ナーズム・ヒクメットNâzım Hikmet, 1901年/1902年[注釈 1] - 1963年6月3日)は、トルコ出身の詩人劇作家共産主義者、革命運動家。本名は、メフメト・ナーズム・ラン (Mehmet Nâzım Ran)であり、多種の筆名を使用した[注釈 2]。日本語では、ナズム・ヒクメト・ランナジム・ヒクメットなどとも表記する[注釈 3]

ナーズム・ヒクメット
Nâzım Hikmet
1952年5月、ベルリンにて
誕生 メフメド・ナーズム
1901年11月20日 (生物学的)
1902年1月15日 (戸籍上)
サロニカ市
死没 (1963-06-03) 1963年6月3日(61歳没)
モスクワ市ソコル区の自宅
墓地 ノヴォジェヴィチ墓地 (モスクワ)
職業 詩人
言語 トルコ語
国籍 オスマン帝国、トルコ、ポーランド
活動期間 1914年 - 1963年
配偶者 ニュズヘト・ハヌム、イェレーナ・ユルチェンコ、ピラーイェ・アルトゥンオール、ミュネッヴェル・アンダチ、(ガリーナ・コレスニコーヴァ)、ヴェラ・トゥリヤコーヴァ
子供 メメト・フアト (養子)、メメト・ナーズム (実子)
親族 オクタイ・ルファト・ホロズジュ(母方の従兄弟)、ゼイネプ・メネメンジオール (母方の従兄弟)、ジェラーレッティン・エズィネ (父方の従兄弟)
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生涯 編集

少年期 編集

 
海軍学校時代の写真

オスマン帝国領のサロニカ(トルコ語名:セラーニク、現在はギリシャテッサロニキ)の出身。父はハンブルク総領事も務めた外交官ヒクメト・ベイ[3]で、母は画家[4]ジェリーレ・ハヌム (Celile Uğuraldım)。二人の間には、ナーズムのほかに、アリ・イブラヒム[注釈 4]とサーミイェ[注釈 5]が生まれた[5]。父方の祖父はオスマン帝国時代のサロニカ県の最後の知事で、かつ著名な詩人でメヴレヴィー教団員だったメフメド・ナーズム・パシャ[4]であり、高級官僚の家柄であった。一方、母方の祖父はムスタファ・ジェラーレッディン・パシャ (コンスタンティ・ボルゼンツキ, Konstanty Borzęcki)の息子ハサン・エンヴェル・パシャ (Hasan Enver Paşa)であり、祖母はメフメド・アリ・パシャ (Mehmet Ali Paşa)の次女レイラ・ハヌム[注釈 6]と、こちらは高級軍人の家柄であった[6]

13歳から詩作を始める[4]。ギョズテペの模範学校 (タシュ・メクテプとして知られる)で初等教育を修了し、メクテビ・スルターニ (現ガラタサライ高校)に登録した。同校の準備学級で親友となる「ヴァー・ヌー」 (Vâ-Nû)ことヴァーラー・ヌーレッディン (Vâlâ Nureddin)と知り合った。しかし、家計の困窮のためにニシャンタシュ・スルターニスィ (現ニシャンタシュ・ヌーリ・アクン・アナドル高校)に移った。その詩作が当時の海軍大臣ジェマル・パシャの目に留まり、1915年9月25日、イスタンブールヘイベリアダにある海軍学校 (現海軍高等学校)に入学することになった。この学校で国語の教師であったトルコの有名詩人ヤフヤ・ケマルに出会い、本格的に詩作を行うようになる[7]。またこの時期に民族解放運動に身を投じている。1919年に26名中9席で卒業し、甲板科見習い士官として練習艦「ハミディイェ」に乗り組んだが、胸膜炎発症を理由に海軍を除籍となった[8][注釈 7]。除籍の理由は病気のため、あるいは水兵の革命運動に参加したためなどの説がある。当時のトルコは第一次世界大戦に敗れ、連合国に分割占領されていた。1920年、占領軍を弾劾する詩を書いたことで当局に追及され、1921年1月、ヴァーラー・ヌーレッディンとともに国民闘争に参加するためにイスタンブールを離れアナトリアのイネボルに渡った。希望していた前線には送られず、ケマル・アタテュルクのアンカラ政府の命でヴァーラー・ヌーレッディンとともにアナトリア山間部のボルへ教師として赴任した。このアナトリアでトルコ農民の貧しい暮らしに触れることとなる[7]

モスクワ留学 編集

 
1982年のソ連切手に描かれた肖像

1921年9月、ヴァーラー・ヌーレッディンとともに、バトゥーム経由でモスクワに行った。モスクワ条約に基づき[3]ソ連東方勤労者共産大学(クートヴェ)に留学。4年間社会学経済学を学ぶとともに、ウラジーミル・マヤコフスキーらと親交を結びその影響を受ける。1922年、ニュズヘト・ハヌムと結婚したが、長続きしなかった。1924年に卒業し、5月秘密裏に帰国、トルコ労農社会党 (Türkiye İşçi ve Çiftçi Sosyalist Fırkası)の機関紙でシェフィク・ヒュスニュ医師 (Şefik Hüsnü)により発行されていた『鎌と槌』とおよび『アイドゥンルク』誌で働き始め、これらの新聞・雑誌上での著作活動を行う。1925年1月1日にベシクタシュにあるシェフィク・ヒュスニュ医師の自宅で開催されたトルコ共産党第二回党大会に参加し中央委員に選出された。しかし、これらの活動がトルコの治安維持法に触れ、5月にトルコ共産党員たちの一斉検挙が始まったため、同年6月、モスクワへ亡命した。アンカラ独立裁判所による欠席裁判の末懲役15年となった。1926年、歯科医のイェレーナ・ユルチェンコと結婚した。モスクワにて翻訳者として働く傍ら、風刺劇団「メトラー(箒)」を結成し、数編の戯曲を書く[7]1928年バクーにて処女詩集『太陽を呑むものたちの唄』(Güneşi İşenlerin Türküsü)を出版[9]。同年7月、トルコ共和国建国5周年を記念して出された恩赦の恩恵を受けるため、秘密裏に国境を越え帰国したが、1928年12月23日まで、ホパ、イスタンブール、アンカラで収監された。二番目の夫人イェレーナ・ユルチェンコは、オデッサで査証の発給を待っていたところ、1929年に伝染病に羅って死亡した[10]

レスィムリ・アイ 編集

釈放後、ゼケリヤ・セルテルが発行していた『レスィムリ・アイ(絵入り月刊誌)』にヴァーラー・ヌーレッディンの仲介で編集者として就職し、1931年まで在籍した。『レスィムリ・アイ』では次第に自分自身の詩も発表するようになり、1929年5月に出版された詩集『835行』 (835 Satır)は文学界で反響を呼んだ。同誌を拠点に活動し[11][9]1930年からは、『ヒュル・アダム』 (Hür Adam)、『ハルク・ドストゥ』 (Halk Dostu)、『イェニ・ギュン』 (Yeni Gün)、『アクシャム』 (Akşam)、『タン』 (Tan)などの新聞において様々な筆名で物語を書いた。『アクシャム』紙ではオルハン・セリムの筆名を使った。また、本名およびミュムターズ・オスマンの筆名で、『可愛い散髪屋』 (Cici Berber)、『悪路』 (Fena Yol)、『妻が浮気すれば』 (Karım Beni Aldatırsa)、『ナシット:詐欺師』 (Naşit Dolandırıcı)、『アイセル:バタクル・ダムの娘』 (Aysel Bataklı Damın Kızı)、『炙り雛豆売りホルホル・アー』 (Leblebici Horhor Ağa)など、主としてムフスィン・エルトゥールル監督によりイペキ・フィルム・スタジオで製作された映画作品のシナリオを書いた。自由詩の旗頭として数年にわたり詩集、長詩、戯曲などを発表するが、この間は作品を出すたびに投獄されていた[7]。この時期の代表作は詩集『1+1=1』など。これらの作品は1930年代後半のトルコ文学に大きな影響を与えた[12]1933年、『夜来る電報』 (Gece Gelen Telegraf)という本に関連して反政府扇動を行った廉で起訴され、3月22日には、秘密組織を結成し壁に宣伝文を貼って共産主義宣伝を行ったとの理由で逮捕され、裁判のためにブルサへ送致された。しかし、ナーズム自身は政治から距離を置くよう努めており、1932年2月にイスタンブールで開催されたトルコ共産党大会でコミンテルンの決定を批判したグループに所属しているとの理由から除籍処分にされていた。1935年3月、亡命中のシェフィク・ヒュスニュは、スターリンを批判する活動を理由にナーズムを除籍した旨をコミンテルンに報告した。トルコ共和国建国10周年を記念して出された恩赦により反政府扇動の裁判は訴訟無効となり、共産主義宣伝の裁判については、懲役4年の刑に処され収監された。しかし、3年分は恩赦の対象となり残りの1年については未決勾留日数を差し引くと必要以上に収監されていたため、1934年8月に釈放された。1935年1月、ピラーイェ・アルトゥンオールと結婚した[10][注釈 8]。1936年12月、ヒクメット・クヴルジュムラとともに共産主義宣伝の廉で逮捕され、1937年2月まで収監されたが、裁判では無罪となった[10]。その後、1938年1月17日、陸軍の反乱を煽動したとの嫌疑でアンカラの士官学校司令部軍事法廷で裁判を受け、懲役15年に処された。イスタンブールでは、海軍の反乱を煽動したとの嫌疑で懲役20年の刑を受け、これら二つを(同時進行刑として)統合した結果、合計28年4ヶ月の懲役刑に処された[14]

獄中生活 編集

アンカラとチャンクルの刑務所で過ごした後、1940年12月から1950年7月15日に釈放されるまでブルサ刑務所に収監された。トルコ政府はナーズムの作品を発禁処分とする[3][7]。以後、獄中での詩作に専念し、叙事詩『人類のパノラマ』[注釈 9] 、戯曲『愛の伝説』などを手がける(いずれも刊行は後年)[7]。またのちに獄中の記録を『獄中書簡』『牢獄におくった十四年』などの作品にまとめている[11]1949年パリでナーズムの釈放を要求する特別委員会が作られ、アメリカ、ソ連を中心に各国に釈放運動が広がった[7]。国内でも、『ワタン』紙主筆アフメト・エミン・ヤルマンと弁護士メフメト・アリ・セビュクは、1949年11月11日から1950年2月2日にかけ10本の記事を書いて、ナーズムの無罪を資料を使って示し、1950年1月には、トルコ大国民議会に特別の恩赦を求めた。トルコの知識人たちは、ナーズムの釈放を求めて広範なキャンペーンを張った。しかし当局は反応を示さなかったため、ナーズムは4月8日にハンガーストライキを開始し、同日、イスタンブールの刑務所に移送された。弁護士セビュクの求めに応じて一時延期していたハンストを、5月2日から19日まで実施した。5月15日に政権についた民主党が7月14日に制定した総恩赦法が適用され、翌15日に釈放された。しばしば獄中に自身を訪問していた従姉妹ミュネッヴェル・アンダチと恋に陥り、母ジェリーレの住むジェヴィズリクにある邸宅のひとつの階をかりて同居し始め、イペキ・フィルム・スタジオで吹き替え監督として働いた。1951年3月23日、ピラーイェ・ハヌムとの離婚が成立し、26日には、ミュネッヴェルとの息子メメト (Memet Nazım)が誕生した[14]

亡命 編集

釈放はされたものの、政府の監視は続いており再度逮捕される危険があった。また出版業界の反応も冷たかった。国際平和賞英語版の受賞が決まり、1950年11月にワルシャワで世界平和評議会により開催される授賞式に出席するため旅券発行の申請を行ったが、却下された。さらに、海軍見習い士官時代に健康上の理由から軍籍を離脱させられており兵役不適格のはずであるにもかかわらず、ハイダルパシャ軍病院保険委員会が「健康」との報告書を出し、1951年6月8日、カドゥキョイ徴兵支部が、ナーズムを兵士として2年間の兵役につかせるためスィワス県ザラ郡に送る決定を下した。ナーズムは、これらを自身に対する陰謀であると見做した。そして、1951年6月、ブルガリアへ出国するために、腹違いの妹メルダ・ハヌムの婚約者レフィク・エルドゥラン (Refik Erduran)の操縦するモータボートで黒海に出て、遭遇したルーマニアの貨物船でルーマニアに着き、しばらく後モスクワに移住した。1951年7月25日付第3/13401号閣議決定によりトルコ国籍を剥奪された[15]。11月、プラハにて国際平和賞を受賞[12][7]。また世界平和評議会の評議員に選出される[7]1952年に心臓発作を起こして以来、医師のガリーナ・グリゴリエーヴナ・コレスニコーヴァと同居するようになった。1954年、母方がポーランド出身の家系であることから、母方の曽祖父ムスタファ・ジェラーレッディン・パシャのオスマン帝国へ亡命する前の苗字ボルゼンツキ[注釈 10]としてポーランド国籍と旅券が付与された[14]

以後、ソ連を拠点に東欧を遍歴しながら活動する。1952年から『トルコ物語』(Fatma, Ali ve Diğerleri ) など数編の戯曲を発表[7]。1960年11月、演劇家でシナリオ作家のヴェラ・トゥリヤコーヴァと結婚した[14]。死去までモスクワで平和活動に携わった。1963年6月、モスクワで[7]心臓発作[4]のため死去。トルコでナーズムの発禁処分が解かれたのは、死去から2年後の1965年であった[3]

トルコ国籍の回復 編集

ナーズムのトルコ国籍の回復を求める運動は、1987年11月12日にナーズムの実妹サーミイェ・ヤルトゥルム (Samiye Yaltırım)の呼び掛けで始まった。多くの集会が開催された後、サーミイェはナーズムの20周忌にあたる1988年6月3日に内閣に申請した。内閣が返答しなかったため、9月30日、サーミイェは裁判所に訴えた。しかし、1993年2月24日、最高行政裁判所がアンカラ第2号行政裁判所の拒否判決を承認したことにより、国籍の回復への道は閉ざされたかに見えた[16]。その後、内務省の2009年1月5日付第70020号文書に従って同日付2009/14540号閣議決定により1951年7月25日付第3/13401号閣議決定の無効化が決まり、2009年1月10日に同閣議決定が公報で発表されたことにより、ナーズムは公式にトルコ国籍を回復した[15][17]

作風 編集

初期の詩はオスマン宮廷詩の伝統を重んじ、民族固有の定型詩で抒情的世界を詠んでいた。しかし、貧困にあえぐアナトリアでの体験とモスクワ留学中にマヤコフスキーに受けた影響から、以後、や定形から離れた自由詩を書くようになった。この時期には活字の大小や階段状の改行を試みる、また独自の韻律を駆使するなど視覚的にも聴覚的にも斬新な作風であった。また既存の権力に対して極めて闘争的な態度を持ち、作風も朗読を視野に入れた雄弁で絶叫的な調子を取り入れている[3][4]

1938年の投獄から作風も大きく変化し、前述のイデオロギー色の強い内容から、平易な言葉で日常の生活に題を取った素朴な作品が多くなった[4]。この理由として、それまでは印刷や自身による朗読によって詩を発表していたのが、投獄により口伝えでしか読者に伝える手段がなくなったことが挙げられる。同獄にいる労働者や農民の反応を見ることで、読者のほとんどは農民や労働者が占め、しかも当時は国民の大多数が文盲であることに強く思い当った。これが具体的なイメージや平易な言葉遣い、素朴さや自然さにつながったとされる[7]

建国の父であるムスタファ・ケマル・アタテュルクを詠んだ作品は少ない。これは祖国解放の主人公は無名の労働者・農民たちであるとのナーズムの視点と同時に、長きにわたり拘束された末に最後まで故国に帰れなかったナーズムの思いも感じさせる[3]

後世に影響を受けた詩人としては、オルハン・ヴェリ・カヌク (tr:Orhan Veli Kanık)[7]オクタイ・リファト (tr:Oktay Rıfat Horozcu)、メリフ・ジュヴデト・アンダイ (tr:Melih Cevdet Anday)らが特筆される[18]

主な作品 編集

詩集、長詩
  • 『太陽を呑むものたちの唄』 (Güneşi İçenlerin Türküsü) 1928年
  • 『ジョコンダとシ・ヤ・ウ』 (Jokond ile Si-Ya-U) 1929年
  • 『835行』 (835 Satır) 1929年
  • 『これは三番目』(Varan 3) 1930年
  • 『1+1=1』 1930年
  • 『夜来た電報』[注釈 11] (Gece gelen telgraf) 1932年
  • 『どうしてベネルジは自殺したか』 (Benerci Kendini Niçin Öldürdü?) 1932年
  • 『師ベドレッティンの叙事詩』[注釈 12] (Şeyh Bedreddin Destanı) 1936年
  • 『人類のパノラマ』 (Memleketimden İnsan manzaraları)
    • 『人類のパノラマ』(1941)、『ゾーヤ』(Tanya, 1950)、『モスクワ交響楽』(1951)などからなる計2万行、5巻に及ぶ大作の叙事詩。1962年に第1部から第3部として発表。ナーズムの死後、1966-1967年に刊行された。
  • 『獄中書簡』 1961年
  • 「飢えた者たちの瞳」 (Açların gözbebekleri) 1922年 - 最初の自由詩で、飢えに苦しむ3000万の同胞を描いたもの。
  • 「死んだ女の子」 (Kız Çocuğu) 1955年 - 広島原爆をテーマにしたもの。後述。
戯曲
小説

日本との関わり 編集

広島市への原子爆弾投下に関心を持ち、これを題材とした「死んだ女の子」 (Kız Çocuğu) を1955年に詩作している。また、1958年の詩「夜明けに」にも広島原爆への言及があるほか、詩集『ヒロシマ』[9]も刊行している。日本語訳された詩集は峯俊夫訳による『死んだ少女』など。

「死んだ女の子」は、中本信幸の訳詞、外山雄三の作曲で高石友也によって歌われ、1967年発売のアルバム『想い出の赤いヤッケ 高石友也フォーク・アルバム』に収められている。同作品は2006年、坂本龍一プロデュースにより元ちとせによって歌われ、同年発売のアルバム『ハナダイロ』の初回限定版にボーナストラックとして収録、映画『キャタピラー』の主題歌に使用された。

その他、原爆をテーマとする「日本にある少女がいた」 (Bir kız vardı Japonya'da)や第五福竜丸事件をテーマとする「日本の漁師」 (Japon balıkçısı)も作っている。

ほかに「お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく」 (Masalların Masalı)が中本信幸、服部伸六に訳され、芥川也寸志の作曲により合唱曲となった。この曲は日本の合唱作品100選に選出されている。

メディア 編集

オラトリオ

ドキュメンタリー

映画

家系図 編集

ナーズム・ヒクメットの系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムスタファ・ジェラーレッディン
 
メフメド・アリ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
メフメト・ナーズム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マジャル・アリ・ルファト
 
ハサン・エンヴェル
 
レイラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ギュズィデ
 
メディーハ
 
ヒクメト
 
ジェリーレ
 
サーミフ・ルファト
 
ミュネッヴェル
 
ムスタファ・ジェラーレッディン
 
メフメト・アリ
 
サラ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
メフメト・ジェラーレッティン・エズィネ
 
ムスタファ・オスマン
 
サーミイェ
 
ナーズム
 
ゼイネプ・メネメンジオール
 
オクタイ・ルファト・ホロズジュ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

注釈 編集

  1. ^ 1901年11月20日に生まれたが、家族と周囲が40日間の差で1歳年上と見なされないよう、1902年1月15日で出生届を提出したため[1]、後者が戸籍上の誕生日である[2]
  2. ^ オルハン・セリム (Orhan Selim)、アドスズ・ヤズジュ (Adsız Yazıcı, 無名文屋)、アフメト・ジェヴァト (Ahmet Cevat)、アフメト・オーウズ・サルーハン (Ahmet Oğuz Saruhan)、ベン (Ben, 私)、ベンデニズ (Bendeniz, 貴方の下僕、臣某)、エルジュメント・エル (Ercüment Er)、フクラジュ (Fıkracı, 噺家)、イブラヒム・サブリ (İbrahim Sabri)、イルハン・コザ (İlhan Koza)、イムザースズ・アダム (İmzasız Adaım, 無署名男)、H.イフサン (H.İhsan)、カルタル (Kartal, 鷹)、マズハル・リュトフィ (Mazhar Lütfi)、ミュムターズ・オスマン (Mümtaz Osman)、オスマン・ジェマル (Osman Cemal)、サル・ムラト (Sarı Murat)、スュレイマン・サブル・ラン (Süleyman Sabur Ran)などの筆名を使用した[2]
  3. ^ このほか、各種資料によりナジム・ヒクメト、ナズム・ヒクメト、ナーズム・ヒクメト、ナズム・ヒクメット、ヒクメト・ランなど。本稿の記事名は現在のトルコ語発音及び近年の出版実績に依った。詳細はノート:ナーズム・ヒクメット参照。
  4. ^ 幼児期に死亡。
  5. ^ セイダー・ヤルトゥルムと結婚しSamiye Yaltırımとなる。
  6. ^ プロシア出身の海軍見習い士官ユリアン・ディートリヒ (ルートヴィヒ・カルル・フリードリヒ・デトロワと記されることもある)だったメフメド・アリとチェルケス・ハーフズの娘アイシェ・スドゥカの間には四人の娘が生まれ、全員がオスマン帝国軍の高級将校と結婚した。長女ハイリイェ (Hayriye)はヒュセイン・ヒュスヌ (Hüseyin Hüsnü Paşa)と結婚し、ニーメト、ムフスィン、タフスィン (メフメト・アリ・アイバルの父)を生み、三女ゼキーイェ・ハティージェ (Zekiye Hatice)はイスマイル・ファーズル (İsmail Fazıl Paşa)と結婚しメフメド・アリとアリ・フアドを生み、四女アドヴィイェ (Adviye)はテヴフィクと結婚した。
  7. ^ 日本語の資料は「1918年に海軍学校を中途退学した」とされている記述が多いが、トルコ側の資料には前述のように卒業の記録が残っており、海軍除籍と混同した誤りである可能性が高い。
  8. ^ ナーズムの伝記を書いたメメト・フアトは、ピラーイェ・ハヌムの連れ子で、父親はメフメト・アリ・パシャの息子ヴェダート・オルフィ (Vedat Örfi Bengü)であった[13]
  9. ^ 訳により『人生のパノラマ』『人間のパノラマ』『わが祖国の人間風景』とも表記。
  10. ^ 訳によりボルゼツキ、ボルゼスキーとも表記。
  11. ^ 訳により『深夜舞い込んだ電報』とも表記。
  12. ^ 訳により『ベドレディンにかんする詩』とも表記。

出典 編集

  1. ^ Memet Fuat, Nâzım Hikmet: Yaşamı, Ruhsal Yapısı, Davaları, Tartışmaları, Dünya görüşü, Şiirinin gelişmeleri, Adam, 2000, ISBN 9789754186321, p. 11. (トルコ語)
  2. ^ a b "Nâzım Hikmet", Tanzimat'tan Bugüne Edebiyatçılar Ansiklopedi, Cilt II, K-Z, Yapı Kredi Yayınları - 1810, İstanbul, 2001, ISBN 975-08-0569-0, p. 709. (トルコ語)
  3. ^ a b c d e f 集英社『世界文学大事典 3』
  4. ^ a b c d e f 『新潮世界文学辞典』
  5. ^ Kemal Sülker, Nâzım Hikmet'in Gerçek Yaşamı, İleri Yayınları, 2005, ISBN 9789756288467, p. 18. (トルコ語)
  6. ^ Osman Selim Kocahanoğlu, "Bir Osmanlı Ailesi ve Ali Fuat Cebesoy", Ali Fuat Cebesoy'un Arşivinden Askeri ve Siyasi Belgeler, Temel Yayınları, İstanbul, 2005, pp. 14-15. (トルコ語)
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 中本・服部訳『ヒクメット詩集』
  8. ^ Kubilay Dökücü, Çağrı Kıran, Bahriye Mektebi'nde Nazım Hikmet, Pusula, 66, 2010.
  9. ^ a b c 平凡社『世界大百科事典』
  10. ^ a b c "Nâzım Hikmet", Tanzimat'tan Bugüne Edebiyatçılar Ansiklopedi, Cilt II, K-Z, Yapı Kredi Yayınları - 1810, İstanbul, 2001, ISBN 975-08-0569-0, p. 710. (トルコ語)
  11. ^ a b c 草鹿訳『ロマンチカ』
  12. ^ a b 『ブリタニカ国際大百科事典』
  13. ^ memetfuat.com (トルコ語)
  14. ^ a b c d "Nâzım Hikmet", Tanzimat'tan Bugüne Edebiyatçılar Ansiklopedi, Cilt II, K-Z, Yapı Kredi Yayınları - 1810, İstanbul, 2001, ISBN 975-08-0569-0, p. 711. (トルコ語)
  15. ^ a b Nazım Hikmet resmen Türk vatandaşı, Radikal, 10 Ocak 2009. (トルコ語)
  16. ^ Kıymet Coşkun, Yurttaş Nâzım Hikmet, Nâzım Hikmet Kültür ve Sanat Vakfı (トルコ語)
  17. ^ Bakanlar Kurulu Karar Sayısı: 2009/14540, Resmî Gazete, Sayı: 27106, 10 Ocak 2009 Cumartesi. (トルコ語)
  18. ^ 集英社『世界文学大事典 5』

参考文献 編集

関連項目 編集

  ウィキクォートには、ナーズム・ヒクメットに関する引用句があります。