奥田碩が社長職を継いだ。奥田は業績が下り坂になりつつあったトヨタを再生させ、1999年(平成11年)のヴィッツ発売を機に張富士夫に社長の座を譲った。2003年(平成15年)3月末集計における従業員数は65,551人、トヨタグループ連結子会社の合計は 264,096人で日本最大、世界では第三位の企業規模となった。2004年(平成16年)には、旧ネッツ店とビスタ店が統合され、新生・ネッツ店として再出発した。

2005年(平成17年)にはトヨタ町の本社新本館が完成し地上14階、地下2階の一面ガラス張りの現代的な建物が完成。8月にはレクサス店の日本導入を果たした。同年には渡辺捷昭社長が就任。10月、ゼネラルモータースが保有していた富士重工業株(約20%)のうち8.7%を取得し筆頭株主になった上で、提携を結ぶことを発表。2007年(平成19年)には名古屋駅前にある豊田ビル・毎日ビルの建替えによる再開発で建設されるミッドランドスクエア内に新しい名古屋オフィスが完成し、元名古屋ビル、JRセントラルタワーズオフィス、本社機能の一部と名古屋市内と東京本社からそれぞれ日本国内・日本国外の営業部門が移転した。自動車生産台数が世界一となる。

しかし2008年(平成20年)に起こった一連の金融危機が直撃し、2009年3月期の営業利益が58年ぶりの赤字に転落[5]トヨタショックとまでいわれている。その一方で世界販売台数は897万2,000台となり、前年の生産台数に続いて世界一の座を奪い取った。それまで生産台数世界一を77年間維持していたのはGMだった。また、2009年(平成21年)には本社内にスタジオジブリの新スタジオを設置するなど、新たな試みも模索されている[6][7]

代表取締役

歴代社長

創業家としての豊田家の存在

「豊田家はトヨタグループの求心力であり、旗でもある」(当時の奥田会長談)とあるように、創業者一族である豊田家はトヨタグループ各社の中核を担う。創業家の長期に渡る介入は、しばしば経営に混乱をもたらすことがあるが、トヨタの場合はむしろ巨大グループを安定的にまとめ上げる役割を果たしてきた経緯があるとされる。現職者・関連企業役員は下記のとおり。

豊田家系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田佐助
 
 
 
豊田平吉
 
 
 
 
浅子
 
(1)豊田佐吉
 
たみ
 
 
 
 
三井高棟
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田稔
 
豊田芳年
 
豊田英二
 
豊田利三郎
 
愛子
 
(2)豊田喜一郎
 
三井高長
 
興子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊田周平
 
豊田鐵郎
 
豊田幹司郎
 
豊田大吉郎
 
豊田達郎
 
(3)豊田章一郎
 
博子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4)豊田章男

※丸数字は豊田本家の代数

企業文化

豊田章一郎は社長時代にトヨタの企業文化について次のように語った。

「何かを決めるまでに時間がかかる。でも、決断したらとことんやる」

豊田章一郎, 産経新聞』「from Editor」〈F1をめぐる「男の涙」〉2009年(平成21年)11月16日 月曜日 12版 6面

経営

前述の1950年(昭和25年)の経営危機を教訓とし、「改善(カイゼン)」、ジャストインタイム(JIT、カンバン方式)、トヨタ生産方式等の生産・経営のノウハウを確立した。また販売を重視し、銀行融資に頼らず自己資本の充実に努め、名古屋式経営の見本ともされる無借金経営で優良企業の代表的企業とされる。しかしこれはあくまで単独会計の場合であり、連結子会社においては有利子負債が相応に存在し、また顧客貸し出し(自動車ローン)事業をおこなう金融子会社が存在するため、連結決算においては企業規模相応の有利子負債(約12兆円)が存在する。一方で、単独会計で約6.6兆円(これはスイスの単年度国家予算に匹敵する)、連結では約10兆円(ともに2009年3月期)もの多大な自己資本を抱え、トヨタ銀行とも称される。2002年3月期の通期決算において日本企業初の連結経常利益1兆円を超え、さらに2004年3月期の通期決算では、連結純利益(米国会計基準)でも日本企業初の1兆円超えを達成した。そして2007年3月期連結決算(米国会計基準)では営業利益が2兆2,386億円となり、6年連続で過去最高を更新した上に日本企業として初の2兆円の大台を突破しマスコミから絶賛された。

近年では社会貢献活動に力を入れており、2006年(平成18年)1月からトヨタ社内に「社会貢献推進部」を設置し、交通安全や中国での植林活動、人材育成、自動車のリサイクルなどの環境への貢献などの社会貢献活動を積極的に行っている。

1999年(平成11年)に、東京モーターショー出展のコンパクトカー“ファンタイム”を基に開発された新車種ヴィッツの爆発的ヒットを皮切りに始まった新路線と、2005年(平成17年)3月より9月まで愛知県東部丘陵地区(豊田市、長久手町(現長久手市)、瀬戸市)にて開催された国際博覧会愛・地球博」による東海地方の経済効果、また、2000年代前半における中小企業の徹底的な経営改善などが功を奏した。

しかし、2008年(平成20年)は原油高世界金融危機による不景気により生産・販売台数が大幅減、一部の生産ラインで連続2交代から昼勤への勤務体制の変更を余儀なくされ、2009年(平成21年)3月期連結決算では前年比約73.6%減の約6,000億円の見通しとされている。これにより渡辺社長は2008年度末で退任した。

開発思想

初代カローラ1100デラックス(KE10D)

開発に6年を費やして1961年(昭和36年)に発売された700ccの小型大衆車・初代パブリカは、基本コンセプトとして低廉化・経済性を実現するため、徹底して合理的に設計され、実用車としての完成度は高かった。しかし、「せっかく購入するのだから少々高くても」という消費者心理を掴み切れず販売は不振であった。この不振を分析し、ラジオやヒーター等を装備したデラックスモデルを加えた結果、販売台数は増加した。これを踏まえて、トヨタの80点主義と模倣容認との思想が生まれる。

80点主義とは、1966年(昭和41年)に発売された初代カローラの開発主査である長谷川龍雄が打ち出した考え方である。商品の完成度を高める一方で、一部の飛び抜けて優れた機能や性能を追いかけることなく、まず全ての項目において最低でも80点を目指し、及第点に達したのち更に上の点数を順次達成していくトータルバランスを念頭に置いた企業思想である。のちに、この80点主義は80点主義+アルファとなり、旧車種や他社への差別化戦略へと移行していく。

この「80点」という言葉が、各界からは頻繁に「完璧でない、手を抜いた車作り(=完成度は80点でよい)」という批判に用いられる。「80点主義」に対する批判はその提唱からまもなく現れた。

マスメディアに登場する経済評論家や自動車評論家をはじめ世間からも、トヨタの「80点主義」は「80点で良いという考え方」と評価されるケースがほとんどである。それでも自動車の性能は世界でも高い水準にあるが、ブランドイメージの向上にはマイナスとなった。

技術力

1950年代から品質管理に力を入れてきた。たとえば、ドアやトランクリッドなどと外板の隙間[8]を狭く均一に仕上げる技術や、ドアの閉まり音、遮音性など、ユーザーにも容易にわかる部分の品質管理には定評がある。手堅い既存技術をブラッシュアップし、低コストで比較的質の高い製品を作る技術に長けており(←ものづくり)、顧客満足度は高い[9]

1970年代後半から小型乗用車の前輪駆動化が世界的に進行した際、トヨタは前輪駆動を主力車種カローラやコロナに採用する前に、新車種「ターセルコルサ」や、改良型の中級小型自動車「カムリビスタ」など主力外車種での経験を踏まえた上で、なおかつ、顧客の反応を見るために従来型である後輪駆動車と併売を経て本採用する、という慎重ぶりであった。

また、ヤマハ発動機からは高性能型DOHCユニットの供給を、本田技研工業からは希薄燃焼システムや排ガス浄化システム(CVCC)の技術供与を受けるなど、高度な技術や、排出ガス対策などの緊急を要する技術に関しては同業他社に援助を請う場合もあったが、受け入れた技術に量産に見合う改良を施すことにかけては実力を発揮する傾向がある。燃焼効率の向上を企図した狭角配置の多バルブDOHCエンジン(ハイメカ・ツインカムと呼ばれる。1986年(昭和61年)に市販開始)の開発と、量産車への搭載などはその一例である。

1990年代後半、トヨタが先陣を切って普及させた技術としては、内燃機関における吸気時期電子制御システム"VVT-i(Intelligent Variable Valve Timing Control)"がある[10]。これは従来、エンジン機関の全体的回転タイミングによって吸気していたものに代え、電子制御により強制的適量吸気を実現したもので、国土交通省(旧運輸省)低排出ガス車認定基準へのほとんどの車種の適合を実現した一要素である。日産自動車NVCSや富士重工業のAVCS、本田技研工業のi-VTEC三菱自動車工業MIVECなどは同種のシステムである。

1990年代の業界再編期を経た現在は、グループ内各社との共同開発が一般的となっており、小型車用エンジンの新規設計や一部の小型車の企画ではダイハツ工業の、トラック開発では日野自動車の参画を得ている。燃料電池車や動力分割式ハイブリッドカーの開発では、部品供給で関係の深かった松下グループと連携し、また、欧州では知名度が今ひとつのためもあり、モータースポーツの世界最高峰に位置するF1に参戦するなど、最先端の技術開発・実用化に取り組んでいる。G-BOOKG-BOOK ALPHAと呼ばれる情報通信システム[11]は、本田技研工業のインターナビに登録者数で負けているが、グループ外他社に供与し、更に利用料を無料にするなど挽回策を図っている。

北海道士別市に巨大なテストコースを持っており、高速域や極寒冷下での試験などをはじめ、日本国外向け商品の開発にも多面的に取り組んでいる。

2005年(平成17年)8月30日に国内に投入した高級車ブランドレクサスは、当年目標の6割と販売は振るわなかった。これには、これまでのセルシオの事実上の4代目次期型としてブランドの旗艦たる新型LSの導入が遅れたことも要因の一つであるが、トヨタ自身はそれほど深刻に受け止めていない。また世界初のFRハイブリッド車を発売し、新型LSへもハイブリッド車を設定するなど、レクサスへのハイブリッド技術の導入にも積極的である。

トヨタはロボット技術にも力を入れている。ロボット事業を将来の中核事業と位置付けており、実際に事業化する事を前提に積極的な開発が行われている。各地で行われるイベントでも家庭内や介護医療で使われる事を想定したトヨタ・パートナーロボットをお披露目している。

2006年(平成18年)、トヨタの研究開発費は2位の米製薬会社ファイザーを抑え、世界一であった。[12]

販売戦略

ブランド

トヨタ

創業当初から、全国各地の地場資本に協力を求め、早期に販売網を整備していた。この結果培われた営業網の強力さは「販売のトヨタ」と言われている。現在、日本国内では4系統のディーラー網を傘下に持つ。

これは喜一郎に請われ1935年(昭和10年)にトヨタに移籍した日本ゼネラル・モータース販売広告部長であった神谷正太郎(トヨタ自販初代社長)が、米国ゼネラルモーターズ流の販売方法を取り入れたためである。神谷は日本GMにおいて日本での自動車販売網を整備し、オートローンもはじめるなど、米国GM流儀を日本において徹底させ、戦前の日本自動車市場をフォードと二分していた。

神谷はトヨタの販売責任者となってからは、GM方式を活かしつつ、戦時体制に伴うアメリカ車輸入・国内組み立て停止に乗じ、GM、フォードが開拓していた各道府県のディーラー網を自社ディーラー網として組織化し、巧みに取り込んでいった。この作戦は戦後、自動車製造・販売が再び許可されてから大きく役立てられることになる。

その成功はまず商用車から始まった。1954年(昭和29年)に発売された1000ccのSKBトラック[13]は簡素なセミ・キャブオーバー型トラックだが、当時日本国内の市場を席巻していた三輪トラック(オート三輪)へ対抗した商品であり、あえて戦略的に低価格で販売したことで、大きな成功を収めた。これをきっかけに、日本の小型トラック市場は、三輪から四輪に移行することになる。

また、1955年(昭和30年)に発売された初代クラウンは、前輪独立懸架や低床シャシーなど、一応ヨーロッパ車並の構成を採った最初の日本製量産車となった。以後クラウンは、国内専用車として独特の発展を遂げ、日本国内の保守的な階層や官公庁用の車両、各種事業用車両としてドメスティックに定着し、2000年代前半からは中国などでも本格生産が開始されている。

1960年代以降は、手堅い保守的設計で排気量やボディサイズにゆとりを持たせ、多くのオプションを用意するという戦略で、競合他社を圧してきた。

1989年(平成元年)に「新しいトヨタが走り始めます」というキャッチコピーでトヨタの新時代・新しいトヨタマークを大々的に宣伝した。国内仕様車では車のフロントグリル等に、車種ごとに異なるエンブレムを装着[14]している。

レクサス

レクサスの広告塔(東京渋谷

1989年、アメリカで高級車ブランド「レクサス」(LEXUS )を創設し、大型高級セダンの「レクサス・LS」(日本では後に「トヨタ・セルシオ」として発売)と「レクサス・ES[15]を発表した。従前、米国トヨタの最上位車種はクレシーダ(日本におけるトヨタ・マークII)であり、トヨタブランドで高級車種を販売することには限界があるとの判断からだった。開業後、日本の大衆車メーカーの参入余地がないと見られていた北米高級車市場でたちまち成功をおさめ、メルセデス・ベンツをはじめ、BMWキャデラックなど欧米の高級車メーカーに強い衝撃と影響を与えた。

世界各国で販売開始された後、日本国内にも展開されることになり、2005年(平成17年)8月30日に日本国内向けレクサス・ブランドとして、GSシリーズ、ISシリーズとSCシリーズの3系列投入で発足した。ISシリーズは1か月遅れの2005年9月28日から発売した。高級車ブランドとしてはメルセデス・ベンツ、BMWに次ぐ販売台数であった。ちなみに、展開前にもレクサスブランドを露出することはあり、その代表にウィンダムを挙げることができる。同車は発売当初から日本国内でのキャッチコピーとして「レクサス ES300」を名乗っていた。日本国内での展開には、一部販売網の再構築やマスコミ各社へ積極的な露出を図ったものの販売台数は予定の約6割にとどまったとされている。2006年(平成18年)9月19日にはレクサスの旗艦車種であるLSシリーズが発売された。しかし依然、販売台数は伸び悩んでいる。

サイオン

サイオンSCION )はアメリカの若者向けのブランドで2003年(平成15年)に開始。いわゆる「ジェネレーションY」と呼ばれる20代前半の若い世代をターゲットとする。トヨタの主要顧客は概して年齢層が高く、若年層の取り込みが課題であった。商品開発思想や広告展開まで新しい手法を用い、従来の“退屈なトヨタ車”のイメージを覆すことを狙った。クールでスタイリッシュな「ファッション性」を商品力とし、あらかじめ多様なカスタマイズを用意することで「個性化」を呼びかけた。マス大衆)にもアッパーにも属さない新しいカテゴリの開拓を狙う。開始当時の車種はxA[16]、xB[17]で、後に日本未発売のクーペtCが追加された。

「販売のトヨタ」

トヨタは、1950年代後半から60年代にかけて、クラウンコロナパブリカの乗用車3車種を相次いで発売、乗用車の基本ラインナップを構築した。

さらに1960年代後半からは、それぞれの車種がモデルチェンジにより大型化、上級化するに従って、中間モデルを充実させることに力を入れた。すなわち、パブリカとコロナの中間にはカローラを、コロナとクラウンの中間にはマークIIを配し、カローラとコロナの中間にカリーナおよびセリカを配した。車種追加により、パブリカをエントリーモデルとし、カローラ、コロナ、マークII、そして最高峰ブランドのクラウンに至るまでのピラミッド型(あるいはヒエラルキー型)商品展開を完成させたのである。

これは日本的な年功序列終身雇用といった慣例的制度に支えられ、日本のサラリーマンたちに昇進・昇給が約束されていた時代には、より上位モデルへの買い替えを促すシナリオでもあった。1980年代に用いられたいつかはクラウンというキャッチコピーは、トヨタの販売戦略を端的に表す。一方、販売店系列の整備がすすむと、系列別に同一シャシ・同一ボディでありながら若干意匠を変えた「兄弟車」[18]を投入することで、系列間の競争を促し、さらなる拡販を試みた。

また、全国に配置した販売会社はすべて地元の商業資本との提携で設立しており、他社が販売会社の再編成を余儀なくされた1990年代以降にあっても、各都道府県に密着した手堅い販路を堅持し続けており、地元企業などの社用車需要はもとより、それに付随して個人(自家用車)需要に対してもトヨタ車の販売を強力に支えるバックボーンとなっている。

このような商品展開と販売会社構成など、顧客の動向を重視する経営姿勢は1960年代、日本のモータリゼーションが始まったころは、「技術の日産」に対して「販売のトヨタ」と評された。

多様化するマーケット

近年では、自動車産業と先進国における市場の成熟、社会環境の変化、世代交代や価値観の変容などを受けて、トヨタの商品も多様な変化に富んだ広範な展開を見せている。

1985年(昭和60年)、4ドア車でありながらクーペ並みに全高が低く、徹底的に耽美性を追求したハードトップ車カリーナEDを発表し大ヒットした。自動車評論家の評価は芳しくなかったものの、その後、国内各社から同種のハードトップ車が続々と登場するきっかけとなった。

1997年(平成9年)、「21世紀に間に合いました」というフレーズで世界初の動力分割式ハイブリッド車、プリウスを市場に送り出した。業界では時期尚早と見られていた「エコカー」を、他に先駆けて成功させた。また同年発表しヒットモデルとなったハリアーは、クロスオーバー車、高級SUVという新たなジャンルを生むことになり、その後他社がこぞって追随した。また、本田技研工業に続き南米市場向けにフレックスエンジン車を投入する。

1999年(平成11年)に登場したヴィッツは、日本で長く衰退状態だったコンパクト・カーが復権するきっかけとなり、後にこのセグメントは大きな市場へと発展する。北米においては、従来苦手としてきた若者向け車種と、かつて経済摩擦を起こした経緯から一時注力を手控えてきた「ピックアップ・トラック」の各分野における拡販を試みている。2002年(平成14年)に若者向け銘柄の「サイオン」をスタートさせ、2006年(平成18年)には、フルサイズ・ピックアップ・トラックの最大市場であるアメリカテキサス州で、タンドラ生産を開始し、フルサイズ・ピックアップ・トラック市場へ本格参入した。

中国戦略

第一汽車集団と包括提携関係にある。また、2004年(平成16年)9月には広州汽車集団との間でも合弁会社を設立した。

モータースポーツ

フォーミュラカースポーツプロトタイプGTツーリングカーラリーなど様々なカテゴリのレースに参加してきた。世界ラリー選手権 (WRC) では1990年代に7つのタイトル(ドライバーズ4回、マニュファクチャラーズ3回)を獲得した。

また、草の根レースの振興にも力を入れており、ナンバープレート付き車両で参加できるネッツカップを開催している。

幻の航空機計画

トヨタは戦前航空機を開発していたことが明らかにされている。

戦後にも航空機製造の禁止解除をにらんで航空機分野への進出を企画していたが、立川飛行機から招いた長谷川龍雄技師から現状のトヨタの体制では無理という旨の意見を聞き、断念している。

1999年(平成11年)3月4日に子会社のエアフライトジャパン社に、エンジン燃料系統に改造を加えたパイパー機に試験飛行を行わせた。しかしながら、改造に対して十分な配慮がなされていなかったため、エンジンが停止し海上に墜落、搭乗者3名全員が死亡した。提携関係で同社が筆頭株主富士重工業航空宇宙部門を持っていること、最近では三菱重工業が主体となっている国産旅客機MRJに対して資本参加を発表したことから航空産業への思い入れが垣間見られる。

鉄道車両製造

1950年代 - 70年代、トヨタ自動車工業本社工場や元町工場から名古屋鉄道三河線土橋駅への専用線では、多くの小型ディーゼル機関車が運用されていた。これらの機関車は日本輸送機加藤製作所日本車輌の製造であったが、一部の機関車はトヨタ自動車工業で自社製造され、名古屋鉄道の車籍を有していたものもあった。その中にはガソリンエンジンを動力源とした機関車(GB10形)も存在したという。 これらのトヨタ製の機関車は、トヨタ自動車工場内専用線のみで使用されたものであり、台数、運用範囲も限定され、他の鉄道会社では使用されなかったようである(トヨタ製のエンジンを用いた各地の森林鉄道鉱山鉄道などの機関車は存在したが、トヨタ自動車の製造した機関車では無い)。

一般的な鉄レールの鉄道車両ではないが、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)では、トヨタグループ開発の磁気誘導式の無人バスシステム「IMTS」が長久手会場に会場内交通手段の一つとして設置され、法的に鉄道(磁気誘導式鉄道)として取り扱われた。

研究開発拠点

日本国内

日本国外

アメリカ

ヨーロッパ

アジア・太平洋

生産拠点

国内

直営

注:第三製造部のみレクサスセダン専用工場となり、技能員の制服・制帽も他とは異なる。

*工場コード および過去 - 現在の主な生産車両について
*第一製造部 1A組立ライン:A51 ランドクルーザー/ランドクルーザープラド/GX470
*第一製造部 1B組立ライン:A52 AE86トレノ/AE86レビン/ハイラックスピックアップ等
(現在は完成車組立ライン解体の上、1A組立ライン向けの部品順建ライン化により消滅。)
*第二製造部 2C組立ライン:A53 初代セルシオ/ソアラ等
(現在は完成車組立ライン解体の上、1A/2D工場向けのエンジン順建ライン化により消滅。)
*第二製造部 2D組立ライン:A54 AE86トレノ/AE86レビン/セリカ/カリーナED/RAV4/ヴァンガード等
*第三製造部 3E組立ライン:A55 レクサスLS/GS/IS/IS-F

子会社・関連会社運営(車両生産工場のみ)

日本国外

(26ヶ国、51社[4] (PDF)

北米

中南米

ヨーロッパ

アフリカ

アジア

オセアニア

中近東

車種

トヨタ自動車は車種一覧については別項にて参照されたい。[20]

トヨタグループの関係会社等

トヨタは、戦後すぐに経営危機に陥った時に、日本銀行名古屋支店の斡旋で東海銀行と(旧第一銀行分離後の)帝国銀行の支援を受けた関係から、東海銀行(後のUFJ銀行、現在の三菱東京UFJ銀行)の他、三井銀行(旧帝国銀行、後の太陽神戸三井銀行→さくら銀行、現在の三井住友銀行)を主力取引銀行(メインバンク)としてきた。二木会(三井グループ)にはオブザーバーとして参事し、二木会・三井業際研究所(二木会直轄のシンクタンク)・綱町三井倶楽部(グループ各社の部課長クラス以上・OBを会員とする親睦クラブ)に加盟している。また、豊田章一郎トヨタ自動車名誉会長の妻は三井家の出身である。

住友銀行および旧三菱銀行はトヨタが危機に陥った際、真っ先に貸出金の回収に走り取引を打ち切った(住友銀行の記事参照)。そのためトヨタ内では住銀は「仇」と看做されてきた。現在「恩人」であった旧さくら銀行と住友銀行が合併しているため、三井住友銀行との関係は以前より疎遠になっているという指摘もある。しかしながら、トヨタはどちらかといえば独立系であり、旧六大企業グループ(三井二木会、住友白水会三菱金曜会芙蓉会三和三水会第一勧銀グループ)1つ分に匹敵する「トヨタグループ」を形成しており、三井住友銀行との疎遠が経営に影響を及ぼすことはない。

ディーラー

他のメーカーが全店舗全車種扱いに移行していく中、依然としてトヨタ自動車はディーラーごとに取り扱い車種が異なる。特にネッツ店は、トヨタ4系列全店舗扱いとなっているプリウス・SAIを除き他のトヨタ系列との併売はしていない。 また、かつては大阪府内のみトヨタ店とトヨペット店の取り扱い車種が逆だったが、現在では一部車種を除き他の都道府県と同様の取り扱いになっている。

キャッチフレーズ(コーポレート・ステートメント)

この他、販売店ごとに以下のような独自のキャッチフレーズもある。

現在の「TOYOTA」ロゴマークは1978年(昭和53年)4月(アメリカ、カナダは1986年4月)から使用されている。

3代目クラウン2000GTが登場した1967年から1978年3月(アメリカ、カナダは、1986年3月)まで、新聞広告・雑誌広告・テレビCMで使われた「TOYOTA」ロゴマークは現在の物とは異なっており、書体が現在の物より細いゴシック体となっていた。国内では「進歩のマーク」「信頼のマーク」「愛される車をめざして」のキャッチコピー、丸の中に片仮名で「トヨタ」と文字の入ったマークと共に使用され、日本国外でもカタログなどに使用された。 また、CMでは、CMの最後にアイキャッチを入れるのが主流だが、旧トヨタロゴマーク最初期の頃は、CMの最初に当時のアイキャッチ(ホワイトバックに旧トヨタマーク[改行]TOYOTA[改行]進歩のマークまたは信頼のマーク(ブラックバックバージョンもあり))が流れてた。 また、旧トヨタロゴマーク時代の一部のCMは、CMの最後にひよこの鳴き声が入ったアイキャッチも存在した。(「ムダ•ムリ•ムラのない運転でガソリンを大切に使いましょう。」や、「TTCのトヨタ」のアイキャッチも存在した。)(前者がオイルショック時、後者が50年、51年、53年排ガス規制時に使用。) また、旧トヨタマーク末期は、キャッチコピーなしで単にTOYOTAと書かれたアイキャッチも存在した。 旧トヨタロゴマーク最末期(78年2月ごろ)~現トヨタロゴマーク初期まで、安全はトヨタの願い[改行]TOYOTAと書かれたアイキャッチも存在した。

なお、旧トヨタマークは戦前に一般公募を行い制定されたもの。社章・正社員章として現在も使われている。また、前述の旧TOYOTAロゴが残っている販売店もある。現在のトヨタマークは1989年10月からで、縦と横に組み合わされたふたつの楕円は、トヨタのT、そしてその背後の空間は、トヨタの先進技術のグローバルな広がりと未来へ翔ける無限の可能性を表している。[21]同月にデビューした初代セルシオから採用された(商標登録日本第2392335号)。

香川トヨペットは、青色のセダンをモチーフとした独自のキャラクター「とよのすけ」を製作。蝶ネクタイをまとい、なぜかマイクの前で楽しそうにしている。その愛らしさから、地元では人気がある。

造成開発地

トヨタ自動車は現在、子会社のトヨタすまいるライフ株式会社(旧トヨタ住宅)他と共同で住宅地をいくつか造成開発している。

スポンサーとして

事件・問題(関連会社を含む)

中古車架空販売

トヨタ自動車が全額出資する大阪トヨタ自動車(旧大阪トヨペット)が、2004年(平成16年)、国産中古車を社員名義で自動車登録を行ない、販売実績を引き上げる架空販売を行なっていた[22]大阪府警察2006年(平成18年)10月10日、社員ら4名を電磁的公正証書原本不実記録、および供用の疑いで逮捕した[23]

北米トヨタのセクハラ

過労・サービス残業問題

リコール関連

トヨタ日本国内リコール放置問題

アメリカでの大規模リコール

2010年(平成22年)4月14日アメリカ消費者団体専門誌「コンシューマー・リポート」で特定の運転状況下で横転する危険性を指摘され、全世界でレクサスGX460の販売を一時停止し、4月19日には全世界で約1万3000台を対象に、車両安定制御装置ソフトウェアの修正を発表、同様にプラドも約2万1000台を対象に実施した[24][25]

また、2010年6月21日、中国広州にあるデンソー系の電装(広州南沙)有限公司にて待遇改善を求めてストライキが発生し、トヨタの広州工場に対する自動車燃料噴射装置などの部品の供給が停止した[26]

2010年8月13日、米高速道路交通安全局(NHTSA)は、電子系統には異常がなく、事故のほとんどが運転者の人為的なミスによるものであると報告、翌2011年2月8日には、米運輸省は、NHTSAと米航空宇宙局(NASA)による10ヶ月の共同調査の結果を踏まえて、電子制御装置に欠陥はなかったと発表した[27]。NASAは電子制御装置に異常は見られず、NHTSAは加速ペダルと運転席フロアマットの欠陥は問題は確認されたものの、急発進事故の殆どが運転手のミスと確認された[28]ワシントン・ポストなど各新聞は、トヨタ叩きは政治的に引き起こされたヒステリーだったと議会などを批判した[29]。一方、米消費者団体は政府の調査は不十分とした[28]

その他日本国外における法的トラブル

1990年(平成2年)1月1日から2006年(平成18年)5月22日までの間に北米の関連会社Toyota Motor Credit Corporationがアフリカ系アメリカ人(黒人)とヒスパニック系アメリカ人に対し、白人に対して融資する際の年率(APR)より高い値を設定し人種差別を基に不当に利益を上げていたとしてカリフォルニア州中央行政裁判所、およびサンフランシスコ群高等裁判所に起訴された[30]

2006年(平成18年)9月20日にはフォード・モーターゼネラル・モーターズダイムラー・クライスラーホンダ日産自動車と共にカリフォルニア州検事総長ビル・ロッキヤーによってオークランド地方裁判所に地球温暖化の対策を講じてこなかったとして起訴された[31]

関連会社

関連項目

スポーツ関連

所属スポーツ選手

直営自動車大学校

その他

脚注

  1. ^ トヨタが07年世界販売でGMとほぼ互角、今後のカギは新興国ロイター
  2. ^ GM転落、トヨタの「世界一」確定 読売新聞、2009-01-22閲覧。
  3. ^ 「トヨタ」になって70年読売新聞
  4. ^ 会社四季報昭和34年第1集』(東洋経済新報社、1958年12月)の347ページ、『会社四季報昭和34年第2集』(東洋経済新報社、1959年4月)の347ページ
  5. ^ トヨタ:系列4社が営業赤字転落 業績下方修正、受注減と円高響く毎日新聞
  6. ^ 「ジブリが新スタジオ『西ジブリ』をトヨタ本社内に設立、そのきっかけとは?」『ジブリが新スタジオ「西ジブリ」をトヨタ本社内に設立、そのきっかけとは?:MarkeZine(マーケジン)翔泳社2009年(平成21年)3月2日
  7. ^ 星野康二「スタジオジブリ新スタジオ“西ジブリ”設立について」『スタジオジブリ - STUDIO GHIBLI - スタジオジブリ新スタジオ “西ジブリ”設立についてスタジオジブリ2009年(平成21年)3月2日
  8. ^ 「チリ」とよばれる。
  9. ^ JDパワー保険会社のランキングなどによる。
  10. ^ ただし最初に開発・実用化したのはフォード社。
  11. ^ なお、同社の情報通信システムの場合、通信用インターフェイスにおけるBluetoothの採用に関しては他社に対して非常に積極的で、同社の純正カーナビにおいて積極的に導入されるケースも少なくない。
  12. ^ 世界のトップ1000企業の2006年研究開発費,前年比10%増の4470億ドル
  13. ^ 1956年(昭和31年)から「トヨエース」と愛称(ペットネーム)が付いた。
  14. ^ 例:ネッツ店専売車種(例:後期型以降のアベンシス、2代目ヴィッツ、後期型以降のウィッシュ、2代目bBオーリス、3代目RAV4ヴェルファイア、2代目ヴォクシー等)の「N」マーク、E120系(9代目)カローラシリーズ以降の「NCV」マーク、マークXおよびマークXジオの「X」マーク、プレミオの「P」、アリオンの「A」、初代ラクティスの「R」マーク等。リアは大抵の場合トヨタマークが付いている。
  15. ^ 日本で販売されていた「トヨタ・カムリプロミネント」の仕様変更版。
  16. ^ 日本では初代ist
  17. ^ 日本では初代bB
  18. ^ 例:X70系 - X100系までのマークII/チェイサー/クレスタ、L20系以降のターセル/コルサ/カローラII、E20系 - E110系までのカローラシリーズ/スプリンターシリーズ、T150系以降のコロナ/カリーナ(のちのプレミオ/アリオン)、V10系 - V40系までのカムリ/ビスタ、エスティマエミーナ/エスティマルシーダ、グランビア/グランドハイエースタウンエース/ライトエース/マスターエースカローラランクス/アレックス、ノア/ヴォクシーサクシード/プロボックスなど。
  19. ^ トヨタ、3代目プリウスを中国で生産開始
  20. ^ トヨタ自動車、英国製ワゴン「アベンシス」を国内再投入 GAZOO.com 2011年3月28日閲覧
  21. ^ くるまの理科・社会 Vol.002「第2回 トヨタ・3つの輪に込めた想い」
  22. ^ 読売新聞2006年 9月24日、同年9月28日記事。2004年6月に35万円で仕入れた国産中古車を同月下旬、営業店社員に45万円で販売し、社員名義で自動車登録。同年11月、この車を80万円で買い取った形にし、数日後、一般顧客に90万円で販売していた。
  23. ^ [1]10月31日には元店長と元室長を電磁的公正証書原本不実記録の疑いで再逮捕、11月9日に大阪地検に追送検した。[要出典]
  24. ^ ランドクルーザープラドのリコール対象は中東、ロシアが主体で日本などで販売された右ハンドル車はリコールの対象外である。 トヨタ・レクサスGXの販売一時中止、世界全体に拡大 MSN産経ニュース 2010年4月14日
  25. ^ レクサスSUVなど全世界で3万4000台リコール MSN産経ニュース 2010年4月20日
  26. ^ トヨタ広州、操業停止 デンソー系メーカーでスト - 中国新聞 2010年6月23日
  27. ^ 電子系統に欠陥なし=トヨタ車の急加速で-米運輸長官は「安全宣言」時事ドットコム 2011年2月9日
  28. ^ a b トヨタの悔しさ、NASAが晴らす 中央日報 2011年2月10日
  29. ^ トヨタ問題は政治的ヒステリー 米紙が議会を批 47NEWS 2011年2月10日
  30. ^ ケースナンバーはCV 01-05564-FMCおよびJ.C.C.P. No. 4346:2006年8月現在、進行中
  31. ^ [2]
  32. ^ トヨタ、米テスラと電気自動車で提携”. レスポンス自動車ニュース (2010年5月21日). 2011年1月9日閲覧。

外部リンク

公式
施設
その他