ノート:レニ・リーフェンシュタール

英語版を読んで 編集

細かい点ですが、山岳映画がどんなものかについて英語版では、雪の中で肌を露出させたり、裸足で山を登ったりするようなもの、と説明があります。これで女優としての評判を築けるのだろうか、とふと気になりました。。Tomos 18:52 2003年10月19日 (UTC)

山岳映画って? 編集

たしかレニは女優としては成功していなかったと思います。en版記事からは初めから映画製作の方に興味があり、(最初から監督にはなれないので)まず女優として売り込んだ。というふうに深読みしましたが。あと山岳映画って何でしょうね?こちらの方が興味あります。

filming outside in the snow in little clothing, climbing craggy mountains barefoot. っていったい何をしたのかしら? 肉牛 19:12 2003年10月19日 (UTC)

追記を予定しています 編集

この点に関しては、詳しい説明を書く必要があるようです。いずれにせよ、レーニはダンサーとしても、女優としても、そして映画監督としても成功したのは事実です。追記したいと思いますが、しばらく時間をいただかなければ、とても書けません。わたくしは、『聖山』『青の光』のいずれも見ており、さらに邦文の文献は、最後のものを除いてすべて精読するほど読んでいますので、まちがいはないと思います。一か月以内に追記できるよう努力します。
Opponent 19:24 2003年10月19日 (UTC)

解説に期待 編集

それは興味ありますね。レニの出演映画など見る機会はまずないですから。ぜひとも解説を期待いたします。年代からいって表現主義的な映画かしらん?肉牛 19:38 2003年10月19日 (UTC)

楽しみ 編集

なるほど。僕も楽しみにしています。あまり無理なさいませんよう。Tomos 19:41 2003年10月19日 (UTC)

ブリタニカ 編集

ブリタニカのレニの記事を読んでみました。オリンピアがミュンヘン・オリンピックを撮ったものだ、というような明らかな誤記と思われるものも含まれていてちょっと頼りなげですが、様々な作品の発表年について、この記事のものと随分異なったデータがありました。もしかするとイギリス国内で発表した年について記述しているのかも知れないとも思うのですが、例えばロンドンで出版された(と記事内にある)The Sieve of Time の出版年が記事中では91年に、ブリタニカでは92年になっている、などそれだけでは説明できないものもありました。Opponentさんの資料の方が確実に信頼がおける、ということでなければ、近いうちにこの記事との異同を整理してみようと思います。

それから、始めて出演した映画は Peak of Destiny (1925) とあり、それとは別に The Holy Mountain (1925)が記事内で挙げられていることにも気がつきました。これも「映画女優として初めての仕事」は映画Aだが、作品の公開自体はBが先、など詰めようとするとややこしい事態が明らかになるだけなのかも知れませんが、
余所では意見の対立もありますが、ここでは共同作業ができればと思います。Tomos 19:20 2003年10月22日 (UTC)

The Sieve of Time の出版年について 編集

 あー、これは単純にわたくしの誤記です。

ソース: http://www.leni-riefenstahl.de/eng/buch.html

THE SIEVE OF TIME, London: Quartet Books 1992.

Peak of Destiny (1925) ・The Holy Mountain (1925) 編集

"Peak of Destiny"って一体何でしょうね……?

2年くらい前(瀬川さんの本が出た直後頃)に、このころのいきさつをまとめたメモをつくってあったので、参照していただけるとありがたい。『回想』、『美の魔力』などからまとめました。

1925年前後、レーニの生活 編集

(これはあくまでメモですので念のため)

1924年 編集

  • オイゲン・スピロが肖像画を描く。この絵は戦火を生きのびた(現在、レーニの家に飾られている)。
  • プラハ公演。舞台は成功したが、このとき膝の靱帯裂傷。長期療養を余儀なくされる。結果的には、約6ヶ月でダンサーのキャリアを終えることになってしまった。
  • オットー・フロイツハイムと婚約。
  • 6月、ノレンドルフ広場の地下鉄の、高架になっているほうのプラットホームで『運命の山 - ドロミテ山岳映画』(アルノルト・ファンク監督、邦題『アルプス征服』)のポスターを見つけ、釘づけになる。衝動的に広場の向こう側にあるモーツァルト・ホールで映画を観て、すっかり圧倒される。
  • 『運命の山』のドロミテ山岳の光景に感激し、ドロミテのカラー湖へ、4週間「ホテル・カラー湖」に滞在。チェックアウトしようという日に『運命の山』がホテルのホールで上映されると知り、映画を観たあと、主役のルイス・トレンカーに会い、ひとこと、「この次の映画には、私も出演するわ」。
  • クーアフュルステンダムのカフェ「ルンペルマイヤー」で『運命の山』の監督、アルノルト・ファンクと会い、舞踏公演の写真と批評を送るよういわれる。
  • テニスクラブで知り合った若い外科医のプリブラム博士を口説き落とし、リスクの大きい膝の手術を決行。手術について両親や友人には知らせなかったが、ファンク監督にだけは通知。
  • 手術三日後、ファンクが見舞いにやってきて原稿を渡される-「聖山。ダンサー、レーニ・リーフェンシュタールに捧ぐ」
  • ベッドに3ヵ月の間釘づけに。
  • オットー・フロイツハイムの不貞が原因で、婚約を解消。
  • クリスマスの少し前に『聖山』出演のための試験撮影。ファンクは撮影結果に満足し、ウーファと2万マルクというスター格の報酬で契約を結ぶ。
  • 『聖山』相手役のルイス・トレンカーと恋に落ちる。トレンカーとファンクの間でレーニをめぐる恋の鞘当てがはじまる。
  • この年
    • Abel Gance "Au secours!"
    • 『最後の人』
    • フリッツ・ラング『ニーベルンゲン』
    • 『ジークフリード』
    • ガーシュイン『ラプソディ・イン・ブルー』

1925年 編集

  • 1月初旬、『聖山』撮影開始。
  • 映画撮影のため、ファンクに内緒でトレンカーとカメラマンのハンス・シュネーベルガーにスキーのコーチを受け、足を骨折してしまう。
  • それを皮切りに映画スタッフに次々とスキー事故が起こり、撮影の継続が危ぶまれる。ファンクに映画撮影の技術を学ぶ。
  • 撮影中、山小屋で食料がなくなり、シュネーベルガーと視界のきかない吹雪の中をスキーで下山する。
  • トレンカーの度を過ぎた功名心に嫌気がさして、彼と別れる。この時期、ダンスを選ぶか、映画を続けるかで苦悩する。
  • この年
    • フランツ・カフカ『審判』死後出版
    • チャップリン『黄金狂時代』

1926年 編集

  • シュネーベルガーと二人で雪崩に襲われるシーンを撮影。本物の雪崩に数回埋もれなければならなかった。
  • ファンクにたいまつシーンの監督と撮影をまかされるが、その際、出演者が持っていたマグネシウムの照明が爆発して、レーニも顔半分に火傷を負う。
  • 『聖山』予告を見てトレンカーが、自分の名前の上にレーニの名が出ていると怒りだす。
  • 12月17日、『聖山』初公開(於:ウーファ・パラスト・アム・ツォー)。上映前のステージでシューベルトの未完成を踊る。『聖山』は大ヒットして、レーニの映画女優としての輝かしい経歴が始まる。
  • この年
    • フリッツ・ラング『メトロポリス』
    • セルゲイ・エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』

参考 編集

2002年6月12日(昨年)、わたくしが人力検索サイトで提出した質問を参考までに挙げておきます。
http://www.hatena.ne.jp/1023865071
Opponent 00:42 2003年10月23日 (UTC)

女優としての初演作品について 編集

Opponentさんのメモを見る限りPeak of Destinyは『運命の山』のことでしょう。つまり初演作品ではなくて映画界入りを決意するきっかけになった作品ですね。。ブリタニカの記事をもう一度読んでみましたが、「女優としてドイツのアクション映画と山岳映画で活躍した」という旨の文に続いて「それらの内の最初のものがPeak of Destiny だった」という旨の文があります。これは「それら」が「レニの出演した映画」ではなく「ドイツのアクション映画と山岳映画」のことだという風にもとることもできます。つまり「運命の山」がドイツ映画史上初の「アクション映画と山岳映画」だということであれば、僕が単にブリタニカの記述を誤読した(お騒がせして済みません)ということになります。ただ、そんな映画をわざわざ記事中で紹介する必然性が乏しいことなどから、おそらくこれは誤記の類だろう、と思いました。

ちなみに英語版には更に別の作品が、彼女が出演した最初の作品として挙げられています。

Tragödie im Hause Habsburg (1924) ハプスブルグ家の悲劇、というぐらいの意味でしょうか?

ドイツ語版の記事にはない作品で、誰かがいたずらに追加してそのまま放置されている可能性もあるかと思って履歴を見てみましたが、現存する[http://en.wikipedia.org/w/wiki.phtml?title=Leni_Riefenstahl&oldid=263514 最古の版]にもリストされていました。(最古の版以前にもいろいろな人が執筆しているはずなのですが、単に当時のソフトウェアの仕様上、履歴が保存されていないということだったと思います。)

他に簡単に手に入るリファレンスをざっとあたってみましたが、「運命の山」を挙げているものはブリタニカだけでした。また、Tragödie も見当たりませんでした。

ところが、この記事中からもリンクされているImdbで見ると、ちゃんとリストされています。。

Tomos 04:13 2003年10月23日 (UTC)

ハープスブルク家の運命(1928年) 編集

 瀬川さんによれば、完全なプリントは残っておらず、ベルリンに「上映不可能な断片」と、ウィーンに「上映はできるが切れ切れになったごくわずかの断片」の二本しか現存していない、という作品です。瀬川さんはウィーン版をご覧になる機会があったとおっしゃっています。この作品はレーニがファンク以外の監督作品に「女優として出演」した唯一の作品で、しかも映画で脇役を演じたただ一度の例だったといいます。全く評価されず、客も入らず、レーニの記憶もまったくなく、しかもレーニ本人も完成したプリントを観ていないと言っている、ないないづくしの幻の作品。

 当時の映画雑誌に紹介されているのを瀬川さんがご覧になっているようですから、この1928年という記述は正確で、信用できると思います。そもそも、残存する作品やレーニが出てこない山岳映画まで、繰り返しご覧になって詳細な分析を著わされた労作が『美の魔力』なんですね、ドイツ映画研究者が驚愕するのも当然のことでしょう、これまでのレーニにまつわる定説を根底から覆してしまったんです。この労作の出版に踏み切った弱小出版のパンドラ代表の中野理惠さんは、尊敬に値すると思っています。

 これは想像ですが、IMDbが誤りを拡大する諸悪の根源になっているような気がします。IMDbに訂正手続きをしたくても、IMDbは根拠URLをつけなければ認めてくれないようです。ちなみにIMDbの外部リンクページ(1)のほとんどを提案したのは、何を隠そうこのわたくしです。【最初、つまり一昨年の11月頃には、ここ(Miscellaneous links for Leni Riefenstahl)に二つぐらいしかありませんでしたし、オフィシャルサイト(2)すらありませんでした)。ここが充実してきたなと思ったら、いつのまにかGoogleにディレクトリができていました(3)】

  1. http://uk.imdb.com/name/nm0726166/miscsites
  2. http://uk.imdb.com/name/nm0726166/officialsites
  3. http://directory.google.com/Top/Arts/Celebrities/R/Riefenstahl,_Leni/

 閑話休題。ところで、メモによれば、このころのレーニは、「リーフェンシュタールは女優じゃない、山を登れるダンサーさ」(1927年)と周囲から言われる悩みがあったことと、『西部戦線異常なし』の著者、エーリヒ・マリア・レマルクと知り合いになった(1927年)という状態でした。

 1928年は、『回想』でも、記述がぽっかり抜けていたような記憶があり、2年前に書いたメモもこの年は空白になっています。シュネーベルガー(同棲していた恋人)と甘い蜜月を過ごしていたのかしらん?

 ただ、シュネーベルガーとの関係が破局を迎えた翌年(1929年)、『死の銀嶺』(原題直訳: ピッツ・パリューの白い地獄)で、さらに女優として名声を高めることになります。国際的にも知名度は高く「無声映画最後の成功作のひとつ」といわれているそうです。これはファンク監督の最高傑作ともいわれていますが、残念ながら観ていません。

 蛇足ながら、この1928年と1929年は、文化史上でも豊作の年のようで、メモには以下のような記述が残っていました。

1928年 編集

  • ブレヒト『三文オペラ』
  • ラヴェル『ボレロ』
  • D・H・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』

1929年 編集

  • コクトー『怖るべき子供たち』
  • ローザ・ルクセンブルク「ドイツ文化闘争同盟」結成
  • ヘミングウェイ『武器よさらば』

初演作品:Allmovie.comの説、ほか 編集

Opponentさんの言うハプスブルク家の運命、というのは Das Schiksal derer von Habsburg という映画のことではないでしょうか? IMDbではそれとは別に Tragödie がリストされています。監督もSchiksalは Raffe Tragodie は Alexander Korda と別人になっています。

ちなみに、International Dictionary of Films and Filmmakers (St. James Press, 1996) でもSchiksal はRaffe の作として載っていました。 (29年になっていますが。。St. James のものは、他のリファレンスでは この作品を Piz Palu の別題としてリストしてあったので、多分何か誤認があるのだろうと思います。 ^^;)

IMDbはリンクがないとだめ、という話でふと思い出してAllmovie.comを見てみましたが、こちらはまた違ったデータがあります。(リンクはURLの構造上できないようになっているのでレニの名前でサーチしてみて下さい。)

  • 伝記情報の部分には、「運命の山」が最初、と書いてあります。26年のことだ、とも。
  • Filmography のところには、(たぶん別の担当者が作成したのでしょう) 聖山が最初の作品としてリストされています。これは26年のリリース。 運命の山は27年のリリースになっています。ただ、どちらの作品にもレニが出演したということになっています。
  • 上に書いたようにブリタニカ(オンライン版なので一応最新のものだと思うのですが)ではどちらの作品も25年と記されていました。

同サイトの運命の山のページには、一応シノプシスがついていて、レニのデビュー作だとも書いています。よかったらご覧になって、他の映画と間違えているかどうかなどチェックして頂けますか? >Opponentさん

細かい話がここまで長くなるとは思っていませんでしたが、

  • これが本当ならレニは自分とファンク以外の監督作品に2本出演していることになる
  • Tragodieか運命の山かどちらかが最初の作品であれば、「運命の山を見て女優になることに決め、フランクに会って採用された」というよく聞くエピソードとの整合性がとれない

という可能性があるわけですが。

これ意外の情報もいろいろ仕入れましたが別にご相談するものでもないのでそれはまたいずれ加筆しておきます。Tomos 07:43 2003年10月23日 (UTC)



ニュースサイトへの外部リンクに関する議論 編集

ニュースサイトへの外部リンクに関する議論
Wikipedia‐ノート:ニュースサイト
新聞サイトへのリンクについて
Wikipedia‐ノート:ニュースサイト/過去ログ2

新聞サイトへの外部リンクが問題となった議論はWikipedia‐ノート:ニュースサイトに移動させました。Wipedia日本語版のルールに関わる問題なので、継続して冷静な議論をお願いします。Safkan 06:10 2003年10月20日 (UTC)

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