ノート:もんじゃ焼き

最新のコメント:10 か月前 | 投稿者:大和ゆら男

もんじゃ焼きはお好み焼きの小さい奴とは「ぜんぜん」違うのだが。0null0 18:14 2003年12月3日 (UTC)

既に修正されていました。--58.138.37.181 2008年2月14日 (木) 09:24 (UTC)返信

群馬県伊勢崎市のもんじゃ焼きの最大の特徴はイチゴシロップを入れることだと思いますので、書き加えておきます。ただ、全ての店が入れているとは言い切れないので多いとしておきました。--甲斐援隊員G 2006年1月29日 (日) 09:01 (UTC)返信

100円の店で代表的かつ分かりやすい写真はありますでしょうか--58.138.37.181 2008年2月14日 (木) 09:24 (UTC)返信
あま・からは伊勢崎特有の物なので伊勢崎の断りを入れるほうが適切と考えます

もんじゃやお好み焼きのルーツ系統図 http://www.citydo.com/tako/columnx.html これが定説となっています。


江戸時代にもんじゃ焼きに類するものがあった根拠として『北斎漫画』が挙げられていますが、どの絵のことでしょうか。初編にあるものでしたら、飴細工かガラス細工ではないかと思うのですが...。--222.148.40.173 2008年5月2日 (金) 05:34 (UTC)返信

「天ぷらにソースをかけますか?―ニッポン食文化の境界線」野瀬泰申という本に、1823年版に載っているという情報がありました。

追記。『コムギ粉の食文化史』岡田哲、『「粉もん」庶民の食文化』熊谷真菜、に、北斎の該当イラスト付きで註釈が載ってます。Modeha 2009年4月12日 (日) 08:46 (UTC)返信


「もんじゃ焼き」を略して「もんじゃ」というのではなく、もともと「もんじゃ」というのが正しいはずですが。 --221.117.61.146 2008年9月12日 (金) 05:17 (UTC)返信


全体的に駄菓子屋のもんじゃやそのルールを尊んで、最近のもんじゃ、特に月島もんじゃに対して蔑視しているような論調を感じるのだが‥。もんじゃやお好み焼きが時代に合わせて進化しているなら、月島型のものもそれなりに評価すべきではないのか?--220.254.99.30 2008年10月8日 (水) 18:10 (UTC)返信


すごく細かい話ですが、小項目の「ヘラ」と概要の文中に出てくる「コテ」は同じものを言おうとしてますよね?用語が揃っていません。そもそもどちらかに揃えるべきかどうかもよく分かってないのですが… --MAR 2010年5月3日 (月) 15:49 (UTC)返信


歴史には「関東下町の駄菓子屋で関西で流行っているお好み焼きを子供向けに店で作って販売しようとして出汁を入れ過ぎて失敗した所から始まったと言われている。」とあるのに、後の方で「大正時代にもんじゃ焼きから派生したどんどん焼きが生まれ、そしてどんどん焼きは関西に一銭洋食との名で広まり、それがお好み焼きやたこ焼きに発展していった」と起源が循環しています。--大和ゆら男会話2023年7月1日 (土) 09:10 (UTC)返信


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210.139.44.7 会話/whois氏が投稿した「演説」部分です--Konamonodaisuki 2009年2月24日 (火) 03:33 (UTC)返信

もんじゃ焼きのルーツについて もんじゃ焼きのルーツは江戸時代後期とされていますが、江戸時代後期、近代産業への取り組みとして多くの外国人を日本へ招聘しその石杖を築いたことは周知の通りですが、そのころ群馬県富岡市には現在、世界遺産登録を目指す日本近代産業のシンボルである「富岡製糸工場」の建設を目指していました。実はその中心的な技師であったポール・ブリューナはフランス人であり、彼らにの技術伝承による貢献によって近代化が進んだことは周知の通りです。さて、そこでフランスの名物料理「クレープ」という存在が浮上してくるのです。「クレープ」は本来小麦粉やそば粉をビールと卵で溶き、薄く焼いたものに何かを巻いたり乗せたりして、それをソースにつけたりジャムで食べる主食です。現在の日本でのクレープは牛乳を混ぜて薄く焼いたものをデザートとして食すように思われていますが、本来のクレープはフランス北西部のブルターニュ地方の民族料理です。  ここで仮説ですが、もしこのポール・ブリューナ達の中に、日本とフランスの文化の壁を縮めるたに当時の群馬・上州の人たちとの交流を考え、食事を通してお互いを理解しあうことで意思の疎通を図ろうとした時、言葉が通じない条件の中でこれを解消するためにこの「クレープ」を作ったら・・・。当時群馬は養蚕が盛んであったことで分かるように土地は痩せ、米を含め農作物があまり育たず、しかしうどん粉(小麦粉)やそば粉は多く取れ、うどんやそばをよく食べたことから、この「クレープ」を作ることは可能だったと思われます。そして、実際この時代に鉄板をわざわざ作って食す、それもおやつとして一般的だった食べ物が庶民の間にあったとは当時の経済状況から考えても不自然です。もともと「もんじゃ焼」は今日のように沢山の具を入れて、土手を作って焼くようなものではなく、殆ど何も具として入れることはなく、薄く薄く焼いて食べたものです。ですからある意味クレープを焼くための鉄板をわざわざ用意したと考えられ、そしてそこでクレープを焼いてみせ、焼きあがったものを「食べなさい、食べなさい。Mangez!Mangez!」と。つまりフランス語で「モンジェ!モンジェ!」  これを聞いた当時の人たちはフランス語の意味は分からないのでこれを「モンジェ」という食べ物だと理解したならば、まさしくこれは「モンジェ焼き」つまり「もんじゃ焼き」に他ならないのではと考えるのです。 「もんじゃ焼き」は群馬東部にあるといわれていますが、「もんじゃ」は群馬県全県に存在していて、群馬県中東部の伊勢崎や桐生は絹織物の産地、中部の前橋などは養蚕や絹貿易で栄えたので、群馬県西部に位置する「富岡製糸工場」は絹織物工場であったことからも、養蚕や絹に関係する場所に関係者から関係者に伝えられて庶民でも作れる食材だったことから次第に食されるようになったと考えるのが理屈に合っていると考えられます。食べ方や焼き方は時代性や地域事情によって変化することは当然のことなので、それに関してはそれほど重要ではないような気がします。  それでは何故、埼玉や東京下町特に浅草に「もんじゃ焼き」があるかというと、江戸時代から旧中山道(国道17号&18号)を通ってたどり着くのがまさに東京下町であり中仙道を通って江戸に上ったところに上屋敷があったのが上州(群馬)や越後(新潟)です。実際、「かかあ殿下と空っ風」「雷の産地」といわれる群馬に続く門が浅草の「雷門」であり、上州気質と江戸っ子気質はまったく同じ!!「雷おこしは群馬県人がルーツ」そんなことでもつじつまが合うのが不思議なくらいです。                

「関連項目」節の件 編集

「瞳」がアリなら、(民放の昼ドラですが)毒姫とわたしもアリかと・・・。--日の丸手内職者 2011年10月13日 (木) 01:34 (UTC)返信

豪商の子息で大酒飲みの「門次郎」 編集

門次郎はどこの誰なのか不詳。それ以前に情報の出所も不詳です。(特別:差分/42550015

根拠不詳で残すほど知れ渡っている話とは言いがたいので消します。--Bellis会話2018年3月17日 (土) 00:41 (UTC)返信

北斎漫画 編集

左図の左上NDLJP:851646/8。キャプションがないのでこれが「文字焼き」の図とは使えない。別途解説が必要。--Bellis会話2018年3月17日 (土) 01:43 (UTC)返信

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