ノート:豊臣秀吉/過去ログ2

最新のコメント:9 年前 | トピック:政策に関して | 投稿者:223.133.77.80
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羽柴誠三秀吉の取り扱い

羽柴誠三秀吉」を調べたい人が「豊臣秀吉」で検索する可能性は極めて小さいと考えられ、anotheruseは正しい措置ではありません。これを削除しました。「羽柴秀吉」が「羽柴氏」へ転送となっていたのを、「豊臣秀吉」への変更と改めました。羽柴誠三秀吉について調べたい人が「羽柴秀吉」で検索するかどうか疑問ですが、そのような人がいても、転送先の豊臣秀吉の関連項目で分かるように記載しました。Cufflink 2006年10月26日 (木) 02:06 (UTC)

主君

松平元康が主君だったと書いてありますが、ソースはどこからですか?--124.147.122.64 2006年11月9日 (木) 13:30 (UTC)

半保護依頼について

IPユーザーの荒らし行為が増えてきたため、再度半保護を依頼しました。--koon1600 2007年7月19日 (木) 07:07 (UTC)

豊臣秀吉は木の下で織田信長と会ったため木下藤吉郎と名乗るようになった。 —以上の署名の無いコメントは、211.1.189.228会話履歴)さんが[2007年7月25日 (水) 01:10 (UTC)]に投稿したものです。


木下藤吉郎秀吉はすごく頭がよく、殿を任された事もあったらしい。—以上の署名の無いコメントは、211.1.189.228会話履歴)さんが[2007年7月31日 (火) 01:10 (UTC)]に投稿したものです。  

上杉謙信と直江兼続の関係について

男色関係の代表格と書かれていますが、これは信頼できるものでしょうか。織田信長と森蘭丸の関係は理解できますが。比較的認知されている武田信玄と高坂昌信に変更したほうが無難だと思います。 --124.210.233.126 2007年8月15日 (水) 14:59 (UTC)

同感です。上杉謙信と直江兼続が男色関係という記述は、どこから来ているのでしょうか。 武田信玄と高坂昌信に変更していただきたい。

秀吉の仇名について

昔は、『猿』という説が有力であったが、最近、テレビにでる博士たちが『はげ鼠』説が有力である事を熱く語っている。これから言っても、『はげ鼠』が有力である事が分かる。私自身、この説が正しいと思う。


   今の学者が語ったところで正しいとは限りません。学会での意見集約を待つべきでは?

小学校で使うような資料集では「猿」ですが、テレビ番組などでは「はげ鼠」ですよ。チャンバー 2007年10月27日 (土) 10:26 (UTC)

資料集とテレビ番組では、文部科学省を通した資料集の方が信憑性が高いと思うのですが。それに「はげ鼠」という仇名を用いられた文書って、信長がねねにあてた手紙くらいしかないでしょう。「はげ鼠」は、あくまでも信長が一通の手紙にそう書いただけで、「猿」という仇名は玉木吉保の身自鏡やキリスト教の宣教師達が残した文書の通り、やはり正しいと思います。--Nory555会話2013年1月6日 (日) 12:33 (UTC)

結婚年について

豊臣秀吉#信長の家臣時代に、

  • 永禄7年(1564年)には浅野長勝の養女ねねと結婚する。

とありますが、高台院#生涯には、

  • 永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に実母・朝日(秀吉妹・朝日姫とは同名の別人)の反対を押し切って嫁ぐ(通説では14歳)。

とあります。どちらが正しいのでしょうか?--219.121.193.225 2008年3月28日 (金) 10:39 (UTC)

  • 杉山博他編『豊臣秀吉事典』(新人物往来社、1990年、ISBN 978-4404017352)p.52 によると、永禄4年(1561年)8月3日。
  • 田端泰子『北政所おね』(ミネルヴァ書房、2007年、ISBN 978-4623049547)p.11 によると、先行研究の結果、永禄4年(1561年)で確定とのことです。

該当箇所は訂正しました。一応、1つだけ典拠もつけておきましたが、不要? --oxhop 2008年3月29日 (土) 12:41 (UTC)

関白職と家督について

この記事で一番下、先代次代について、「秀吉が譲ったのは関白職だけで家督は譲っていないのでは?」と書かれていますが、徳川氏の場合は家康が秀忠に将軍職を譲った時点で家督を譲ったことになるとおもいますが、秀吉の場合は養子の秀次に関白職を譲っていますが、家督を継承したのは秀次か、それとも実子の秀頼なのか。徳川氏と同じと考えればやはり、養子の秀次が継いだと考えられ、その場合、秀吉→秀次→秀頼の順番で家督を継承したことになりますが、皆さんはどう思いますか? --Kagetudo 2008年4月12日 (土) 02:09 (UTC)

それは秀吉がはっきりと家督を秀次に譲ったと明言したかどうかにかかってくると思われます。北条得宗家、天皇家の治天の君、摂関家などを見ても、中世では官制上の最高位者=家督ではありませんし、関白職=家督と考えると秀次辞任後は豊臣家の当主がいないことになってしまいかねません。--219.167.115.251 2008年8月3日 (日) 16:08 (UTC)

個人的には家康の将軍世襲による江戸幕府の支配体制を築くため秀忠へ将軍職を譲ったと同じ様に、秀吉が豊臣家の関白世襲による武家関白政治の支配体制を築くため、秀次に家督も譲ったが、廃嫡した考えています。

--Kagetudo 2008年9月13日 (土) 07:57 (UTC)

墓所・霊廟・神社について

>死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られ、豊国大明神として豊国神社(京都)に祀られたが、豊臣家滅亡後、徳川家康により全ての建造物は破却され、大明神の号も剥奪された。(中略)三代将軍家光の時代幕府により廃された。

これはすべての建造物が破却され、大明神号も剥奪されたにもかかわらず、豊国神社が続いたということなんでしょうか。この辺の正確ないきさつを詳しい方加筆お願いいたします。--220.109.189.53 2008年8月7日 (木) 13:48 (UTC)

該当部分補筆してみました。--218.41.119.13 2008年8月10日 (日) 03:45 (UTC)

ありがとうございます。--220.109.189.53 2008年8月10日 (日) 20:58 (UTC)

項目について

淀殿が正室扱いであったという記述を削除しました。高台院との位階的な差は隔絶しており、対等な立場ではありません。「淀殿のページに「両御台所」との記述があるという資料がある」という記述があるそうですが、その史料はどういったものでしょうか。--220.99.219.71 2008年9月1日 (月) 09:24 (UTC)

政策に関して

>秀吉は、政策面では織田信長を踏襲し、楽市楽座・朱印船貿易による商業振興と都市の掌握・貨幣鋳造による商業統制を 行った。

この部分に関して信長が朱印船貿易を行ったと言う風に読めるのですが寡聞にして存じません。出典があれば。

>しかし、刀狩や検地・兵農分離なども元々は織田政権下で進められていたものであり、このことから秀吉は少なくとも政策・戦略面では信長を模倣したからこそ天下を取れたともいえる。

信長の兵農分離は近年疑問視されていますし、検地は他国でも行われています。刀狩は良いとしても(それも越前だけの話ですが)強いて信長一人の模倣とするのはいかがなものでしょうか?--120.75.114.199 2008年10月22日 (水) 03:16 (UTC)

出典が示されていないのに要出典部分が削除されました。よって該当部分を削除しました。--121.117.153.11 2009年3月30日 (月) 23:46 (UTC)

>>強いて信長一人の模倣 こういったニュアンスにも受け取れるとは思いませんでした。信長がオリジナルとは全く書いていません。ですが信長が実行していたものを殆ど模倣ないし統一したことによりそれを更に強化したのは間違いとはいえないと思いますので、表現を変えて誤解なきように表記します。なお、兵農分離云々はここは議論するところではありませんが、全てではないにしろ兵士を傭兵にして農民への負担を軽減させているのは確かなことですのでこのままにします。

要点はそこではありません。信長が行っていたにせよ、それが他大名においても一般に行われていたのであれば、秀吉が信長を模倣したということは難しいということです。削除については早計でありました。申し訳ありません。ただ、この点について出典が示せないのであれば要出典タグは消さずにつけたままにして欲しいです。また、兵士を傭兵にして農民への負担を軽減させているということが『確か』であるかどうか、これもまた出典を要するでしょう。

出典が提示されない部分を削除し、代わりに秀吉の国内統治政策について述べている研究者の言説を紹介しました。その結果、これまでの記事とは大きくニュアンスが異なるものになりました。「太閤検地論争」などを見てもわかるように、秀吉の国内統治システムについては研究者の間でも意見の相違があるようです。今回参考にしたのは秀吉に好意的な研究者の本だったので、文面も秀吉の政策を高く評価したものになっています。「執筆中」のアイコンを添付しておきましたので、加筆修正できる方はどんどん手を加えていってください。--MURMUR4040 2010年3月17日 (水) 22:32 (UTC)

ここ数ヶ月の間、当頁の概要部分における「画期的な新政策で中世封建社会から近世封建社会への転換を成し遂げる」という出典付き一節の削除を繰り返しておられますIPアドレス様に対し、以下に当方の主張をまとめます。

日本の近世封建制度の成立時期について、現在の「主流派」の基調となっているのは、脇田修氏が1975年に出版した『織田政権の基礎構造』及びその続編である『近世封建制成立史論』です。ここで脇田氏は1960年代の安良城盛昭氏や宮川満氏による封建制土地所有を巡る研究成果とそれに続く一連の論争、いわゆる太閤検地論争を総括し、その上で織田政権及び豊臣政権における農村支配構造を分析することで日本の近世封建制度の揺籃期における基礎構造を明らかにしました。同書は織豊政権の研究を行う人間にとっては周知の史料なので、ここで改めて事細かにその内容を紹介することはしませんが、脇田説の要旨を著書より引用するなら、以下の通りになります。

(1)封建的主従関係においては、契約的関係と統一軍役の相違がある。譜代の家臣である佐久間信盛に対しても、軍役奉仕は「武辺道」への心がけに任せ、新規の臣従においては「相談」「契約」によった信長と、石高制知行による明確な規定をもった秀吉との間では封建的契約における主従関係の有無という点で重要な差異がある。

(2)信長の楽市楽座令は城下町に限定されたと言う意味で戦国大名と同質であり、京都・奈良をはじめ分国での座商業を認めた。つまり織田政権では従来の座的商業組織における市場関係が存在しており、秀吉は全国的にこれを廃止し、近世的市場関係をうみだした。これはギルド的構成の有無という重要な差である。

(3)封建制の基盤である土地所有関係については、本書での分析が記すように、織田政権下の土地所有は、石高制との間にはっきりとした断絶がある。 —  脇田修『織田政権の基礎構造』東京大学出版会、1975年、307-308頁

私がここで述べております「主流派」の基本的な主張は以上の通りです。以下に脇田氏以外の方の手による、秀吉が近世封建制度の成立に果たした役割を述べた著書を紹介します。

こうした不徹底さから、脇田氏・佐々木潤之介氏など、信長までは中世、秀吉から初めて近世になる、とする研究者が多い —  谷口克広『信長の天下所司代』中公新書、2009年、220頁

検地帳に登録された耕作者は、年貢や労役の負担者とされ(一地一作人の原則)、荘園制のもとでの一つの土地に何人もの権利がかさなりあう状態が否定された。これによって秀吉は全国の土地を確実ににぎり、大名の配置がえもたやすくなって、近世封建制の基礎が定まった —  五味文彦、鳥海靖編『もういちど読む山川日本史』山川出版社、2009年9月

織田信長の事業を引きつぎ、天下統合に成功、近世社会の骨格をきずきあげた —  京大日本史辞典編纂会編『新編日本史辞典』「豊臣秀吉」の項目より

織田信長の政策をほぼ継承するが、太閤検地の施行、刀狩などの画期的な新政策で近世封建社会の基礎を確立 —  百科事典『マイペディア』「豊臣秀吉」の項目より

とりあえず手元で参照できる史料から簡単に引用させて頂きました(文中の太字は引用者によるものです)。脇田氏の論説が彼個人のものにとどまらず、広く研究者の間で受け入れられていることを示す根拠としては、十分ではないかと思います。

IPアドレス様は古代や中世と同じ大まかな時代区分としての「近世」と「近世封建制度の開始時期」を混同なさっているのではないかと思います。この両者は厳密には同一のものでない以上、秀吉を近世封建制度の実質的創始者であるとする論説に、日本史を便宜上四段階に区分した近世の開始時期を云々しても議論は噛み合いません。同様の例を挙げるなら、「日本史における近代」は明治維新もしくは大政奉還にその起源を求めるのが普通ですが、「日本における近代文学」は明治18年に発表された坪内逍遥の『小説真髄』から実質的に開始されるというのが通説です。私がIPアドレス様に提示を求めたソースは、「近世封建制度が豊臣政権以前または以後に成立した」ということを示すものです。その点、ご理解いただきましたら幸いです。

当案件につきまして、私の立場は概ね上記のようなものです。今後は、このノートページで議論を重ね、ある程度の同意を得た上で編集を行うようにお願い致します。以上、よろしくお願い申し上げます。--MURMUR4040会話2012年3月20日 (火) 16:26 (UTC)

  • >「近世」と「近世封建制度の開始時期」を混同なさっているのではないかと思います。

では「谷口克広『信長の天下所司代』」および「京大日本史辞典編纂会編『新編日本史辞典』「豊臣秀吉」の項目」は参考になりませんね。

また、マイペディアは百科事典ですので、上記のような専門の歴史書と同列に扱うのは不可能です。

とりあえず「画期的な新政策ではない」という事についての具体的反論がないようですので、当該部分は削除させていただきます。あしからず。

58.87.196.108 2013年4月3日 (水) 11:39 (UTC)

ご返信ありがとうございます。刀狩令や太閤検地が「画期的な新政策ではない」ということの反論がでてないとIPアドレス様は仰いますが、私が前回引用いたしました脇田修氏の『織田政権の基礎構造』及びその続編である『近世封建制成立史論』はご覧になっていただけましたでしょうか?そちらを参照いただけましたら、太閤検地の革新性がご理解いただけるかと思います。刀狩令につきましては、藤木久志氏の『刀狩り 武器を封印した民衆』が、日本史上で刀狩令が果たした意義をまとめております。同書において藤木氏は、豊臣政権の刀狩令が「村と百姓が武装権(帯刀と人を殺す権利)の行使を封印することを求め」たものであり、喧嘩停止令と並び農民階級の「自立的な武器制御の作法の広がり」を全国的に促し、江戸時代を通して民衆に恒常的な平和を齎したものだと総括してます(前掲書228-229頁より)。だからこそ、全国的な施行の前に高野山や紀伊といった紛争地域の一揆衆に対し局所的に行われた秀吉の「原刀狩令」、及び17世紀末に成立した『明智軍記』にしか記述がなく、傍証に乏しい柴田勝家の「刀さらへ」と違い、豊臣政権の刀狩令は日本の近世封建制度成立において画期的な重要政策だと評価されてるのです。IPアドレス様が上記の史料を直接ご確認いただくのが難しいようでしたら、刀狩令及び太閤検地の画期性について端的にまとめられております以下の資料をご参照ください(文中の太字は引用者によるものです)。
(前略)織田信長・豊臣秀吉はかねがねこれら農村の土豪一揆的勢力にははなはだしくなやまされていたので、その軍事的征服過程では、逐次農民の武装解除を実施していたが、秀吉はこれを全国的規模で実施するとともに、武士・農民の身分的固定を遂行しようとしたのである。(中略)刀狩を通じて兵農分離が急速に推進され、中世的な下克上現象がひきおこされる機会が除去された意義はきわめて大きく、全国検地もそれを前提として可能となった。 — 永原慶二、 河出書房新社『日本歴史大辞典』第3巻「刀狩」の項目

 

(前略)太閤検地をひろく解すると一五八二年ころからのものとなるが、統一した制度として全国化した意味にとれば、九十四年の検地をさすものとなる。(中略)いずれにせよ、大名・大名領を制度化し、中世的な土地農民支配の否定が確認され、江戸時代にひき継がれて幕藩体制が成立するわけで、画期的な事業であった。 — 中村吉治、 河出書房新社『日本歴史大辞典』第6巻「太閤検地」の項目

 

また、IPアドレス様は何か誤解なさっておられるのではないかと危惧いたしますが、Wikipediaではブリタニカ百科事典のような、信頼性の高い外部の百科事典を典拠として執筆することは広く認められている行為です。Wikipedia日本語版のガイドラインであるWikipedia:信頼できる情報源では、「現存する百科事典よりも優れた記事を書こうとWikipediaの執筆者が意図する場合、三次資料である百科事典より研究者が著した二次資料に依拠すべき」だと書かれておりますが、これは二次資料の三次資料に対する優位を記したものであり、百科事典が記事執筆の際に信頼できるソースになりえないと主張するものではありません。既に私は二次資料から三次資料まで典拠を提示いたしましたが、IPアドレス様が上記の資料の記述を覆し自説を主張するためには、IPアドレス様の自論を補強するより信頼性の高い二次資料の提示が必要となります。前回私は「近世封建制度が豊臣政権以前または以後に成立した」ということを示すソースの提示をIPアドレス様に求めましたが、そちらについてはご準備していただけましたでしょうか?一方的にソースを求めるのではなく、お互いに根拠を出し合うことで初めて有意義な議論が可能になると私は信じております。
IPアドレス様が私の提示いたしました各種資料及びWikipediaの基本方針に納得ないと仰るなら、IPアドレス様と私だけで議論を重ねるのでなく、 プロジェクト:日本史など、該当項目に対する知識を有する他のユーザーの方々の意見を募ることもできると思いますが、いかがでしょうか。IPアドレス様からご提案いただけなくとも、今後IPアドレス様が出典付き記述の削除を強行なさるなら、私のほうから皆様にご相談させていただいた方がよろしいかと思います。
以上、ご理解賜れましたら幸いです。--MURMUR4040会話2013年5月6日 (月) 06:06 (UTC)

まず、百科事典マイペディアを見てみましたが、記述は次のようなもので、封建社会などという単語は見当たりませんでした。

(安土桃山時代の武将。織田信長の足軽木下弥右衛門の子。尾張(おわり)中村の生れ。初め木下藤吉郎のち羽柴筑前守。1558年信長に仕え,しだいに重用されて1573年近江(おうみ)を与えられ長浜城主。(1536-1598)

そちらこそ池上裕子氏の『日本中近世移行期論』をお読みください。脇田氏の説はすでに20年近く前のものだということにも留意した上で、です。太閤検地が全く画期的な新政策ではないことがお分かりいただけると思います。

刀狩の評価については藤木氏だけの評価を書くのは当然、不適当です。

『日本歴史大辞典』『日本歴史大辞典』、わざわざ挙げてくださいましたが、どちらも秀吉の政策について詳細に記した本とは到底言えず、しかもこれまた20年近く過去のものです。根拠にするのは不適当です。

中世・近世の境目については、東京大学史料編纂所というソースを既に出しております。

これ以上個々の政策について論議したければ、その政策のページにてお願いします。くれぐれも、曖昧なソースに頼って迂闊なことを書かないように。

以上 223.133.77.80 2014年11月17日 (月) 04:07 (UTC)

分割提案

記事の分量が多いため、今後も肥大化が続くと思われる近年のドラマ・小説・漫画・ゲーム等の記事を豊臣秀吉が登場する作品一覧などとして分割する事を提案します。--Nihonsi 2008年10月27日 (月) 17:47 (UTC)

  • (コメント)まずは関連項目を整理すべきだと思います。豊臣秀吉について調べる側の立場で考えれば、多すぎるリストは豊臣秀吉を理解することに資するとは考えられません。まず、豊臣秀吉が主役級で登場する作品に絞り、それでも量が多いようであれば分割提案すべきだと思います。--M.F 2008年10月31日 (金) 13:44 (UTC)
Portal‐ノート:歴史#フィクション作品の情報を原則として人物記事に載せない旨の合意について提案にてフィクションの記述をどうすべきかを話し合いたいと思います。よろしくお願いします。--らりた 2008年11月1日 (土) 12:55 (UTC)

三跪九叩頭の礼

英語版Wikiの三跪九叩頭の礼en:Kowtowを読みましたら以下のように書いてありびっくりしました。 漢文読めないの分からないのですが本当に秀吉は以下のようなことをしたのですか? どなたかご存知のかたのお答えお願いします。

The kowtow was often performed in intra-Asian diplomatic relations as well. According to Annals of Joseon Dynasty, a Korean source, in 1596, Japanese Daimyo Toyotomi Hideyoshi who unified Japan had to kneel five times on the ground and hit his head three times on the ground (五拜三叩头礼), to show his vassal status to the Chinese Ming Dynasty.ref (Korean) 宣祖 83卷, 29年(1596 丙申 / 명 만력(萬曆) 24年) 12月 7日(己巳) 5번째기사 중국 사신이 병부에 보낸 계첩. Annals of Joseon Dynasty. http://sillok.history.go.kr/viewer/viewtype1.jsp?id=wna_12912007_005&grp=&aid=&sid=4183897&pos=0. "朝鮮王朝實錄 宣祖 83卷, 29年( 1596 丙申 / 萬曆 24年) 12月 7日] " 倭將行長, 馳報秀吉, 擇於九月初二日, 奉迎冊命於大坂〔大阪〕地方受封。 職等初一日, 持節前往, 是日卽抵大坂〔大阪〕。 次日領受欽賜圭印、官服, 旋卽佩執頂被, 望闕行五拜三叩頭禮, 承奉誥命。"" /ref

--Chichiii 2009年2月17日 (火) 09:43 (UTC)

行長と沈維敬の欺瞞外交の一部ですね。当時、秀吉は勝ったから明使一行は謝りに来たと認識していたし、朝鮮使には面会さえも許していません。ただし、朝鮮使に聞かれた明使は秀吉が受封したとは言っています(黄慎の日本往還日記)。なお、宣祖修正実録十二月条には「不受封」と書いてありますし。そう書いてあるだけだと思いますよ、結果が再出兵だったことを思えば。--yasumi 2009年2月17日 (火) 11:29 (UTC)
そう言うことなんですね。英文では行長のことが書かれていないから、実際に秀吉がそのようなことを行ったと受け取れますね。--Chichiii 2009年2月17日 (火) 11:39 (UTC)

ちなみに、秀吉関連の英語版記事については、履歴などを見るとわかりますが、韓国系オーストラリア人・アメリカ人などの編集者の方々による編集も多いので、その点、注意が必要です。なかにはいわゆる政治的・プロパガンダ的なことを意図して編集される方もいます。--西方 2011年5月30日 (月) 14:23 (UTC)

掲載の許可について

下記、2点の掲載について許可をいただきたいと思います。

  • 本能寺の変の黒幕説

「秀吉のブレインである黒田孝高による演出説についてはSAPIO2011年1月6日号に参考文献として記載があり、諸説は京都造形芸術大学の教授である松平定知氏が提唱しているものであるため掲載は問題ないはずです。」また、以前は珍説言う文面になっていましたが、本能寺の変の黒幕は大学教授や作家、事件を起こしたとされる明智光秀の子孫までが自説を唱えているため「珍説」ではなく違う用法で掲載すべきと考えます。掲載に問題のある場合はご意見をどうぞ

  • 石川数正の出奔の記述について

「石川数正が徳川を出奔し秀吉の家臣になったのは史実であり記載があってもおかしくありません。本文で出奔した事実、秀吉の家臣になった事実のみを掲載すれば問題なしと考えます。掲載に問題のある場合はご意見をどうぞ

なお、誠に勝手ではございますが10日間の間にノートに異論が無かった場合は事実上の承認をいただいたと解釈しますのでよろしくお願いいたします--ノーザン123会話2012年6月2日 (土) 16:40 (UTC)

信頼できる情報源による出典無き記述は除去します。wikipedia:検証可能性を読んでください。史実ならば出典提示できますね?出典提示できないことは書くべきではありません。10日たとうが1年たとうが出典の無い記述はいつでも任意に除去できます。wikipedia:検証可能性を読んでください。--ぱたごん会話2012年6月2日 (土) 17:04 (UTC)
あらあら、ノーザン123さん、こんなところでも・・・。「出典が有ってもおかしくない」じゃ駄目です。リンク先に文献が示されている訳ではないですよね?(示されているならリンク先ではなく、この記事で堂々と示して下さい)実際に出典を見つけてからにしてください。出典は明記する必要が有るのです。ウィキペディアの基本方針は、どうかお守り下さい。こちらの書き込みは[1]ノーザン123さんが過去、何らかの権威有る文献で確かにこう記されていることを確認なされたのですよね?手元にあるのであれば、その文献を示して下さい。無いのであれば図書館で参照して書誌情報を明記してください。それで全ては解決します。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:出典を明記するWikipedia:信頼できる情報源の辺りは基本中の基本です。何せ「出典を示す義務は掲載を望む側に」、「出典の無い記述は除去されても文句は言えません」が大原則です。また、安易に相手を荒らしと呼ばないでください。。ぱたごんさんの行為のどこが荒らし行為なのでしょうか。保護依頼はもう少々お早めに出して頂いてもよろしいと思いますが。--Hman会話2012年6月2日 (土) 17:21 (UTC)

出典材料はいくらでもありますよ。 一番わかりやすいのが 山岡荘八著「徳川家康」山岡荘八歴史文庫刊です。確か10巻か11巻に記載があります。 これで大丈夫だと思いますが--ノーザン123会話2012年6月2日 (土) 17:20 (UTC)

それなら、確かにその内容と、その記述に相違がないことを確認し、脚注形式で書誌情報・ページ番号を示して記述して下されば良いのです(ですが、'歴史小説はもちろん大方の場合、事実についての出典にはなりませんのでご注意ください。また検証の結果不適切である、または諸論あるケースである、と言った場合には、解決ともなりません。ですが出典が付いてやっと検証が可能になりました。出典がついていないと検証さえも不可能な状態なのです)。今後は全てにおいて、是非とも最初からそうしてください。出典の提示は求められたから行なうのではなく、そもそも加筆時に同時に行なうべきものです。具体的な出典の示し方はTemplate:参照方法の解説がわかりやすいでしょう。--Hman会話2012年6月2日 (土) 17:26 (UTC)
石川数正の出奔について、出典を追記し復活しました。--プリズム11会話2012年6月10日 (日) 11:55 (UTC)

編集合戦

編集合戦はやめましょう。一回目の保護を行った時点では自分の早とちりかと思い解除したのですが、結局保護しなければいけない状況になってしまいました。非常に残念です。ウィキペディアが出典にならないというのは確かに正しいことですが、他のやり方があるのではと思います。話し合いで解決されることを望みます。--赤の旋律(talkirc) 2012年6月2日 (土) 16:56 (UTC)

赤の旋律さんは読んだつもりではなく真摯にwikipedia:検証可能性を読んでください。話し合いではなく、信頼できる情報源による出典があるか無いかです。「話し合ったから出典無くて良いよ」とはなりません。--ぱたごん会話2012年6月2日 (土) 17:09 (UTC)
そういう意味で解決と書いたつもりはありません。ノーザン123さんを納得させる手間をおしまないでほしいということです。差し戻しを続けるだけでは何の益もないことは目に見えています。--赤の旋律(talkirc) 2012年6月2日 (土) 17:33 (UTC)
そういうのは「話し合い」ではなくノーザン123さんに検証可能性を分かりやすく説明してくださいということです。ノーザン123さんのページに行きます。--ぱたごん会話2012年6月3日 (日) 01:23 (UTC)
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