トーマス・フランシス・ファーレル (Thomas Francis Farrell1891年11月3日 - 1967年4月11日) は、アメリカ陸軍の軍人。レズリー・グローヴスの副官であり、マンハッタン計画を現場責任者として指揮した。最終階級は少将

電話を受けているグローヴス少将の隣で通話を傍受するファーレル(当時准将)、1945年

人物・来歴 編集

第二次世界大戦前 編集

1891年ニューヨーク州トロイにて、ジョン・ジョセフ・ファーレルとマーガレット・コノリー夫妻の息子として生まれた。1912年レンセラー工科大学を卒業し、パナマ運河1913年から1916年まで働いた。第一次世界大戦中には、フランスに派遣されたアメリカ欧州派遣軍(のちの第1軍 (アメリカ軍))の第一工兵大隊英語版に従軍し、殊勲十字章を得た。1926年に陸軍を除隊し、民間人としてニューヨーク州の公務員となった。

マンハッタン計画 編集

1941年2月に、当時大佐だったレズリー・グローヴスの部下となり、ビルマ公路建設などに従事。1945年1月、グローヴスから副官に指名されロスアラモス国立研究所に異動。同年8月、トルーマン大統領からポール・ティベッツ機長への指令書を携えてテニアン島に赴き、原子爆弾「ファットマン」に「ヒロヒトへ 親愛を込めて」と記した。

戦後 編集

1945年8月30日広島長崎で、原爆の影響を調査するために科学者のチームを引率した(原爆傷害調査委員会)。9月6日東京帝国ホテル連合国の海外特派員向けに「広島・長崎では、死ぬべき者は死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のために苦しんでいる者(原爆症患者)は皆無だ」とする声明を出した[1]

第二次世界大戦後、少将に昇進し、1946年4月に現役を退いた。

脚注 編集

  1. ^ 高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ-米核実験と民間防衛計画-』凱風社、2008年