ノート:数学の哲学

最新のコメント:6 年前 | トピック:外部リンク修正 | 投稿者:InternetArchiveBot

再投稿について・翻訳協力のお願い 編集

Wikipedia:削除依頼/数学の哲学での合意に基づき、GFDLの履歴保存義務を果たした形で、再構築いたしました。

ただ、私以外の方が翻訳された部分については、再投稿できていません。そのため、冒頭部分など、途中未訳状態の部分があります。その部分はコメントアウトの形で示しておきましたが、その部分は私が翻訳するよりも、再投稿していただくか、他の方が翻訳されたほうが望ましいと思います。

また、未だ翻訳途中ですので、翻訳の協力者を募集しております。

ぜひ、皆様のご協力をお願いします。--Mizusumashi(みずすまし) 2008年8月26日 (火) 14:56 (UTC)返信

一応全体の訳ができていますので、校正および全体の見直し作業を開始します。対訳形式による掲示はおそらく11月末程度まで行えばよいかと思いますがいかがでしょうか。--tmonzenet 2008年10月30日 (木) 14:57 (UTC)返信

翻訳だけではなく、私の翻訳の校正もしていただき、ありがとうございます。
20世紀における数学の哲学(Philosophy of mathematics in the 20th century)」節まで少しづつ手を加えましたが、残りも順次行っていこうと思っています。
対訳形式による掲示は11月末程度まででよいと、私も思います。また、そのとき節タイトルのカッコ内の英文(例えば、「Philosophy of mathematics in the 20th century」)も同時に除去してはどうかと考えています。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年10月31日 (金) 10:04 (UTC)返信
英文のコメントアウトを行いました。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年12月1日 (月) 10:46 (UTC)返信

multitude 編集

他人の担当部分ですがかなりいじりました。自由に戻して頂いて結構です。一番悩むのはmultitudeの訳ですが、数学用語として「比」とする理由があるのでしょうか。「量」とするのもかなりの意訳ですので、賛否分かれるかもしれませんが・・・ 節タイトルの件は同意します。--tmonzenet 2008年11月12日 (水) 15:51 (UTC)返信

他のことにかまけていて、こちらのブラッシュアップを進められなくて、申し訳ありません。
“multitude”についてですが、「比」とに、こだわりはありません(「多数性」ないしは「多数性の程度」とは、単位長の反復回数のことであって、つまり単位長との比のことである、という考えで「比」としました)。
この文脈で“multitude”というのは、「(程度のある)多数性」あるいは「多数性の程度」といった意味ではないかと思います。しかし、「多数性」では意味が分かりにくく、「多数性の程度」では生硬なように感じますし、これを平たく言えば「数(かず)」としたいところですが、「数は、数(かず)と定義された」では少し奇妙な印象を持ちます。
そこで、“multitude”を「多さ」と訳すのはいかがでしょうか?--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年11月13日 (木) 09:44 (UTC)返信

そうですね、その方が正確そうな気がします。「量」という訳は、en:Quantityがmultitudeとほぼ同義であると言っているので、よさそうかな、と思ったのですが、正確を期したいところですね。・・・と、ここまで書いてから、もう一度調べてみたら、こんなのを見つけました。

カントールの定義した概念ということですが・・・定訳があるんでしょうか?ちょっと今時間がなくて調べられそうにないです。--tmonzenet 2008年11月13日 (木) 11:01 (UTC)返信

まず、『岩波 数学辞典 第4版』の欧文索引に、“multitude”という語はありませんでした。
さて、ご紹介いただいたDICTIONARY OF PHILOSOPHY AND PSYCHOLOGY (Mos - Mz)#Multitude (in mathematics)の第一段落を読み、これは濃度の概念を説明しているのではないかと思い、同『数学辞典』の「濃度」項をみたところ、相当する英単語としては“cardinality”“cardinal”“potency”が示されているものの“multitude”は示されていませんでしたが、仏単語として“puissance”、独単語として“Mächtigkeit”が示されていまいた。仏単語、独単語が一致するため、確証はありませんが、ご紹介いただいたWebページの“multitude”はやはり濃度のことをいっているのではないかと思います。また、カントールが濃度の概念を定義したのかどうか、いまの私にははっきりしませんが、カントールが濃度の概念を使って無限集合の濃度が一つではないことを証明したことは、集合論の分野では有名です。
ここでいう濃度とは何かといえば、厳密な定義はさておき、直感的には、自然数における個数を無限集合まで拡張した概念です。つまり、無限集合の元の「個数」という、今ひとつよく分からないものを厳密に扱えるようにして、自然数全ての「個数」は有理数全ての「個数」と等しいとか、自然数全ての「個数」は無理数全ての「個数」より小さいとか、そういった命題を扱えるようにしたものが濃度なわけです。
いま、ご紹介いただいたWebページの“multitude”が濃度のことだという確証はありませんが、おそらくそうだろうとして、「濃度」と訳してしまうと、当時のギリシア人が想像もしなかっただろうな拡張をへて近代以降の数学において定義された用語を古代ギリシアの文脈で使用することになり、抵抗があります。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年11月13日 (木) 12:06 (UTC)返信
(追記)Wikipedia:コメント依頼で、コメントを募ってみました[1]。また、コメント依頼から来る方に分かりやすいように、セクションを分離いたしました。いまのところ、私は「多さ」か「個数」かなぁ… と思っていますが、どちらもこれで良いという自信まではいたりません。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年11月13日 (木) 12:22 (UTC)返信

コメント依頼より。インデント戻します。

そのうしろのTherefore 3, for example, represented a certain multitude of unitsという文章もあるので、難しいところですね。自分が訳すならa multitude(of something)と補うかなぁ。

「数値は、なんらかの集合体を表すものとして定義された。つまり、例えば3は実在の、なんらかの"単位量の集合"を示すものであり、真に数字のみを表すものとはされていなかった。」

集合、集合体として2つを訳してみました。このmultitudeはセットで扱わせるべきであり、2つともが不自然にならないように留意すべきと考えます。要は「概念としての数」ではなく「そこにあるものの値」ということが表現できればいいのでしょうが・・・難しいですね。--Dancer T 2008年11月14日 (金) 00:04 (UTC)返信

片野善一郎『数学用語と記号ものがたり』ISBN 4785315334 では、原論7章を引くかたちで
  1. 単位とは存在するものの各々がそれによって1と呼ばれるものである
  2. 数とは単位からなる多である
となっていました。原論の訳書、上垣渉『ギリシア数学の探訪』、カッツ『数学の歴史』ISBN 432001765X あたりを見れば訳語は決まるのではないかと想像しています。--Jms 2008年11月14日 (金) 23:25 (UTC)返信
Jmsさんがご紹介されたいくつかの本を見てみましたが、すべて共立出版訳の訳語を踏襲して、「数とは単位からなる多である」を採っているようですね。従って、無難にいくならmultitudeを「多」と訳すことになるかと思います。ただ正直言って、私はこの文だけを読んでもまったく意味が分かりませんでした。意味が分からないけど正確な訳というのは形容矛盾だと私は思っているので、抵抗があったのですが、私が無知であるのでしょう。なお東大出版会の『原論』翻訳の該当部分はまだ刊行されていないようですので(第6章までが第1巻に収録され刊行済み)、刊行を待つという手もありますが、いつなのかわからないですし、とりあえず「多」が一案かもしれません。--tmonzenet 2008年11月18日 (火) 14:30 (UTC)返信
単数形と複数形の区別をしない日本語では「多」がわかりにくいのは確かだと思います。これまで挙がっているなかでは「単位長の反復回数」というのがセンスとしてはもっとも近い (コンパスを開いて、こう…という感じ) と思いますが、「反復回数」とすでに「数」を使っているのと、「反復」の部分で時間に投影してしまっている部分があるので「数」概念として適当かどうかというのは微妙なところでしょう。「個数」も「数」が入っているから使えませんし、「多さ」「多数性の程度」「比」といった「程度」すなわち連続「量」でもないので、違うものになってしまうのではないかと思います。multiple units などという表現を考えると、「数とは単位の多寡」といったところかなという気はしますが、「多寡」という表現が難しいといわれてしまうかもしれませんし、1 を排除できていませんし、「寡」をもってきた時点で結局は程度になってしまっています。「多」よりはまだマシ、という意味で多寡を使うなら「数とは単位の多寡<ref>ただし 1 をのぞく</ref>と定義された」とする手はあるかもしれません。--Jms 2008年11月18日 (火) 15:32 (UTC)返信
数学は全然詳しくないので、口を差し挟むまいと思っていましたが、単に日本語の言い回しの問題であって、平易さを求めるのであれば、「単位がどのくらいあるか」というのはいかがでしょう。--КОЛЯ 会話 2008年11月18日 (火) 16:14 (UTC)返信

おつかれさまです。インデント戻します。
いろいろ折衷的に考えた挙句、「多(多さ、: multitude)<ref>可算加算: countable)な量。つまり、個数。</ref>」といった感じでどうだろうと思うのですが、いかがでしょうか。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年11月18日 (火) 16:39 (UTC)--修正:2008年11月19日 (水) 16:11 (UTC)返信

訳注を付けるというのは一案ですね。それならば、КОЛЯさんの「単位がどのくらいあるか」という提案のように、訳注の中で思い切って砕いて表現してもいいのではないでしょうか。皆さんのご説明を伺った限りでは、1より大きい数では、単位(=1)がいくつ積み重なっているかという数値が、すなわち数であると考えていたということではないかと思いますので、これも折衷案ですが例えば「単位長がいくつぶんあるかということ」といった言い方なら、私の語感ではまずまず満足できるような気がします。数学に詳しい方々のご意見を伺えると嬉しいです。--tmonzenet 2008年11月19日 (水) 15:21 (UTC)返信
加算? 可算? 可算 (many) なら量 (much) ではない気がしますが…。量と書いてしまうかどうか、というのは、ギリシア時代に小数部に関する記数法があったのか、ないし、自然数 (と、自然数の比) 以外に数が認識されていたのか、というのにつながる結構重要なポイントなのではないかと思います。前掲の『数学用語と記号ものがたり』では、『数論』10章を引いて数と量の違いについて言及しています。わかりやすさのために意味すべきでないことまで読み取られてしまうのは混乱させてかえってわかりにくいでしょう。「多である<ref>単位がいくつあるかということ</ref>と定義された」といったところでいかがでしょう。--Jms 2008年11月19日 (水) 15:48 (UTC)返信
ごめんなさい。「算」はtypoです。「算」ですね。
では、tmonzenetさんのJmsさんとご意見を伺い、Jmsさんご提案の「多である<ref>単位がいくつあるかということ</ref>と定義された」で異議ありません。まだ、こまかな言い回しなどについては議論を続けても良いでしょうが、ひとまず、「多である<ref>単位がいくつあるかということ</ref>と定義された」で表に反映させて良いように思います。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年11月19日 (水) 16:11 (UTC)返信

私も異存ありません。勉強になりました。みなさまありがとうございました。--tmonzenet 2008年11月20日 (木) 13:10 (UTC)返信

少し変更を加え、文章上の近い場所で二度同じ脚注を参照するようにしたため少し煩雑になりましたが、表に反映させました。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年11月23日 (日) 19:53 (UTC)返信

直接の関係はありませんが、当該節冒頭の「もっと任じる」は「もって任ずる」のことでしょうか? --Jms 2008年11月23日 (日) 20:20 (UTC)返信

“These objects, it asserts, are ... intrapersonal (mental) constructs” 編集

社会構築主義・社会的実在主義」節の最後の段落、後ろから二番目の文“These objects, it asserts, are ... intrapersonal (mental) constructs”の原文の意味が、よく分かりません。(社会実践に関心を持った時期の)ヴィトゲンシュタインがそんな理論を出すわけがないという気がして、後期ヴィトゲンシュタイン的に理解しようとあれこれ考えたのですが、どうも納得のいく読解ができませんでした。どなたかから、こういう意味ではないのかというご指摘・解説をいただければ、幸いです。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2008年11月23日 (日) 19:53 (UTC)返信

physically embodied は物理的に実体化している、つまり、紙の上のインクのしみのことではないでしょうか。そう考えると、そのしみ、あるいはコンピュータディスプレイ上のドットパターンからその意味を読み取るという social practice として (前期?) ウィトゲンシュタイン的に理解できるのではないでしょうか。--Jms 2008年11月23日 (日) 20:20 (UTC)返信


外部リンク修正 編集

編集者の皆さんこんにちは、

数学の哲学」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月5日 (木) 09:07 (UTC)返信

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