墓所・霊廟「日光東照宮の奥社宝塔」 編集

読みが「ほくしゃほうとう」とされていますが、これはおそらくその次の一文で出典としてあげられている文化庁のデータベースが根拠になったものと思われます。
同データベースでは2022年7月24日閲覧時点で確かに「ほくしゃほうとう」となっており、これについて文化庁に問い合わせたところ7月28日付で「それは誤りで、正しくは『おくしゃほうとう』」との回答があり、データベースも修正されました。
それ以外の根拠がないのであれば、「ほくしゃほうとう」の読みについては消去すべきものと思われます。--Nao Costas会話2022年7月29日 (金) 03:22 (UTC)返信

  賛成 日光市HP『建造物一覧-東照宮4』でも「おくしゃほうとう」の読みなのを確認しましたので消去に賛成です。--奈良たかし会話2022年7月29日 (金) 07:48 (UTC)返信
当該の一文を消去しました。--Nao Costas会話2022年8月5日 (金) 02:45 (UTC)返信

「清和源氏の世良田氏が三河守を任官した前例はない」という記述について 編集

「清和源氏の世良田氏が三河守を任官した前例はない」という記述は『流浪の戦国貴族 近衛前久』が出典だとされておりますが、私が拝見したところ次のような記述になっておりました。
「ここで先例とされたのは新田氏庶流で鎌倉時代中期の人物、世良田三河守頼氏の例であり、(中略)新田源氏の松平氏としてか、あるいは、新田源氏の徳川氏としてか、いずれにせよ、永禄九年に家康は叙爵と三河守任官を申請した。しかし、これについては「先例がない」ということで、勅許が滞った。実際に先例があるかどうかは別の問題であり、天皇としては、精一杯威厳を繕うため、あるいは、より即物的に礼金の額をつりあげるために、難癖をつけたというところであろう」
ここから「清和源氏の世良田氏が三河守を任官した前例はない」という記述に要約するのは無理があろうと思います。記述を変更するべきなのではないでしょうか?--無水月 2022年12月4日 (日) 04:38 (UTC)返信

徳川家康が「方広寺大仏(京の大仏)」再建を勧めたことについて 編集

通説では、豊臣氏の財力を削ぐため、徳川家康が「方広寺大仏(京の大仏)」再建を秀頼に勧めたとされます(出典:『京都大仏御殿盛衰記』 村山修一氏 など )。 家康の真意については諸説あるようですが、上記の核となる「○○年○月に家康が方広寺大仏再建を豊臣氏に勧めた」ことを記録した一次史料が何なのかについて論じた文献・論文を私にて探してみたのですが、見当たりませんでした。上記について、御存知の方がいましたら加筆願います。--Kyoto history会話2023年1月13日 (金) 00:24 (UTC)返信

河内将芳氏の著作『秀吉没後の豊臣と徳川: 京都・東山大仏の変遷からたどる』の記述について 編集

Kyoto history と申します。

私は方広寺大仏(京の大仏)に関する事柄を加筆しています。方広寺大仏を研究している河内将芳氏の著作『秀吉没後の豊臣と徳川: 京都・東山大仏の変遷からたどる』という本が刊行されたので、それを底本にして加筆しています。

上記書籍ですが、以下のスタンスで書かれています。


1、方広寺大仏・大仏殿の変遷を中心に、豊臣と徳川の関係を考察する。

2、一次史料に準拠するが、それがない場合は注記書きの上で、二次史料も使用する。

3、なるべく武家の史料は避け、公家・僧侶の残した史料に基づいて検討する。


当該書籍の方広寺鐘銘事件について扱った部分では、現行のwikipedia版とは全く正反対の内容が記述されています(読み方によってはそもそも鐘銘事件はなかったとも読める内容になっています)。私は方広寺鐘銘事件の政治史的側面について疎いので、河内氏の記述が正しいのか否かよく分かりませんが、

「家康は鐘銘事件について、且元に責任はないと考えていた」「鐘銘文をすりつぶせばよいという内示が家康よりあった」ということを示唆する一次史料がある旨のみ、wikipedia本文に追記しておきました。

上記につきまして、お詳しい方がいましたら、加筆・修正していただけますと幸いです。


なお河内氏の論考は以下の通りです。

※凡例

〇:一次史料名(本のページ)

<考察>:河内氏の考察(本のページ)


<鐘銘事件>

<考察>:『本光国師日記』によれば、鐘銘文に長々と長文を書き連ねたことと、自身の諱を入れられたことを問題視した(p.158)。 一次史料の『本光国師日記』には、通説で言われるような、諱を割いたことについての言及はない(p.159)。棟札については、家康の派遣した中井正清の名が記されていないことを問題視した(p.158)。 

ただし家康がそれらの問題について言及したのは、落慶供養の延期を仰せ出した後であることは留意が必要である(p.158)。落慶供養での天台宗と真言宗の席座を巡るトラブルが生じたので、「開眼供養」と「堂供養」を別日にし、「堂供養」を8月18日に行うのはどうかという内意を家康は示した。しかし片桐且元と板倉勝重は家康の案を渋り、再度、同日案を家康に提示してきた。『義演准后日記』7月29日条には「上棟・開眼・堂供養、大御所(家康)上洛まで御延引」とあり、最終的に家康は、自身が上洛するまで各種落慶供養を延期するよう、7月末に命じた(p.159)。『本光国師日記』には、8月5日に例の鐘銘文を家康が確認し、問題視したとある。

✳『駿府記』には7月の段階で鐘銘の下書きを家康が確認し、「関東不吉の語あり」としたとする記述があるので、上記の記述が正(信憑性がある)とすれば、通説通りのようです。(Kyoto history 追記)


<鐘銘問題に対する且元の駿府での謝罪> 且元は駿府で家康に対面できなかったが、協議が不調で終わった訳ではない。徳川方はいわゆる三か状を且元に提示したことを一次史料で確認できない。

〇『本光国師日記』8月22日条に以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状の掲載ある(p.162)

「市殿(片桐且元)不届きの儀はこれあるまじきとの上意」「文言以下の善悪、市存ぜられざることも、もっともとの御諚」「鐘をば銘をすりつぶしそうらえとの御内証」

<考察>:鐘銘文は重大な問題だが、片桐且元に責任はなく、梵鐘から問題の銘文をすりつぶせば良いとの家康の内意があったとしている(p.162)。

〇『本光国師日記』9月8日条に、同じく以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状の掲載がある(p.162)

「おのおの談合そうらいて、江戸様(徳川秀忠)と秀頼公以来疎意なきように、江戸様へ御意を得られそうろうようにと仰せ出」「市殿も安堵」

<考察>:徳川秀忠と豊臣秀頼の両者が疎遠にならないよう、大阪で会見する案も存在していたとしている(p.162)。


〈且元の退去の理由〉 不明

〇『言緒卿記』9月27日条

  「大坂片桐市正(且元)、秀頼公の前大樹(家康)へ使いつかまつり悪しきよしそうらいて、語意に背くよしなり」(p.163)

〇『義演准后日記』9月26日条

「片市正(且元)・同主膳(貞隆)切腹せらるべし」(p.163)

<考察>:且元が駿府での会議から帰阪し、秀頼らにどのような内容を伝えたかは不明だが、且元は逆心を疑われ、命の危険にさらされることになった(p.163-164)。

徳川氏より且元にいわゆる三か状を突きつけ、それを秀頼に伝えたので逆心を疑われたという通説については

疑問が呈されており、曽根勇二氏『片桐且元』2001 で指摘のように、三か状は且元の私案でしかなかった(p.195)。


〈且元の退去を受けた家康の上洛〉 すぐに大坂城を攻撃しようとした訳ではない。

通説では10月に御陣触れをしたことをもって大坂攻めを決定したとされるが、御陣触れをしたのは事実だが、一次史料からは、すぐに大坂を攻撃しようとしたとする意図は確認できない(p.165)

家康は、七将による石田三成襲撃事件の時の仲裁のように、豊臣氏と且元を仲裁する意図で上洛しようとしたのではないか。(p.164)


--Kyoto history会話2023年2月11日 (土) 08:48 (UTC)返信

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