ナーヤカ

近世インドの半独立の君主

ナーヤカ(なーやか、英語:Nayaka)とは、南インド王朝、とくにヴィジャヤナガル王国における封建的な領主層のことである。ナーヤク(Nayak)とも呼ばれる。

ナーヤカ(レーパークシ寺院)

16世紀後半以降、ヴィジャヤナガル王国が衰退すると、ナーヤカの中には自立する者もあらわれ、ナーヤカ朝を形成するようになった。

概要 編集

ナーヤカとナーヤカ制 編集

 
ヴィジャヤナガル王国の版図
 
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ

ナーヤカの歴史は古く、カーカティーヤ朝プラターパルドラ2世が王国を77の地区に分けたとき、ナーヤカに治めさせ、ホイサラ朝にも同様のナーヤカと呼ばれる領主がいた。

14世紀初頭、カーカティーヤ朝とホイサラ朝が、デリー・スルタン朝トゥグルク朝に攻撃されたのち、南インドにはヴィジャヤナガル王国が建国された。

15世紀までのヴィジャヤナガル王国支配は、中央から派遣された官吏を通じて直接の支配を目指したが、のちにナーヤカが自己の領域を確保して、そこを支配するという形が一般的となっていった。

15世紀末にサールヴァ朝の統治期になると、自分の領地を知行地して改めて与え徴税や世襲などの特権を認めるかわり、忠誠や納税などの義務を負わせる「ナーヤカ制」が成立しはじめた。

その次に成立したトゥルヴァ朝で、16世紀前半の王クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(在位1509 - 1529)は、税収の安定をはかるために「ナーヤカ制」を確立しようとし、これを積極的に行った。

それまで、ヴィジャヤナガル王国では、各地の領主であるナーヤカが徴税し国庫に納税していたが、このナーヤカ制は徹底されていなかった。

ひとたび国内が不安定になると、ナーヤカの中には納税を拒否するものが現れ、大幅な国庫の減収につながった。

つまり、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは、ナーヤカが本来行うべきである義務を再確認し、税収の安定をはかるとともに、国内の安定をもはかろうとしたと考えられる(この点からすると、ナーヤカ制は西欧の封建制と似ている)。

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世に王国の領土は広がり、それら征服地にもナーヤカを配置したが、ナーヤカが領地に土着しないよう、カルナータカ地方タミル地方では、かなり頻繁にナーヤカの領地替えをおこなった。

また、ナーヤカのなかには、領地に住んで税を払う者もいれば、自身は首都ヴィジャヤナガルに住んで宮廷に出仕し、代官に自分の領地を任せていた者もいた。

このように、ヴィジャヤナガル王国の地方行政はナーヤカに任され、王国の4分の3はナーヤカの知行地にあてられていたとされており、ナーヤカは王国を支える重要な存在となった。

研究者のナーヤカに対する見解 編集

 
ナーヤカたちかぶっているのは、イスラーム風の長烏帽子であり、当時の国際的文化交流が盛んだったことがうかがえる。

16世紀前半のヴィジャヤナガル王国が王を中心とし、ナーヤカを地方領主とする、極めて集権的な封建国家なっていたことはわかるが、研究者の間では、ナーヤカと王権との関係については統一的な見解には至ってない。

たとえば、ヴェンカタラマナイヤという研究者は、王から封土として与えられた領地で、領土のさらなる分配が見られないことから、ナーヤカ制が西洋の封建制とは似て非なるものであるものだとしている。

だが、ナーヤカを封建領主と見るには、それを裏付ける史料が極めて限られ、ナーヤカから王への支払いやその封建的義務についての史料もない。

また、バートン・シュタインという研究者は、ナーヤカについては、シェンジマドゥライタンジャーヴールなどの大ナーヤカらをのみを扱うとしており、中小ナーヤカのことを「チーフ」と呼び、一概にこれら領主をナーヤカと扱かわないとしている。

しかし、ヴィジャヤナガル期のカンナダ語テルグ語タミル語の刻文では、王国内に領地を封土として認められたナーヤカが多数存在していたことは、もはや明らかなことであり、これは少しおかしいと思える。

ナーヤカが重要ではあっても、それが体制化されていたわけではなく、むしろチョーラ朝以来の分節国家、即ち王権の支配は本拠地を除いては、基本的に儀礼的なものであって、在地社会は自律的で富の流れや命令系統では、中央とは結びつけられていなかったという説もある。

ナーヤカの数 編集

 
ナーヤカたちが、レーパークシ寺院に参拝する様子が絵描かれている。

ナーヤカが、ヴィジャヤナガル王国の領土の4分の3を知行地にあてられていたことは、先述したとおりが、問題はその数である。

ポルトガルの馬商人ヌーネスは、ナーヤカの数についてこう記している。

ビスナーガ王国(ヴィジャヤナガル王国)には、このように200人以上の長官(ナーヤカ)によって配分されている。

ナーヤカの数は時代によってさまざまで、15世紀末のサールヴァ朝の統治期から刻文に記録されているが、もっとも多いのが、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの統治期である。

クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの統治期にあたる時代、タミル地方においてナーヤカの数は110人で、それに続くアチュタ・デーヴァ・ラーヤ(在位1529 - 1542)、ヴェンカタ1世(在位1542)、サダーシヴァ・ラーヤ(在位1542 - 1569)の治世も、同様に110人であった。

カルナータカ地方とアーンドラ地方でのナーヤカの数は、はっきりしてないが、仮に合わせて100人とすれば、ヌーネスの文献はとても正確なものとなる。

ナーヤカ制の崩壊とナーヤカ朝 編集

1565年1月ターリコータの戦いで、ヴィジャヤやナガル王国がデカンムスリム5王国に敗北し、ビジャープル王国ゴールコンダ王国の侵入が始まるようになってから、その状況一変する。

ヴィジャヤナガル王国の衰退により、それまで王国に忠誠を誓っていたナーヤカたちが、王に対する忠誠を徐々に怠るようになり、独自の権力行使を行うようになってきたのだ。

アーラヴィードゥ朝シュリーランガ1世(在位1572 - 1586)の治世、タミル地方のシェンジ(ジンジー)、タンジャーヴールマドゥライ、カルナータカ地方のケラディチトラドゥルガなどの有力な大ナーヤカは、ヴィジャヤナガル王国おいて半独立の政権を打ち出していた。

これらナーヤカ政権は、「ナーヤカ領国」あるいは「ナーヤカ朝」とよばれ、ヴィジャヤナガル王国の衰退要因の一つとなった。

トゥルヴァ朝時代に積極的に行われてきたナーヤカの任地替えも、アーラヴィードゥ朝になってほとんど行われていない。

おそらく、ムスリム5王国の侵入などの混乱によって、ヴィジャヤナガル王国ではナーヤカの任地替えがおろそかになり、ナーヤカたちが在地勢力として力を持ち、もはや無理になったのであろうと考えられる。

これらの状況から見て、16世紀末のヴィジャヤナガル王国においては、ナーヤカ制は事実上崩壊していたことは明らかである。

とはいえ、ヴィジャヤナガル王国はナーヤカに対する統制を失ったわけではなく、シュリーランガ1世の弟で「最後の名君」ヴェンカタ2世(在位1586 - 1614)は、各地のナーヤカに対して軍事的威圧を行っている。

ヴェンカタ2世は、タミル地方におけるナーヤカの反乱を幾度となく掃討し、1604年に同王はヴェールールに遷都したが、この地もヴェールールのナーヤカ一族から奪ったものだった。

だが、1614年にヴェンカタ2世が死ぬと、大規模な内乱が勃発し、ナーヤカたちは内乱に参加したが、これを機に大ナーヤカは事実上独立の道をたどることとなった。

大ナーヤカはナーヤカ朝として独立を果たしたが、中小ナーヤカは大ナーヤカの下についたり、あるいは、ビジャープル王国とゴールコンダ王国の征服の過程で、そのザミーンダールになる者もあらわれた。

また、17世紀末にムガル帝国により、ビジャープル王国とゴールコンダ王国が滅ぼされ、南端部を除いて南インドまで征服すると、ナーヤカたちはそのもとでも、ザミーンダールとして存続を許された。

ナーヤカの終焉 編集

 
1780年マイソール王国の領土。 ヴィジャヤナガル王国の旧領に相当する地域が版図となっている。
 
ハイダル・アリー

ナーヤカ朝はねに相互に争い、ときには滅ぼしあったり、ときに外敵に滅ぼされるなど、その数を減らしながらも、18世紀に入っても細々と存在していた。

また、18世紀にムガル帝国が衰退していくと、南インドで独立した王国や地方政権のもとでも、そのザミーンダールとして活躍した。

だが、18世紀後半から末期にかけて、マイソール王国が南インドの派遣を握り、その王ハイダル・アリーとその息子ティプー・スルタンは、王国内のザミーンダールを廃して直接徴税をとるようにした。

これにより、かつてナーヤカだったザミーンダールは、その大半が、王国に土地を没収されることになった。

その後、1799年にマイソール王国がマイソール戦争で敗北したのち、イギリスが南インドのマドラス管区で、農民からの直接徴税、つまりライーヤトワーリー制をとることができたのもこのおかげだった。

また、英領インド軍では、ナーヤカの変化形である「ナーイク(Naik)」が、伍長として扱われた。

参考文献 編集