ニューギニア沖海戦(ニューギニアおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1942年2月下旬に発生した日本海軍アメリカ海軍との間の海戦[注釈 1]。 大本営発表で「ニューギニア沖海戦」と呼称されたが[6][注釈 2]、戦後の出版物では「ラバウル沖航空戦」と呼称されることもある[8][9]。 日本軍はラバウル航空隊一式陸上攻撃機で空母レキシントンを中核とする第11任務部隊(空母機動部隊)を迎え撃ち、艦上戦闘機の邀撃と対空砲火で全滅に近い被害を受けたが[10]、アメリカ機動部隊も作戦目的(ラバウル空襲)を放棄して撤退した[11][12]

ニューギニア沖海戦

左エンジンを喪失した一式陸攻
戦争太平洋戦争
年月日1942年2月20日
場所ラバウル東方720km海上
結果:日本軍航空隊に大損害
アメリカ海軍は作戦目的を放棄して撤退[1]
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
日本 井上成美
日本 後藤英次
日本 伊藤琢蔵  
アメリカ合衆国 ウィルソン・ブラウン
アメリカ合衆国 ジョン・サッチ
戦力
陸上攻撃機17 航空母艦1
重巡洋艦4
駆逐艦10
損害
陸上攻撃機15喪失(不時着2を含む)、飛行艇3喪失[2]、水上偵察機1喪失[3] 航空母艦1に至近弾、F4F戦闘機2喪失[4]、7被弾損傷
南方作戦

背景 編集

オーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルは、天然の泊地やオーストラリア軍が設営した飛行場を擁していた[13]。日本軍は、トラック諸島根拠地の防衛と米豪遮断作戦の構想に基づき、ラバウルを奪取する必要性を見出していた[14][15]。特に南洋部隊指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官、旗艦「鹿島」)は、太平洋戦争開戦前からラバウル攻略を持論としていた[16]。南洋部隊は連合艦隊軍隊区分による名称で、内南洋及びソロモン、ニューブリテン島方面の作戦を担当し、第四艦隊を基幹としてその長官を指揮官とした[17]

1942年(昭和17年)1月20日から22日にかけて日本軍は第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将指揮下の大型空母4隻[注釈 3]以下の南雲機動部隊をニューアイルランド島沖合の北東とビスマルク海に進出させ、21日にニューギニア島ラエサラモア空襲した[19]。この方面に連合軍は有力な艦隊や基地航空隊を配していなかった[20]。 南洋部隊指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官)指揮下の艦艇群と第24航空戦隊(司令官後藤英次少将)、さらに日本陸軍南海支隊(堀井富太郎陸軍少将)[21]も、ラバウルとニューアイルランド島カビエンへの進撃および空襲を開始した[16][注釈 4]。 1月22日-23日[24]、日本軍はカビエンとラバウルに上陸し[25][26]、これを占領した[27]

1942年(昭和17年)1月下旬、日本軍は既述のようにニューブリテン島ラバウルを占領[22]、南洋部隊は同地に進出するとともにその航空基地の整備に努めた[14]。水上機部隊や横浜海軍航空隊[28]九七式飛行艇部隊を進出させ[29][30]、続いてラバウル飛行場の整備に着手する[31][32]。1月31日には五航戦によって運ばれてきた千歳海軍航空隊九六式艦上戦闘機 18機が到着した[30][33][34]。2月7日からは陸上攻撃機が進出を開始する[30][34]。南洋部隊はラバウル航空隊を増強しつつ、次期作戦に向けて準備を進めた[35]

アメリカ軍は真珠湾攻撃の影響から戦艦部隊の出撃は行えず[11][36]、空母機動部隊によるマーシャル・ギルバート諸島機動空襲など[37]、散発的な反撃を行っていた[38][39]。また日本軍が占領したラバウルに対しては、ポートモレスビーよりB-17重爆による空襲を開始した[40]。 2月15日、シンガポールは陥落した[41][42]シンガポールの戦い[43]。これにより日本軍の攻勢が続き、ラバウルを拠点としてニューカレドニアニューヘブライズ諸島に進撃するのではないかと恐れたアメリカ合衆国オーストラリアは、アメリカ海軍の投入を決定した[44][45]ウィルソン・ブラウン海軍中将が指揮する大型空母レキシントン(艦長フレデリック・C・シャーマン大佐)を基幹とした機動部隊をハーバート・リアリー英語版中将を司令官とするANZAC部隊英語版に編入し、ラバウルに奇襲攻撃を敢行することにした[36][46]。なお大型空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) が伊号第6潜水艦の雷撃で大破して修理を余儀なくされ[37]、ちょうどレキシントン第2戦闘飛行隊(VF-2)も機種交換の時期だったので、VF-3[47](サラトガ航空群第3戦闘飛行隊、指揮官ジョン・サッチ少佐)がレキシントンに配備されていた[4]

1月31日、ブラウン中将(旗艦レキシントン)が率いる第11任務部隊 (Task Force 11) は輸送船団を護衛しつつ、オアフ島真珠湾を出撃した[48][49]。 船団護衛任務終了後の第11任務部隊は、2月21日午前4時のラバウル空襲を予定してニューブリテン島を目指した[1][50]。ラバウルより125浬東方海面より攻撃隊を発進させる計画だったが、ブラウン中将は「ラバウルに二つの飛行場があること」「日本軍がラバウルより600浬の海域まで哨戒機を派遣している」とは思わなかったという[50]

経過 編集

航空攻撃 編集

1942年(昭和17年)2月中旬、南洋部隊指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官)は「米海軍機動部隊真珠湾出撃の模様」という情報を入手、2月18日(日本時間)0150、麾下部隊に警戒措置を執るよう下令した[51][52]2月19日1335、トラック泊地より南東160浬に位置するモートロック諸島の見張所から「国籍不明の駆逐艦2隻発見」との報告を得る[1][53](米軍調査によると、該当駆逐艦なし。米軍機動部隊は該当報告位置から南東約530浬地点を行動中)[52][54]。当時、南洋部隊(第四艦隊)の水上艦艇(鹿島、第六戦隊など)は大多数がトラック泊地にあり、空母祥鳳はパラオ方面に移動中だった[53]。第十七飛行隊や第六戦隊の航空機は、敵艦を発見できなかった[52]。だが、結果として駆逐艦発見の誤認が、日本海軍航空隊の先制攻撃に繋がった[8][54]

2月20日0615、艦載水上偵察機から「敵情得ず」の報告を受けた井上長官(南洋部隊指揮官)は、陸上隊の索敵攻撃の待機を解く[55]。だが南洋部隊航空部隊指揮官はすでに索敵攻撃を命じており、索敵機は発進した後だった[55]。横浜海軍航空隊の飛行艇部隊はラバウルを拠点に広範囲の索敵を実施した[28][56]。 同日朝0830、哨戒中の日本軍九七式飛行艇(第22号機。指揮官坂井登中尉、海兵66期。横浜海軍航空隊所属)がアメリカ艦隊を発見[56][57]、空母1隻・巡洋艦4隻・駆逐艦10隻を報告した[58][59]。その後、坂井機は消息を絶った[57][59]。続いて別の飛行艇(第34号機)も消息を絶った[57][59]。 米軍側記録によれば、2月20日1015にラバウル東方350浬地点で旗艦レキシントンはレーダーで機影を探知、F4Fワイルドキャット6機を向かわせた[60]。ワイルドキャットは日本軍の四発飛行艇2機を撃墜、1機を撃退した[59][60]。サッチ隊長も出撃し、大艇1機を共同で撃墜している[61]

索敵の飛行艇は撃墜されたが、第24航空戦隊(後藤英次司令官)は関係部隊に敵発見を報告した[57]。 1100[57]第四艦隊(司令長官井上成美中将)は麾下の第24航空戦隊に対し、ただちに航空攻撃を下令する[62]。またトラック泊地やマーシャル諸島に分散展開していた第四艦隊麾下航空部隊にも米軍機動部隊攻撃を命じた[63][64]。 第24航空戦隊司令官の命令を受けた第四航空隊司令森玉賀四大佐は、陸攻による攻撃を決意する[59][58]。12時20分、日本軍はラバウルから第四航空隊の一式陸攻17機(指揮官、飛行隊長伊藤琢蔵少佐、海兵56期)を発進させた[56][65][66]。 当時のラバウルにおける24航戦兵力は、陸攻18、九六式艦上戦闘機14、零式艦上戦闘機13、飛行艇12と報告されている[67]。このうち零戦7機[30][68]は空母「祥鳳」(南洋部隊所属)により輸送され[69]、15日に到着したばかりだった[70][71]。 また千歳海軍航空隊が装備する九六艦戦用の増槽がなく、戦闘機の護衛はなかった[59][66]。陸攻用の対艦攻撃装備(魚雷)も到着していなかったため、陸攻隊は爆装(250kg爆弾2発、60kg爆弾6発)のみでの出撃になった[59][58]。このため24航戦は飛行艇による黎明雷撃を敢行することにした[56][72]。 陸攻隊に戦闘機の護衛が無く、さらに爆装のみでの敵機動部隊攻撃に関係者は不安をもったが、搭乗員達は南西方面以来の実戦経験から士気は極めてたかく、攻撃の成功を確信していたという[1][56]

当時のニューアイルランド島東方の天候はよくなかったが、日本軍攻撃隊は九七式飛行艇(敵艦隊発見後、行方不明)や[73]聖川丸所属零式水上偵察機(松井由五郎飛行兵曹長指揮、未帰還)[74][3]の誘導により米軍機動部隊を発見する[75][注釈 5]。 レキシントン側はレーダーで日本軍攻撃隊の接近を探知しており、F4F戦闘機隊で迎撃した[1][59]。 1415時、飛行隊長伊藤少佐は全機に突撃を下令した[75]。1435、第2中隊9機が水平爆撃を開始した[65][77]。だが命中弾はなく、F4F戦闘機隊14機の迎撃と対空砲火で第2中隊は全滅(爆撃前に2機喪失、7機爆撃するも命中弾なし、その後全滅)[59][77]。1500時には第1中隊8機が攻撃を開始した[65]。だがレキシントンに至近弾が1発あったのみで4機を失う(爆撃前3機喪失、5機爆撃してレキシントンに至近弾、襲撃後1機喪失)[59][77]。被弾炎上した2機は特攻を試み[1]、1機はレキシントンの15m手前で海面に突入した[77]。後述の「空母1隻火災」報告は、この機の火焔を誤認したとされる[77]

第11任務部隊を攻撃した陸攻部隊は、ラバウルに帰投出来たのは被弾損傷した第1中隊の2機のみという大損害を受けた[65][78][注釈 6]。第四航空隊は飛行隊長伊藤琢蔵少佐、第一分隊長瀬戸與五郎大尉、第二中隊長中川正義大尉など、合計107名を失うことになった[80]

また、索敵の九七式飛行艇[2]と零式水上偵察機(松井飛行兵曹長)も未帰還となった[77][81]

一方、VF-3飛行隊長ジョン・サッチ少佐が率いるF4F戦闘機隊は2機を喪失し、1名が戦死した[4]エドワード・H・オヘア中尉は数分間で一式陸攻を5機撃墜したと認定され[82][83]議会名誉勲章を授与されて二階級特進した[4][注釈 7]

日本側(第24航空戦隊および第四艦隊長官井上成美中将)はサラトガ型を含む空母2隻を攻撃し、写真判定により空母1隻を撃沈[86][87]、他数隻に損傷を与えたと誤認した[注釈 8]。 第24航空戦隊はワスプ型航空母艦と認識している[89]連合艦隊に伝達された日本側戦果は巡洋艦1隻もしくは駆逐艦1隻航行不能であり、連合艦隊参謀長宇垣纏少将は「遺憾千萬とか云はん」「來るなら今度こそと思ふが攻撃機の被害甚大なるは如何にも残念なり」と記述している[90]

水上部隊 編集

同日、第四艦隊司令長官井上成美中将は航空攻撃に呼応して、南洋部隊麾下の水上艦艇部隊により米軍機動部隊の攻撃を企図した[91][92]。 旗艦鹿島[93][94]および敷設艦沖島(第十九戦隊司令官志摩清英少将)[95][96]五藤存知少将指揮下の第六戦隊(第1小隊〈青葉加古〉、第2小隊〈衣笠古鷹〉)[97][98]丸茂邦則少将指揮下の第十八戦隊(天龍龍田[99]を率いて正午以後[77]、トラック泊地を出撃した[98][100]。 別行動中の第六水雷戦隊(軽巡夕張、第29駆逐隊〈追風朝凪夕凪〉、第30駆逐隊〈睦月弥生望月〉、第23駆逐隊〈卯月菊月夕月[注釈 9])や[101][102]、航空機輸送任務中の祥鳳隊(空母祥鳳、駆逐艦帆風)にも合流を命じた[71][103]。 当初の情報によると米空母は3隻であり[104]、加古艦長は「勝算のない出撃はいやなものだ」と回想している[105]。また南洋部隊主隊(鹿島、沖島)の出撃(避退)海面は米軍機動部隊と反対方向であり、軍令部では「たとえ戦列に加われないとしても敵にむかって前進すべき」との批判があった[94]。 また第四艦隊の隷下にあった潜水艦部隊は、第七潜水戦隊(司令官大西新蔵少将、旗艦「迅鯨」)であった[106]。七潜戦隷下の第27潜水隊と第33潜水隊も、索敵攻撃に向かった[77]

2月21日[107]、日本側はラバウル東北方面を索敵するが[108]、米軍機動部隊を発見できなかった[109][110]2月23日以降、第四艦隊指揮下各艦はトラック泊地に戻った[111][112][113]永野修身軍令部総長は昭和天皇に戦況を上奏する[114]。この中で永野総長は「航空母艦1隻撃沈確実」と報告すべきところを「航空母艦一隻を撃沈せるものの如きも更に詳細調査中」と訂正して上奏した[115]

参加兵力 編集

日本軍 編集

基地航空機(在ラバウル、第24航空戦隊)[45]

  • 第4航空隊
    • 九六式艦上戦闘機(出撃せず)
    • 零式艦上戦闘機(出撃せず)
    • 陸攻 17機(撃墜13、不時着2、合計15喪失)[34][注釈 10]
  • 横浜航空隊ラバウル派遣隊
    • 九七式飛行艇9(喪失3〈坂井登中尉機、林清兵曹長機、牧野元博予備少尉機〉)[2][注釈 11]

アメリカ軍 編集

第11任務部隊(指揮官ウィルソン・ブラウン中将)

戦果 編集

日本軍は、一式陸上攻撃機15機損失(不時着2機を含む)、九七式飛行艇3機損失[2]零式水上偵察機1機損失[3]

アメリカ軍は、航空母艦「レキシントン」(旗艦)1隻に至近弾があったが損害はなく、破片による軽傷数名、機銃弾による負傷者1名[83]F4F戦闘機は2機を喪失、7機が被弾した。日本軍陸攻部隊に大損害を与えたものの、作戦目的であったラバウル空襲を達成できずに撤退した[12]

影響 編集

空戦に勝利を収めたアメリカ機動部隊であったが奇襲が失敗したことは明白となり、燃料の消費も著しかったことから[39][59]、作戦目的であるラバウルへの空襲を中止した[8][116]。機動部隊は撤退行動に移った[116][117]。 しかしアメリカ軍が同方面における行動を断念したわけではなく、ブラウン中将は「今後、ラバウルのような強力な航空基地を攻撃する際には空母2隻以上を必要とし、作戦海域によってはタンカー2隻の追加が必要」とニミッツ提督に意見具申した[49][12]。またハルゼー提督率いる機動部隊(空母エンタープライズ基幹)で、2月下旬以降のウェーク島空襲や南鳥島空襲を実施した[37][118]。 つづいて空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)により再度のラバウル空襲を予定していたが、3月8日の日本軍ニューギニア島要所2地点(ラエサラモア)に対する上陸作戦を受けて[119]、急遽予定を変更し[120]、ラエとサラモアに対する空襲を実施する[121]。第六水雷戦隊旗艦「夕張」以下の日本軍に大損害を与えた[122]ラエ・サラモアへの空襲[123][124]

本海戦は、戦闘機の掩護のない攻撃隊が大損害を受けることを立証した[78]奥宮正武(太平洋戦争中第四航空戦隊参謀、第二航空戦隊参謀等)は本海戦について「しかし、この陸攻隊の大きな犠牲は、決して無駄ではなかった。(中略)ラバウルの被空襲を防いだ点からだけでも、伊藤攻撃隊の功績は正しく評価さるべきであろう。」と述べている[78]。南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官は陸攻隊の功績を讃えると共に、基地航空兵力の増強および空母2隻を基幹とする機動部隊の南洋部隊編入を上級司令部に要望した[125]

日本軍の機動部隊は2月15日にパラオを出航して豪本土ダーウィン空襲に向かうためバンダ海にあり[126]、すぐさま反撃できなかった。日本軍は第24航空戦隊の報告をうけて空母1隻撃沈、艦型不詳1を撃沈、敵戦闘機10機撃墜、味方損害9機との大本営発表を行い[127]、この戦いをニューギニア沖海戦と呼称した[注釈 2][注釈 12]。日本側は、被弾した陸攻が敵空母に体当たりして撃沈に追い込んだと宣伝している[5][128]井上成美第四艦隊司令長官は「大本営報道部ノ公表ハ貴隊ノ将兵ノ挙ゲタル戦果ニ比シ小(?)モノアルモ右公表如何ニ拘ラズ本職〔中略〕絶大ナル賞(?)ト今後ノ信頼トヲ持スルモノナルコトヲ更メテ言明ス〔後略〕」という所信を述べ、大本営が南洋艦隊の戦果を過小評価し、大本営発表は過小だったと批判した[127]。 連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第24航空戦隊からの戦果報告(誤認)について陣中日誌「戦藻録」に「ラボール東北方に出現せる敵は其後沓として消息を絶てり。二十四航空戰隊の攻撃の成果を寫眞に依り調査するに、サラトガ型に非ざる空母一隻を轟沈せること確實なりと云ふ。敵避退の行動に鑑み或は眞ならんと思はる。あれ丈の飛行機の損害ありたる之位は成果を擧げ得べき筈なり。」と残している[129]

出典 編集

注釈 編集

  1. ^ ニューギニア東北で敵航空母艦撃沈 帝國海軍航空隊の赫々たる戰果[5] ニューギニア島のラエ及びサラモアに敵前上陸して直に之を占領し、更に戰果を擴大し次いで首都ポートモレスビーを爆撃遂に之を攻略し、ニューギニヤを戡定したが、二月二十一日にはニューギニヤ島の東北海上に於て敵航空母艦を撃沈して赫々たる不滅の大戰果を擧げた。/即ち二月廿一日洋上に巡洋艦驅逐艦に護送せられたる二三の航空母艦を含む有力なる敵艦隊を發見したる帝國海軍航空部隊は機を逸せず敵上空に殺到、敵戰闘機群と壮烈なる空中戰を交へ、その一部は機體もろとも對當りを以て敵航空母艦を大破、大火災を生ぜしめて遂に撃沈し他の軍艦一隻に大損害を與へ、敵戰闘機十機を撃墜した。(以下略)
  2. ^ a b (ハ)西南太平洋方面作戦[7](中略)二月十一日、わが海軍航空部隊は、ニューギニア北方數百里の洋上に、航空母艦二隻を中心に、その左右に重巡輕巡各二隻を配し、さらのその周圍を驅逐艦十隻で固めた有力なる敵部隊を發見、機を逸せず敵上空に殺到、忽ちにして航空母艦一隻、巡洋艦一隻を撃沈、わが○○基地を襲撃せんとして出撃し來つた敵の企圖を完全に粉碎してしまつた。このニューギニア海戰は、わが参加部隊が爆撃機のみであつたといふ點において、特に記録さるべきである。即ち開戰以來海軍航空部隊の手によつて行はれた海戰には、ほとんどすべて爆撃機、雷撃機、戰闘機の参加を見てゐるのであるが、ひとりこの海戰のみは、ただ爆撃機だけ、それも驚くほどの小數な兵力を以て、この敵大艦隊に敢然と戰ひを挑み、熾烈なる防空砲火をものともせず、捨身必殺の猛攻を加へて、つひに前記の如き戰果を擧げたのである。(ニューギニア海戰)
  3. ^ 第一航空戦隊赤城加賀)、第五航空戦隊瑞鶴翔鶴[18]
  4. ^ 陸軍輸送船団は第十九戦隊司令官志摩清英少将指揮下の艦艇に護衛され、1月14日にグアム島を出発した[22][23]
  5. ^ (ロ)二月二十日「モートロック」見張所ヨリ国籍不明ノ駆逐艦ラシキモノ見ユノ報ニヨリ之ガ索敵ノタメ零式水偵一機ヲ派遣セシガ〇九三〇頃浜空大艇敵ノ大部隊発見ノ報ニ一二三〇零式水偵一機ヲ索敵触接ノ爲RRノ六二度四七〇哩ニ発進セシム 本水偵ハ敵主力ヲ発見之ニ巧妙ナル触接ヲナシ有効ナル無電報告ヲナス處アリシモ皈途二二四〇以後行方不明トナル[76]
  6. ^ 空戦で13機喪失[49]、1機はヌグノリア諸島ヌグーバ島に不時着、もう1機はシンプソン湾に不時着水[79]
  7. ^ 後日、レキシントンが真珠湾に帰投する際にオヘアの乗機(製造番号4031、機番F-15)はヨークタウンに移されることになった[84]。オヘア機は事故で失われたという資料もあるが[84]、実際は珊瑚海海戦を生き延びて、1944年7月29日まで健在だったという[85]
  8. ^ (ロ)敵軍ノ情勢[88] 一日早朝航空母艦及巡洋艦等ヲ基幹トスル敵機動部隊「マーシャル」諸島ニ来襲ノ報アリシモ敵機動部隊ハ逸早ク避退爾後消息不明ノ処再ビ十九日「モートロック」監視所ラシキ駆逐艦ヲ發見次デ二十日「ラボール」ノ東北東ニ敵機動部隊現レ我R方面航空部隊ハ之ヲ「ラボール」ノ七五度四六〇浬ノ海面ニ於テ捕捉攻撃シ空母一ヲ撃沈其ノ他二損傷ヲ與ヘタリ 更ニ二十六日頃「ハワイ」ヲ出撃セル他ノ敵機動部隊ハ二十四日突如「ウエーク」ヲ襲撃セシガ之ヲ撃退セリ(以下略)
  9. ^ 第23駆逐隊は第二航空戦隊に所属するが、南洋部隊に臨時編入されていた。
  10. ^ 戦史叢書14巻』80頁の損害では、陸攻14機喪失・不時着2機とする。
  11. ^ 戦史叢書14巻』80頁の損害では、飛行艇2喪失とする。
  12. ^ 大本營發表(昭和十七年二月二十六日[6] 帝國海軍航空隊は二月二十日ニューギニヤ島東北方数百浬の洋上に航空母艦を含む有力なる敵部隊を發見、機を逸せず敵上空に殺到、敵戰闘機群と壮烈なる空中戰闘を交へ、その一部は猛然機體もろとも體當りを以て敵航空母艦を大破、大火災を生ぜしめ他軍艦一隻にも大損害を與へ、敵戰闘機十機を撃墜せり、本攻撃に於て我が方未だ還らざるもの九機なり。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f 戦史叢書14巻78-80頁「レキシントン機動部隊のラバウル空襲」
  2. ^ a b c d 戦史叢書38巻 440-441頁〔 横濱空の索敵機、敵発見、触接 〕
  3. ^ a b c 戦史叢書38巻 441頁〔 聖川丸水偵の触接 〕
  4. ^ a b c d ワイルドキャットエース 2001, p. 10b.
  5. ^ a b #大東亜戦争記録画報前コマ51(原本94頁)
  6. ^ a b #Z旗高くp.17
  7. ^ 海軍五十年史 1943, pp. 204–205原本387-388頁
  8. ^ a b c 戦史叢書80巻 177-178頁〔 米空母機動部隊の機動/ラバウル沖航空戦 〕
  9. ^ 戦史叢書102巻 108頁〔 昭和17年(1942年)2月20日/ラバウル沖航空戦(海軍航空部隊、ラバウル東方に米機動部隊を発見し攻撃)〕
  10. ^ ワイルドキャットエース 2001, p. 10aニューギニア沖海戦 Battle of New Guinea
  11. ^ a b ニミッツの太平洋海戦史 41-42頁〔 太平洋の交通線維持 〕
  12. ^ a b c 戦史叢書38巻 437頁〔 ラバウル空襲の断念と次期作戦への準備 〕
  13. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫) 25-29頁〔 2.浮かび上がったラバウル 〕
  14. ^ a b 戦史叢書80巻 136頁〔 ラバウル攻略作戦決定と攻略 〕
  15. ^ 戦史叢書14巻 6-7頁〔 ラバウル攻略の底流 〕
  16. ^ a b 写真太平洋戦争2巻 77-81頁〔 ラバウル攻略/井上成美長官の持論 〕
  17. ^ 戦史叢書102巻 532頁〔 (ハ)艦隊区分による主要部隊/南洋部隊 〕
  18. ^ 写真太平洋戦争2巻 26-31頁〔 鈴木範樹、機動部隊R作戦を支援 〕
  19. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫) 29-33頁〔 3.容易だった占領 〕
  20. ^ 戦史叢書49巻 74-76頁〔 豪州軍の状況 〕
  21. ^ 戦史叢書14巻 8-10頁〔 陸軍部隊の編成 〕
  22. ^ a b 戦史叢書35巻 329-331頁〔 ラバウル攻略 〕
  23. ^ 戦史叢書49巻 70頁〔 挿図第五 R攻略作戦各隊行動概要図 〕
  24. ^ 戦史叢書102巻 103頁〔 昭和17年(1942年)1月23日 〕
  25. ^ 戦史叢書14巻 42-43頁〔 海軍のカビエン攻略 〕
  26. ^ 戦史叢書49巻 72-73頁〔 ラバウル上陸戦/カビエン上陸戦 〕
  27. ^ 戦史叢書38巻 315頁〔 ラバウル攻略と同地への進出 〕
  28. ^ a b 戦史叢書49巻 85-86頁〔 横濱空大艇隊の作戦 〕
  29. ^ 写真太平洋戦争2巻 84-87頁〔 飛行艇隊ラバウルに進出(各写真解説)〕
  30. ^ a b c d 戦史叢書49巻 82-83頁〔 基地航空部隊の進出 〕
  31. ^ 戦史叢書14巻 46-47頁〔 航空基地の整備 〕
  32. ^ 戦史叢書49巻 80-82頁〔 ラバウル方面航空基地の整備 〕
  33. ^ 写真太平洋戦争2巻 52-55頁〔 多賀一史、南海の不沈空母ラバウル 〕
  34. ^ a b c 戦史叢書49巻 86-88頁〔 千歳空及び四空の作戦 〕
  35. ^ 戦史叢書49巻 76-77頁〔 南洋部隊の作戦指導 〕
  36. ^ a b 戦史叢書14巻 77-78頁〔 米機動部隊の策動と戦略的背景 〕
  37. ^ a b c 日本空母vs米空母 2008, p. 24.
  38. ^ 写真太平洋戦争2巻 118-124頁〔 石橋孝夫、米空母機動部隊の反撃 〕
  39. ^ a b 戦史叢書49巻 101-102頁〔 米空母機動部隊の作戦 〕
  40. ^ 戦史叢書7巻 17-18頁〔 航空持久戦の端緒 〕
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  103. ^ #祥鳳日誌(3) p.3〔 ○二月十八日 本艦戦斗機補充竝ニ基地訓練ノ爲「トラツク」發「パラオ」ニ向ケ廻航中二月二十日敵機動部隊「ラバウル」東方海面ニ出現スルヤ命ニ依リ急遽反転二月二十二日「トラツク」南東海面ニ到達同日〇五〇〇支援部隊指揮官ノ指揮下ニ入リ作戰ス 同日夕刻的機動部隊ノ敗走後支援部隊指揮官ノ指揮ヲ解カレ再ビ前記任務ヲ以テ「パラオ」ニ廻航中… 〕
  104. ^ 城英一郎日記 1982, p. 144a(昭和17年2月23日記事)一七〇〇、戦況上聞(佐藤)。(一)ラボール東方に出現の米艦隊(空母三或は空母二、戦艦一)の消息其後不明、我空襲により空母一撃沈せるが如し。(以下略)
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  108. ^ #S1612聖川丸(5) p.11〔 (前略)二十一日早朝更ニ零式水偵二機ヲ「ラバウル」ノ五〇度及三七度方向ニ四七〇哩ノ索敵ヲ實施セシメタルモ内一機ハ「ラバウル」ノ五一度一一四哩附近ニ不時着午后本艦ニ依リ人員ノミ揚収セリ 他ノ一機ハ全航敵ヲ見ズ 行方不明機ノ捜索ニ万般ノ手段ヲ盡クセルモ遂ニ発見セズ 〕
  109. ^ #戦藻録(1968) 86頁〔 二月廿一日 土曜日 晴 上天氣 〕
  110. ^ #S1612聖川丸(5) pp.12-13〔 (三)敵軍ノ實況 米機動部隊ノ來襲三回ニ及ビ各回トモ相當ノ損害ヲ與ヘタルモ其ノ后退却巧妙ニシテ何レモ之ヲ捕捉撃滅スルニ至ラズ其ノ后ノ消息詳ナラズ 「ラバウル」ニ来襲スル敵機ハ上旬頃ハ其ノ行動緩慢ナリシモ下旬ニハ其ノ行動極メテ巧妙トナリ常ニ急襲避退スルヲ常トセリ 〕
  111. ^ #S1702十八戦隊日誌(1) pp.9-10〔 (ワ)航空部隊觸接ヲ失シ各部隊二十日夜ヨリ二十一日ニ亘リ索敵セルモ敵情ヲ得サリシヲ以テ二十一日一二〇〇反轉針路概ネ六〇度ニテ索敵シツツ北上 二十二日総長P.Tヲ空襲スルコトアルベキ敵ニ備へ「ナチツク」島南方海面迄索敵行動セルモ遂ニ敵情ヲ得ズ南洋部隊電令作第一〇一號及支援部隊信令第六五號ニ接シP.Tニ回航ス 〕
  112. ^ #S1702十九戦隊日誌(1) p.7〔 (2)「R」東方海面ニ出現セル敵機動部隊邀撃ノ爲第四艦隊司令長官直率ニテ二十日一五三〇「トラツク」南方海面ニ出撃二十三日〇八〇〇「トラツク」ニ入泊 〕
  113. ^ #祥鳳日誌(3) p.3〔 …二月二十四日「ウエイキ」島附近ニ來龍セル敵機動部隊ニ對處スベク命ニ依リ再度反転「トラツク」南西方海面ニ急行中「トラツク」ニ入泊同地ニリテ訓練ニ従事スベキ旨発令アリ 二月二十六日「トラツク」着爾後同地ニ在リテ警戒碇泊飛行機隊ノ基地訓練ヲ實施シツツアリ 〕
  114. ^ 城英一郎日記 1982, p. 143(昭和17年2月21日記事)(略)一六〇〇~一六二五、軍令部総長、戦況奏上。「ラバウル」東方に出現の米艦隊(〈空母〉×2、C×3、d×5)に対し「ラバウル」のflo×17にて空襲、C×1を航行不能ならしむ、我flo×14を失ふ。「ロンボック」海峡海戦、米蘭d×2を 8dgにて撃沈。
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  119. ^ 戦史叢書102巻 111頁〔 昭和17年(1942年)3月8日 〕
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参考文献 編集

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  • イアン・トール「第六章 不意を打たれるのはお前だ」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで』村上和久 訳、文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376420-7 
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  • A・A・へーリング 著、宇田道夫 訳者、山本親雄 日本語版監修『the LEXINGTON goes down 珊瑚海海戦 空母レキシントン撃沈!』株式会社サンケイ出版〈第二世界大戦ブックス 51〉、1973年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦』 第7巻、朝雲新聞社、1967年8月。 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(1) 昭和17年5月まで』 第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊(2) ―昭和17年6月まで―』 第80巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
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  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。 
  • 雑誌「丸」編集部 編『写真 太平洋戦争<第二巻> 中部・南部太平洋方面攻略作戦 蘭印攻略作戦/インド洋作戦』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年1月。ISBN 4-7698-2071-2 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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外部リンク 編集

関連項目 編集