新山口駅 編集

新山口駅の内容が、あまり中立的ではないような気がするのですが・・ 日陰猫Joga 2004年8月5日 (木) 08:20 (UTC)返信

作者ではないですが、新山口駅の履歴を見ると、当初の項立ての部分を分離した為に出来た項目であり、且つ新山口駅のノートページにこの項で立ててと教示された文面があるのですが、どうもそれを誤用して考えているみたいです。いずれにせよ、内容が同駅及び山口県のそれであり、かつNPOVですね。直すにもリンクと強調はずしでは済みそうにないですし。Sat.K 2004年8月6日 (金) 01:22 (UTC)返信

新山口駅の駅名改称で得をしたのはメンツが立った山口市とペンキ屋、印刷所くらいかな。それに引き替え、大多数の利用客の混乱と住民税の無駄遣いをどうしても記事にしなければと思ったのです。鹿児島中央駅の場合は長い時間をかけて話し合いで駅名改称になったようですが、次元が違うと思います。--219.109.57.252 2004年8月19日 (木) 16:40 (UTC)返信

そういうことであるならば、この項目の名称ではかえって大きすぎるのでは。むしろ、山口市と小郡町との合併に際しての流れなのかどうかを見極めるべきであり、それ以前の流れを鑑みると県庁所在地としての山口市と県内有数の交通の要衝駅を持つ小郡町との関係のみであってそれをクローズアップして大々的に書くのと、我田引鉄などと同列にするには説得力が乏しいと思われるのです。「小郡駅近くに新山口市役所を設ける」などの文言を入れるのであるならば、山口市と小郡町との合併に際しての流れに関して的を絞るべきで、「住民税の無駄遣い」となるとこの事例だけではなく、最近の新駅設置なども勘案すべきかと思います。
ちなみにあなたが例に述べた、鹿児島中央駅の改称については単に鹿児島県・鹿児島市の主導ではなく、むしろそれ以前に行われた鹿児島市の都市計画と鹿児島駅と西鹿児島駅との貨客分離による国鉄・JRの営業戦略との兼ね合いがあるので必ずしも地方の恣意的な政治的問題と関係が薄い事は鹿児島本線に関する多くの資料に出ていますので、新山口駅の例とはかけ離れているのは自明の事だと思います。Sat.K 2004年8月20日 (金) 02:07 (UTC)返信
ついでに言えば。219.109.57.252 さん。本文中に「政治と鉄道を語るからには、これらをはずして語れないです。というか、これらに比べれば、新山口駅の話など些細なことに思えます。」とkoneさんからコメントがありますので、その資料などをもう一度調べ直して見るべきではないかと思いますが。如何でしょうか。Sat.K 2004年8月20日 (金) 02:07 (UTC)返信

削除依頼提出について 編集

上のノートのやりとりの通り、どうもこの記事は作者の主張を主として作成された記事です。そのことを考えて暫く様子を見ましたが、改まっているとは思えませんので、削除依頼を提出致しました。Sat.K 2004年11月10日 (水) 10:22 (UTC)返信

削除依頼に出ていた意見として 編集

こうやって見てみると、結構書くことは多いのですが、主題との違和感がぬぐえない印象が強いです。そこで、一旦仕切直してと思い、削除依頼に出したのですが、意外と「発展の余地があるため」とのことですし、その辺は認めます。後は、「新山口駅」の部分ですが方向性として、プラスの面が皆無ですので、どう処理しますかということですが。Sat.K 2004年11月16日 (火) 01:21 (UTC)返信

白石蔵王駅について 編集

あまり政治的とか聞いたことがない。「鉄道忌避伝説」と同等の話だと思う。鉄道忌避伝説は「鉄道と政治」を語る上で必ず出てくるから、惑わされる部分も多いと思う。--61.209.87.171 2005-09-03 18:41:49(UTC)履歴より署名付加--Mametaro 2006年1月30日 (月) 01:58 (UTC)返信

停車駅争奪戦について 編集

駅名の羅列では、いったい何のことかわかりません。特に深谷駅。項目を立てた方は責任を持って加筆してください。--Mametaro 2006年1月30日 (月) 01:58 (UTC)返信

新幹線と政治との統合 編集

新幹線と政治との統合に関しては、ノート:新幹線と政治ノート:新幹線での議論を参照してください。--Shinkansen 2006年2月22日 (水) 11:53 (UTC)返信

告知ありがとうございます。--Mametaro 2006年2月22日 (水) 12:47 (UTC)返信

上越新幹線の建設経緯について 編集

1964年の東海道新幹線開業以降、高度成長で日本経済は拡大を続けた。その中で、新幹線も西へ延長することになった。しかし、ちょうどその頃政府与党の中で一目置かれる政治家も成長しその存在は大きくなっていった。これが田中角栄である。しかし一方国鉄は与党議員の圧力により地方へ鉄道を建設し続け、年々赤字が大きくなっていた。そのころ東海道新幹線のバイパス線である「北回り新幹線」が構想された。新宿から松本(長野県)を抜けて北陸に出るというのが当初のルート北回り新幹線ルート。ちょうどその頃自著の「日本列島改造論」で新幹線建設の機運を高めた田中角栄は国鉄官僚に「鉄建公団」を作って、ポストと言うというあまい汁を吸わせ、乗客の見込めない地方ローカル線の建設を進め、国鉄によってまだ建設が始まっていなかった上越新幹線を鉄建公団に着工させた。と、言われているが、「国土の均衡ある発展」という「過疎と過密の同時解消」を進める上で、新幹線建設あるいは高速道路・空港建設が有用であるという考えもあるので、一概に「利権」という概念で捉えられるものではない。

京都駅の東海道新幹線ホーム併設に関して 編集

とりあえずコメントアウトで記述しましたが、もし国鉄側の当初の計画通りに京都駅を経由せずに「新京都駅」として開業していましたら(京都経済同友会様から入手しました資料では京阪鳥羽街道駅付近に建設予定だったとの事です)、周囲の道路事情が余り良くない事や主要鉄道路線の接続などの問題が生じた事が容易に予想出来ました(京阪鳥羽街道駅は優等列車通過駅、隣接する現在のJR奈良線には未だに駅はなく、国鉄時代末期まで非電化で、更に近年まで単線)。その意味では、地元側の主張(それも地元出身の有力政治家に頼らずに)を通した結果が総合的にプラスに働いた極めて珍しい例と思いますが。V-TWIN POWER 2007年1月3日

あざみ野駅 編集

あざみ野駅に急行が停車したのが政治の力が働いたからのように書かれているが、これは事実無根。 原因は地下鉄があざみ野駅に接続してから乗降客が2倍以上に増えたから。


>これは事実無根

http://www.city.yokohama.jp/ne/news/arc/mpr/2000/00100301.html で急行停車の経緯が確認できますので削除したいとおもいますが--・_・ 2009年6月12日 (金) 06:43 (UTC)返信

鉄道忌避伝説について 編集

2006年12月に出た青木栄一『鉄道忌避伝説の謎』という本では鉄道忌避運動は完全にまぼろしであったと断定するもので、当然この本に対する批判や反論も出たのだろう……と思ってネットで色々探してみたのですが、全然出てこないみたいなので、ひょっとして鉄道忌避運動がまぼろしであったというのはもう完全に定説になっているということなんでしょうか? だとしたら、現行のウィキペディアの、肯定否定両方の意見に目配りをした記述は問題ということにはならないでしょうか?--えの 2007年12月29日 (土) 15:55 (UTC)返信

「現在では否定されている」という主張に寄った記述に書き換えていいですか?--えの 2008年1月26日 (土) 15:40 (UTC)返信

現在では肯定されている専門家の方はおられないとおもいます。青木先生は厳しく史料を精査して発表される方です。誘致を目指す史料は出てきても、忌避があったことを示す当時の記録がまったく出てこないのですから異論を称えるのは難しいのでしょう。実際に忌避されたことが明確なのは忌避運動を避けて海中に建設した新橋-品川間くらいではないでしょうか。これは鉄道に対する情報不足の結果でしょう。次いで建設される関西では大阪駅の位置が市街地に近くなるように南へ大回りするルートになります。このころにはすでに鉄道の有用性が認識されたのではないでしょうか--・_・ 2009年6月12日 (金) 06:39 (UTC)返信

「鉄道忌避伝説」の章は、まるごと鉄道忌避に分割して、都市伝説のカテゴリ扱いにすると良いです。--121.114.130.235 2010年7月24日 (土) 14:57 (UTC)返信

個人的にはちょっと行き過ぎの感はあると思います。例えば、藤沢駅に関しては当時の藤沢町議会にて反対の建議を述べた山本氏という議員の存在が知られており、その結果として当初はトンネル経由で藤沢宿付近に駅を設ける予定がより南に付け替えられたことが「藤沢市史」に書かれています。恐らく青木氏もそこまでの調査は出来ていないと思いますので、全てをひっくるめて都市伝説と断定するのは異論があります。--RELHAM会話2012年8月4日 (土) 08:54 (UTC)返信

藤沢市史自体の確認が当方はできていないのでちょっと何なのですが、市史が証拠という時点で眉唾ものとのそしりは免れ得ないと思います。というのは、青木氏の研究で「『◯◯市史』『◯◯町史』の類で反対運動があったとされている土地で、反対運動があったとされる当時の新聞記事や日記、署名などを調べると、反対運動があったという記述が全く見つからず、それどころか誘致運動が行われていた記述ばかり出てくる。どうも、あの時代は全国どこでも積極的な鉄道誘致が常識だった」ということが明らかになっており、ことこの問題では、後世に編纂された市史町史の類ではなく、その時代の一次資料を当たらないと証拠足り得ないと言うべきだからです(それに、当時の藤沢は、藤沢宿大久保町、藤沢宿坂戸町などの小さな町に分かれていて、「藤沢町」というものは存在しませんし……)。

あと、私見を言うと、藤沢で反対運動の結果路線が変わった可能性はかなり低いと思われます。

  • 同じ神奈川県内の東海道宿だった川崎宿の近くに川崎駅ができてから15年もの年月が経っていた時代に、藤沢宿の人間が「宿場に途中駅ができるとどうなるのか」を把握していなかったとは考えにくい
  • 戸塚-藤沢は川沿いに下る現行ルートのほうが明らかに合理的で、トンネルを掘るなどという不合理なルートが予定されていたとは考えにくい
  • 東海道線は当時の国策路線として急ピッチで作られた路線なので、地元の反対運動が仮にあったとしても、それが考慮されたとは考えにくい
  • そもそも藤沢駅、反対運動があって離されたという割には藤沢宿から大して離れてない(1km弱は現代の目から見てもそこまで離れてませんし、長距離を歩くのが当たり前だった当時の感覚ならましてや)

特に、当時の技術力・資金を考えると、二番目の要素は大きいです。--Otkdkr会話2012年8月6日 (月) 12:34 (UTC)返信

いえ、藤沢市史に載っているのは当時の藤沢町の議事録なのです。「証拠」という観点ではかなり確度の高いものであり、これを否定するとなると公文書の存在を頭ごなしに否定することになります。そこまで青木氏が言っているとすれば明らかに行き過ぎです。--RELHAM会話2012年8月23日 (木) 11:17 (UTC)返信

まずその議事録はどの文献に掲載されているか伺いたいのですが。
『藤沢市史 通史6』と『藤沢市史 3巻 資料編 近現代』を図書館で閲覧してきましたが、通史275-277頁では「停車場設置に対し宿場町では賛否両論がおこり結果的に機関車のばい煙よる火災の危険を理由として畑と松林の中に停車場を設置した」その資料は3巻資料編所収の(藤沢)駅史(昭和17年)
なのでまず議事録を読んでから判断したいのですが。--Tamrono157会話2012年8月28日 (火) 10:47 (UTC)返信

燕三条駅の出典、海老原美宜男『100%新幹線ガイド』(日本交通公社、1987年)について 編集

コメントアウト箇所で、海老原美宜男『100%新幹線ガイド』(日本交通公社、1987年)を出典として、

代償として、近隣に所在する北陸自動車道インターチェンジおよび併設される高速バス停留所の名称を、所在地が燕市であるが、「三条燕」とする「大岡裁き」によって解決した。

とあります。 しかし、『新潟日報』昭55.10.17朝-17より、燕・三条駅(仮称)が仮称の通りにほぼ内定したのは昭和55年。他方、北陸自動車道の「三条燕IC」の開業は昭和53年です。 このことより、燕三条駅の駅名を「燕」を先にした代償として三条燕ICの方を「三条」としたのは誤りであろうと判断できます。読売の出典でも、「(新幹線駅開業の)4年前に供用を開始していたICの名称は「三条燕」で、新幹線駅名は結局、その逆の「燕三条」で落ち着いた」とあります。以上の理由で当該箇所をコメントアウトしました。--しんぎんぐきゃっと会話2023年5月14日 (日) 11:40 (UTC)返信

海老原美宜男『100%新幹線ガイド』には「田中角栄の大岡裁き」などといった表現は確認できず、
「燕三条」は両市街地の中間に位置するため、どちらを上にするかでもめたが、北陸自動車道のインターチェンジを「三条燕」とすることで引き分けとなった。
との記述しかありません。この記述も当時の新聞記事(『新潟日報』昭55.5.10)に三条市の滝沢市長が既存のIC(三条燕IC)と同名でないと利用者が混乱するだろう、と「三条燕」駅を主張した、とあることから信頼できる記述とは言えません(以上の調査はTwitter上で@FanTaiyo氏に提供いただいた資料を参考にしたものです)。--しんぎんぐきゃっと会話2023年5月26日 (金) 11:27 (UTC)返信
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