リヒャルト・グスタフ・ハインツ・ティーセン(Richard Gustav Heinz Tiessen, 1887年4月10日 - 1971年11月29日[1])は、ドイツ作曲家

ハインツ・ティーセン
Heinz Tiessen
生誕 (1887-04-10) 1887年4月10日
出身地 ドイツの旗 ドイツ帝国 ケーニヒスベルク
死没 (1971-11-29) 1971年11月29日(84歳没)
西ベルリンの市旗 西ベルリン
学歴 ベルリン大学
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家

経歴 編集

ケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)出身。ベルリン大学とベルリン市立音楽院に入学し、作曲と音楽理論を学ぶ。1911年から1917年まで音楽評論を行い、1918年に民衆劇場(フォルクスビューネ)のカペルマイスター兼作曲家となり、1925年から1945年の間までベルリン音楽大学(現在のベルリン芸術大学)で音楽理論と作曲を教えた。またISCMのドイツ支部の創設者のひとりである。彼の音楽はナチス・ドイツ時代にはナチス政権によって「不適切」と分類された。第二次世界大戦後はほとんど作曲をしなくなったが、1955年にベルリン音楽大学の作曲・音楽理論学部の学部長となった。著名な教え子にエドゥアルト・エルトマン[2]笈田光吉[3]セルジュ・チェリビダッケ[4]がいる。

作品には2つの交響曲劇付随音楽管弦楽曲室内楽曲、ピアノ曲、オルガン曲、歌曲、合唱曲などがある。初期の作品はリヒャルト・シュトラウスの影響が色濃いが、1918年以降は表現主義音楽に傾斜していった。

作品 編集

  • 交響曲第1番(1910年 - 1911年)
  • 交響曲第2番「死してなれ」(1911年 - 1912年)
  • ハムレット組曲(1919年 - 1921年)
  • ピアノのための3つの小品(1923年)
  • 舞踊劇「サランボー」(1924年)
  • ピアノと管弦楽のための協奏的変奏曲(1961年)

エピソード 編集

  • ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者のポストがレオ・ボルヒャルトの事故死により空席となったとき、チェリビダッケにオーディションを受けるよう勧めたのはティーセンだったといわれる。
  • またベルリン・フィルを指揮して得意の絶頂にあったチェリビダッケに「効果だけを狙いすぎている」と苦言を呈し、それがきっかけでチェリビダッケはテレマンの『ターフェルムジーク』などのシンプルな形の音楽から勉強をやり直した、と語っている。一匹狼のチェリビダッケさえも言うことを聞かせる、というところにその人格者ぶりがうかがえる。
  • 名前が、同時代のバイロイトの実力者ハインツ・ティーチェンと似ているが、全く別人である。

脚注 編集

  1. ^ SL & Stuckenschmidt 2016.
  2. ^ Scherliess, Volker (2016). "Erdmann, Eduard". In Lütteken, Laurenz (ed.). MGG Online. Bärenreiter, Metzler, RILM. 2022年1月5日閲覧
  3. ^ 大日本音楽協会 編纂 編「笈田 光吉」『音楽年鑑』 昭和16年度、共益商社書店、1941年、132頁。NDLJP:1109457https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109457/98 
  4. ^ Thiemel, Matthias (2016). "Celibidache, Sergiu". In Lütteken, Laurenz (ed.). MGG Online. Bärenreiter, Metzler, RILM. 2022年1月5日閲覧

参考文献 編集

  • SL; Stuckenschmidt, Hans Heinz (2016). "Tiessen, Heinz". In Lütteken, Laurenz (ed.). MGG Online. Bärenreiter, Metzler, RILM. 2022年1月5日閲覧