ニケフォロス朝

東ローマ帝国の王朝

ニケフォロス朝(ニケフォロスちょう、ギリシア語: Δυναστεία του Νικηφόρου802年 - 813年)は、ニケフォロス1世を始祖とする東ローマ帝国王朝イサウリア朝の女帝エイレーネーの廃位後に帝位を継承した短い王朝であった。その帝権はかつてより脆弱で不安定なものとなっており、財政面でも問題があった[1]

この期間、東ローマ帝国では国境における戦いが続き、財源が枯渇した。また、過去の多くの皇帝と同様、ニケフォロス1世もブルガリア軍との戦いで戦死した。さらに、800年にカール大帝ローマ皇帝として戴冠された後、東ローマ帝国の西側に対する影響力は低下し続けていた。

ニケフォロス1世(802年 - 811年) 編集

ニケフォロスはかつて財務長官をつとめ、エイレーネーの廃位後、財政改革に着手した。ニケフォロスの行政改革にはテマ制の再組織化も含まれていた。また、803年の反乱を鎮圧し、他の過去のほとんどの皇帝と同様に戦場に赴いた。805年、フリギアのクラソスの戦いで敗北を喫し、ブルガリア軍と戦ったプリスカの戦いにおいて戦死した。

ニケフォロスの後継者(811年 - 813年) 編集

811年、ニケフォロス1世の死により、息子で共同皇帝であったスタウラキオスが帝位を継承した。しかし、スタウラキオス自身もプリスカの戦いにおいて重傷を負っており、継承をめぐる論争ののち、姉妹プロコピアの夫ミカエルに説得されて退位し、ミカエルがミカエル1世ランガベとして帝位を継承した。

ミカエル1世は外交政策よりも軍事政策を行った。しかし、ミカエルも義父や義兄が敗れたブルガリアクルムと争って敗北し、その立場は著しく弱まった。反乱の兆候に気づいたミカエルは退位し、ニケフォロス朝は断絶した。

ニケフォロス朝皇帝一覧 編集

系図 編集

 
ニケフォロス1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スタウラキオス
 
プロコピア
 
ミカエル1世ランガベー
 
 

脚注 編集

  1. ^ Jenkins. Byzantium The Imperial Centuries AD 610-1071. p. 117
先代
イサウリア王朝
東ローマ帝国
802年 - 813年
次代
アモリア王朝