ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ

ドイツの軍人

ハインリヒ・ゴットフリート・オットー・リヒャルト・フォン・フィーティングホフ・ゲナント・フォン・シェールドイツ語: Heinrich Gottfried Otto Richard von Vietinghoff, genannt von Scheel, 1887年12月6日1952年2月23日)は、ドイツ陸軍軍人。最終階級はドイツ国防軍上級大将

ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ
Heinrich von Vietinghoff
生誕 (1887-12-06) 1887年12月6日
 ドイツ帝国
ヘッセン大公国の旗 ヘッセン大公国マインツ
死没 1952年2月23日(1952-02-23)(64歳)
西ドイツの旗 西ドイツ バイエルン州 プフロンテン
所属組織  ドイツ帝国陸軍
 ヴァイマル共和国陸軍
 ドイツ陸軍
軍歴 1903年1945年
最終階級 陸軍上級大将
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経歴 編集

ヴェストファーレン貴族の家系にマインツで生まれる。父親はプロイセン王国軍砲兵中将ハインリヒ・オットー・コンラート・フォン・フィーティングホフである。第一次世界大戦中の1915年に歩兵大尉に昇進。1917年に参謀本部付となる。戦後の1920年1月に、ベルリンで大佐の娘で工場主の未亡人と結婚した。1926年に少佐、1933年に大佐に昇進。さらに1936年に装甲兵少将、1938年に中将に昇進した。

第二次世界大戦が始まると第5装甲師団指揮官としてポーランド侵攻に従軍。1942年9月に第9軍司令官代行を務める。1943年に上級大将に昇進し、8月からイタリア戦線にある第10軍司令官に就任した。1944年10月から1945年1月まで、負傷した南西方面軍司令官アルベルト・ケッセルリングに代わって指揮を執った。その後クールラント軍集団司令官に転じ、1945年3月からイタリア戦線のC軍集団司令官に任命された。1945年4月末、自身の代理役のフォン・シュヴァイニッツとイタリア親衛隊最高指導者の代理が連合軍と交渉し、4月29日にカゼルタで5月2日正午を以て指揮下の部隊を降伏させることに合意した。イギリス軍の捕虜となり、その後2年半の捕虜生活を送った。

戦後はドイツの再軍備問題に携わった。1950年10月には西ドイツ首相コンラート・アデナウアーの諮問を受け、西ドイツの欧州防衛に対する貢献についてのヒンメロート覚書作成の一人になっている。しかし間もなくバイエルン州プフロンテンで死去した。

栄典 編集

各国栄典 編集

外部リンク 編集

軍職
先代
新設
第5装甲師団司令官
1939年9月2日 – 1939年10月8日
次代
マックス・フォン・ハートリープ=ヴァルスポルン英語版
先代
ヴァルター・フォン・ライヒェナウ
第10軍司令官
1943年8月15日 – 1945年2月14日
次代
トラウゴット・ヘル英語版
先代
ロタール・レンデュリック
クールラント軍集団司令官
1945年1月27日 – 1945年3月10日
次代
ロタール・レンデュリック
先代
アルベルト・ケッセルリンク
C軍集団司令官
1945年3月10日 – 1945年4月30日
(代理 1944年10月26日 - 1945年1月15日)
次代
フリードリヒ・シュルツ英語版
先代
アルベルト・ケッセルリンク
南方総軍英語版総監
1945年3月11日 – 1945年5月2日
次代
廃止