ハリシュチャンドラ王[1]』(ハリシュチャンドラおう、Raja Harishchandra)は、1913年インド叙事詩的サイレント映画。インド初の長編映画に位置付けられており、監督・製作はダーダーサーヘブ・パールケーが務めた。ハリシュチャンドラ英語版の伝説を題材にしており、D・D・ダーブケー英語版アンナ・サルンケー、バールチャンドラ・パールケー、ガジャナン・ヴァスデーヴ・セーンが出演している。サイレント映画のため、英語マラーティー語ヒンディー語インタータイトルが付けられた。

ハリシュチャンドラ王
Raja Harishchandra
コロネイション・シネマトグラフ&ヴァラエティ・ホールでの上映時の宣伝ポスター
監督 ダーダーサーヘブ・パールケー
脚本 ダーダーサーヘブ・パールケー
製作 ダーダーサーヘブ・パールケー
出演者 D・D・ダーブケー英語版
アンナ・サルンケー
バールチャンドラ・パールケー
ガジャナン・ヴァスデーヴ・セーン
撮影 トリンバク・B・テラング英語版
編集 ダーダーサーヘブ・パールケー
製作会社 パールケー・フィルムズ・カンパニー
公開 1913年5月3日
上映時間 40分
製作国 イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国
言語 サイレント
テンプレートを表示

1913年4月21日にボンベイのオリンピア劇場でプレミア上映が行われ、5月3日にギルガオン英語版コロネイション・シネマトグラフ&ヴァラエティ・ホール英語版で一般公開された。『ハリシュチャンドラ王』は興行的な成功を収め、インド映画産業の礎を築いた。フィルムの一部は消失しており、最初と最後の部分のみがインド国立フィルム・アーカイヴに保管されているが、このフィルムについて一部の映画史家は同作をリメイクした『Satyavadi Raja Harishchandra』のものと主張している。

ストーリー 編集

『ハリシュチャンドラ王』

ハリシュチャンドラ王が、王妃タマラティの前で息子ロヒタシュヴァに弓矢の使い方を教えている。彼は民の求めに応じて狩猟に出かけ、その帰り道で複数の女性の悲鳴を耳にする。悲鳴のする方向に向かったハリシュチャンドラは、聖者ヴィシュヴァーミトラがヤジュナ英語版を行っている場面に出くわし、意図せずに儀式を妨害してしまう。儀式を邪魔されたヴィシュヴァーミトラは怒り狂い、ハリシュチャンドラは怒りを鎮めるために自らの王国を差し出すことを申し入れ、彼は王宮に戻りタマラティに事の次第を伝える。王国を手に入れたヴィシュヴァーミトラはハリシュチャンドラ、タマラティ、ロヒタシュヴァを追放してしまう。間もなく、ロヒタシュヴァは追放先で夭折し、ハリシュチャンドラはタマラティをドム王英語版の元に向かわせ、ロヒタシュヴァを無償で荼毘に付してもらうように頼もうとする。しかし、タマラティはドム王の元に向かう途中、ヴィシュヴァーミトラによってカーシーの王子を殺害した犯人に仕立てられてしまう。彼女は裁きの場で罪を認めたため、ハリシュチャンドラの手で斬首されることになった。ハリシュチャンドラが剣を振り上げた瞬間、2人の目の前にシヴァ神が現れる。ヴィシュヴァーミトラは、ハリシュチャンドラの清廉さを確かめるために試練を課していたことを明かし、彼に王冠を返還してロヒタシュヴァを生き返らせる[2][3]

キャスト 編集

製作 編集

企画 編集

『キリストの生涯』が目の前を動き回っている間、私は心の中でクリシュナ、ラーマ、ゴクール英語版アヨーディヤー英語版の姿を思い描いていました。その時の私は不思議な魔力にとらわれていました。気が付くと、私はチケットをもう一枚買って再び映画を鑑賞していました。今度は自分の中のイメージがスクリーンで形になっていくのを感じました。本当にこんなことが起きるのか?インドの息子たちである我々が、インドの映像を目にすることができるのか?
スクリーンに映るイエスを観たパールケー[5]

1911年4月14日、ダーダーサーヘブ・パールケーは息子バールチャンドラを連れて、ギルガオン英語版のアメリカ・インディア・ピクチャー・パレスで『Amazing Animals』を鑑賞した[6][7]。バールチャンドラはスクリーンに映し出された動物に衝撃を覚え、母サーラスワティに感想を伝えたが信じてもらえなかったため、パールケーは翌日に家族全員を連れて再び劇場に出かけた。その日は復活祭の時期と重なっていたため、劇場ではアリス・ギイの『キリストの生涯英語版』が上映されていた[5][7][注釈 1]。パールケーはスクリーンに映し出されるイエス・キリストの姿を見ながら、キリストの代わりにラーマクリシュナの姿を思い描き、新たに「動画」ビジネスを始めることを決意したという[7]。その後、パールケーはロンドンに渡り2週間かけて映画製作の技術を学び、帰国後の1912年4月1日に映画製作会社パールケー・フィルムズ・カンパニーを設立した[8][9]

ロンドン滞在時、パールケーはウィリアムソン・カメラとコダックのフィルム、パーフォレーターを購入しており、1912年5月にボンベイに到着した[10][11]。荷物の到着後、パールケーはフィルムの現像室を作り、家族にパーフォレーションと現像手順を説明した[10]。彼は映画の構想に自信を持っていたが、出資者が集まらなかったため製作を開始することができなかった。そのため、パールケーは製作技術のデモンストレーションを兼ねて短編映画を製作することに決め、鉢に植えたエンドウ豆をカメラで1日1フレームを1か月間かけて撮影し、エンドウ豆が成長する姿を1分間のフィルムに収め、『Ankurachi Wadh』(訳:エンドウ豆の成長)と題して資産家たちを集めて上映した。映像技術に関心を示したヤシュワントラオ・ナドカルニ、ナラヤーンラオ・デーヴァレなど数人の資産家が映画への出資を申し出たことで、パールケーは長編映画の製作に着手した[11][12]

題材 編集

 
ハリシュチャンドラと妻子の別れを描いたラヴィ・ヴァルマの絵画

パールケーは、マラーティー語の雑誌『Suvarnamala』で『Surabaichi Kahani』(訳:スラー酒の物語)という作品を掲載していた。この作品はアルコール依存症の悪影響を描いており、彼が最初に映画化の候補に挙げていた作品だった。しかし、ボンベイで複数のアメリカ映画を鑑賞した際、これらの映画に観客が求めるミステリーやロマンスの要素が含まれていることを認識して、考えを改めた。また、家族からは「中産階級や女性にアピールできるストーリー」や「インドの文化を強く盛り込んだストーリー」にすることを勧められた[13]

ヒンドゥー神話の複数の物語を検討した結果、パールケーの家族は映画の題材としてクリシュナ、サヴィトリとサティアヴァン英語版ハリシュチャンドラ英語版の物語を候補に挙げた[10]。当時、インドのマラーティー語演劇英語版ウルドゥー語演劇ではハリシュチャンドラを題材にした演劇が人気を集めていた[14]。また、パールケーは映画製作の夢を実現するため、マンガラ・ストラ英語版を除く妻の所持品を全て売り払ったことで友人や隣人から「ハリシュチャンドラ」と呼ばれていた[12]。これらの理由から、パールケーはハリシュチャンドラを映画の題材に決め、脚本の執筆を始めた[14]

キャスティング 編集

俳優、大工、洗濯屋、理髪師、塗装工を募集しています。酔っ払い、浮浪者、醜い容姿の二足歩行者は俳優として応募する必要はありません。ハンサムで身体的欠損がなければ、たとえ頭が悪くても構いません。アーティストは、良き俳優でなければなりません。したがって、不道徳な生活を送っている人、容姿やマナーが悪い人は応募する必要はありません。
新聞に掲載された募集広告[15]

パールケーは映画製作に必要なキャスト・スタッフを確保するために、インドゥ・プラカーシュ英語版など複数の新聞に募集広告を出した。オーディションには多くの人々が参加したものの、パールケーを満足させる応募者は現れず、彼は募集を打ち切り、劇団所属の俳優をスカウトする方針に切り替えた[15]

パドゥラン・ガダダル・セーン、ガジャナン・ヴァスデーヴ・セーンはパールケーにスカウトされ、パールケー・フィルムズ・カンパニーの最初の所属俳優となった[16]。パドゥランはナティヤカーラー劇団で女性役を演じた経験が豊富で、ガジャナンはウルドゥー語演劇を中心に活動しており[15]、2人とも月給40ルピーの条件で入社した。D・D・ダーブケー英語版はガジャナンの紹介で入社し、パールケーは彼の体格と性格を気に入り、ハリシュチャンドラ役に起用した[16]

募集広告を見た4人の娼婦がタマラティ役のオーディションに参加したが、パールケーは彼女たちの外見に満足できなかったため不合格にした後、募集広告の文言を「容姿端麗な女性のみ応募して下さい」と修正した[16]。その後、2人の娼婦がオーディションに参加したものの、2日後には脱落している。パールケーは新たにオーディションに参加した若い情婦をタマラティ役に起用したが、彼女は4日間リハーサルを受けたものの、5日目に主人が撮影所に押しかけて自宅に連れ戻されてしまう[16]。パールケーは再びタマラティ役の女性を探すことになり、グラント・ロード英語版の風俗街を歩き回ってタマラティ役に相応しい女性を探したが、現地では「高給を支払うか、目当ての女性と結婚するか選べ」と迫られたという[17]。ある日、グラント・ロードのレストランで休憩していたパールケーは[17]、そこで女性的な細身の顔と手を持つ青年クリシュナ・ハリ(後のアンナ・サルンケー)と出会った[18]。クリシュナ・ハリは月給10ルピーでレストランのコックやウェイターとして働いていたが[18][19]、パールケーから月給15ルピーの条件を提示され映画出演を快諾した[20][注釈 2]

パールケーは複数の少年を対象にロヒタシュヴァ英語版役のオーディションを行ったが、ロヒタシュヴァは森の中で暮らすシーンがあり、撮影に危険が伴うことから少年の両親が出演を拒否したためキャスティングは難航した。最終的にパールケーの息子バールチャンドラがロヒタシュヴァ役に起用され、彼がインド初の子役となった[16][22]

プリプロダクション 編集

 
ダーダーサーヘブ・パールケー

パールケーは映画製作に際し、「工場」と呼ばれていた自身の映画スタジオに40人のスタッフを雇用した[17][23]。当時、映画産業で働くことは忌避されていたため、パールケーはスタッフに対して、周囲の人には「ハリシュチャンドラ氏の経営する工場で働いている」と話すように勧めていた[24]。彼は複数の外国映画を鑑賞して脚本のノウハウを学び、『ハリシュチャンドラ王』の脚本を完成させた[25]。ヒロイン役が存在しないため、キャストは全員男性が起用された[26]。女性役の男性は役作りのためサリーを着用し、サーラスワティの家事手伝いをこなした[27]。起用された男性の大半は演技経験がなく、劇団に所属していた俳優は数人しかいなかったため、パールケーはキャストと数度にわたりリハーサルを行い、時には自らサリーを着て演技を実演した[12]。また、リハーサルスタジオには英字雑誌から切り取った様々な表情が描かれた写真が天井から吊るされ、キャストはそれを見ながら表情の訓練を行っていた[25]

同じころ、ヒンドゥー神話を題材とした演劇を扱っている劇団ラージャプルカール・ナタック・マンダリがボンベイを巡業で訪れており、パールケーは劇団の主宰者バーバージラーオ・ラネと面会して映画の構想について話し合った。映画の構想に賛同したラネはパールケーへの支援を申し入れ、劇団所属の俳優や衣装(王冠、かつら、剣、盾、弓矢)を提供した[28]。一方、パールケーの義兄は自身の主宰する2つの劇団(ベルガオカル・ナタック・マンダリ、サーラスワティ・ナタック・マンダリ)を通して支援を申し出たが、この時点でパールケーはキャスト・スタッフの人員が確保できていたため、申し出を辞退している[27]。パールケーは衣装や舞台美術のデザインに際して、ラヴィ・ヴァルマM・V・ドゥランダール英語版の絵画を参考にし、自ら宮殿・ジャングル・山・草原・洞窟を撮影用のカーテンに描いている。屋内用の撮影セットが完成した後、画家のラングネカールが新たに月給60ルピーで起用された[29]

パールケーは撮影、配給のためにイギリス、フランス、ドイツ、アメリカから必要な機材を輸入している。購入した機材はホートン・ブッチャー、テッサーパテなどのメーカーのネガフィルムポジフィルム、カメラ、照明器具、フィルム現像機、印刷機材、編集機材、ネガフィルムカット機材、映写機である。製作ではパールケーが監督、脚本、プロダクションデザイン、メイクアップ、編集、現像を担当した[30]。また、彼はナーシク出身の幼馴染トリンバク・B・テラング英語版をボンベイに呼び寄せた。当時、テラングはトリンバケシュワル・シヴァ寺院英語版で僧侶をしており、幼少期にパールケーからスチール写真を教えてもらっていた[28]。テラングと再会したパールケーはウィリアムソン・カメラの操作方法を彼に教え、撮影監督に起用した[31]

撮影 編集

『ハリシュチャンドラ王』のワンシーン

1912年のモンスーン期英語版を過ぎたころに撮影が開始された。ダダル英語版にあるパールケーのバンガローに撮影セット英語版が作られたほか、ボンベイ郊外の村ヴァンガニ英語版でロケーション撮影が予定されていた[29]。アンナ・サルンケーなどの女性役の俳優の一部は、女性を演じるために髭を剃ることに反発したが、これはヒンドゥー教において髭を剃る行為は、父親の死に際して行う宗教行為(アンティエスティ英語版)に当たるためである[12][32]。パールケーは俳優と彼らの父親を説得して髭を剃ることに同意させ、撮影地のヴァンガニに向かった[25][29]

先発してヴァンガニに到着していた撮影チームは寺院に宿泊し、パールケーが到着するまでの間、現地でリハーサルを行っていた。俳優たちが刀剣や盾を手にしてリハーサルする姿を目撃した村人たちは恐怖を感じ、村長英語版に「盗賊英語版が攻めてきた」と訴え、知らせを聞いた村長は警察長官に通報した[29]。撮影チームは映画の撮影をしていることを警察長官に伝えたが聞き入れられず、全員が逮捕されてしまった。ヴァンガニに到着して事態を知ったパールケーは村長と警察長官に面会し、撮影機材を見せながら事情を説明して、さらに実際に俳優たちに演技をさせて撮影風景を見せた。説明と実演を見た警察長官は、パールケーの「新事業」の内容を理解し、撮影チームの釈放を認めた[33]

ロヒタシュヴァ役のバールチャンドラは子役たちとの演技中、岩の上から転落して頭部を負傷した。パールケーはすぐに救急箱を取り出して手当てをしたが、バールチャンドラの意識は戻らないままだったため、スタッフから「ボンベイの病院で治療を受けさせ、意識が戻ってから撮影を再開したらどうか」と勧められた。撮影が残っていたのはロヒタシュヴァの葬儀シーンで、回復を待ってから撮影を再開すると製作スケジュールが遅れてコストが余計にかかってしまうという問題が浮上した。最終的にパールケーは、バールチャンドラの意識が戻る前に、そのままロヒタシュヴァの葬儀シーンを撮影することに決めた[12][33]。また、ハリシュチャンドラがタマラティ、ロヒタシュヴァと共にカーシーに向かう姿の撮影も行われたが[34]、実際にカーシーで撮影することは経済的に困難だったため、撮影チームをトリンバケシュワル英語版に派遣し、1か月間かけて該当シーンを撮影した。パールケーは日中に撮影したフィルムを夜間に現像したが、そのシーンに満足できなかった時は、翌日に撮影をやり直していた。撮影にかかった日数は6か月と27日間で、完成したフィルムの長さは3700フィート(1100メートル)、約4リールだった[33]

ヤジュナ英語版の煙の中から神が現れるシーンは、トリック撮影の手法を用いている。ネガフィルムは赤色のスペクトル感度英語版の低いものが使用されたため、撮影セットや衣装、俳優のメイクでは赤色の彩色は避けられた[30]。また、19世紀初頭の映画では本編に先立つ導入部があり、俳優について解説することが通例だった[35][36]。スタッフは『ハリシュチャンドラ王』でもパールケー夫妻がそれぞれ大工英語版、ナティ(Nati)として出演し、導入部で2人を解説することを提案した。パールケーはスタッフの提案に同意したが、サーラスワティは映画に出演することに難色を示したため、最終的にナティ役はパドゥラン・ガダダル・セーンが演じた[37]

公開 編集

プレミア上映 編集

『ハリシュチャンドラ王』は公開前の時点で批判の声が挙がっていたため、パールケーは上映館を確保するのに苦労したという。彼は選定した観客を対象にプレミア上映を行うことを考え、ボンベイのオリンピア劇場で1913年4月21日午後9時の上映時間を確保した[38]。観客として招待されたのはバールチャンドラ・バータヴデカル(医師・公務員)[39]R・G・バンダルカル英語版(学者)[40]、ジャスティス・ドナルド(少額訴訟裁判所英語版判事)[41]、新聞社の記者・代表といったボンベイの知識人や名士だった[42]。プレミア上映直前に娘マンダーキニーが肺炎にかかったため、パールケーの兄シヴラームパントは上映延期を勧めたが[38]、パールケーは招待状を送付し終わっていたことや、4月21日以外の上映日が確保できなかったことから予定通りプレミア上映を決行した[42]

バータヴデカルはパールケーの「斬新さ」を絶賛し、ドナルドは「ヨーロッパ人がヒンドゥー神話を理解するのに役立つ映画」と評価した。ケサリ紙英語版のアナント・ナラヤン・コールゲカルは「パールケーは、彼自身の技術を壮大な規模で世界中に見せつけた」[43]、ザ・タイムズ・オブ・インディアは映画で描かれたシーンは「シンプルに素晴らしく、このインド人の職人技を見ることができるのは本当に喜ばしいことだ」とそれぞれ批評している[44]。また、ギルガオンにあるコロネイション・シネマトグラフ&ヴァラエティ・ホール英語版の支配人ナーナーサーヘブ・チトレは映画の出来栄えに感激し、同劇場での上映を申し込んでいる[45]

一般上映 編集

1913年5月3日にコロネイション・シネマトグラフ&ヴァラエティ・ホールで一般上映され、上映前にはイレーネ・デルマルのダンス、マクレメンツの喜劇、アレクサンドロフのフットジャグリングなどのショーが上演された[22]。ショーと映画本編を合わせた上映時間は1時間30分で、上映回数は1日4回(午後6時、午後8時、午後10時、午後11時45分)で、ボンベイ・クロニクル英語版に掲載された広告には「入場料は通常料金の2倍になります」と書かれていた[45]。同劇場では1週間上映された後に12日間上映期間が延長され、5月17日には女性と子供を対象に入場料の半額サービスが実施された。当初、上映日は5月18日までの予定だったが、予想外に人気が集まったため、さらに上映期間が延長された[46]。映画は5月25日までの23日間上映され、6月28日からはアレクサンドラ劇場でも上映が開始された[6][22][46]。ボンベイ・クロニクルの1913年5月5日号では、「この素晴らしいドラマは、俳優たちによって見事に描写された」と批評し、映画のシーンを描写したパールケーの「芸術性と独創性」を絶賛している[44]

映画がボンベイでヒットしたというニュースはインド中に知れ渡り、各地で『ハリシュチャンドラ王』の上映を求める声が挙がった。しかし、当時は配給会社が存在しなかったため、パールケーは映写機やオペレーター、アシスタントを各地に派遣して上映を行う必要があった。スーラトのナワービー劇場で上映した際、パールケーは劇場所有者との間に利益の50%を支払うパートナーシップを仮契約した。同地で宣伝活動したものの、初上映回の利益は3ルピーという結果となり、劇場所有者はパールケーに対して「ショーの中止」「上映期間の延長」「入場料の値下げ」を要求したが、パールケーは要求を拒否した[46]。彼は代わりにグジャラート語で新たな広告を出し、「幅3/4インチ、長さ2マイルの写真5万7000枚を、たった1インド・アンナ英語版で見れる」と宣伝し、さらに町の交差点で俳優たちに映画のシーンを実演させた。これらの宣伝活動の結果、映画の収益は300ルピーに増加したという[23][47]。その後、映画はプネーコロンボ、ロンドン、ラングーンでも上映され、上映時にはマラーティー語ヒンディー語インタータイトルが付けられた[23][45][48]

レガシー 編集

 
『ハリシュチャンドラ王』を描いた記念切手

映画史家フィローゼ・ラングーンワーラーは『ハリシュチャンドラ王』について、「広範囲の様々な場所で多くの観客に感銘を与え、感情に訴えかけた。興行的な成功は承認の証となり、インド映画産業の礎を確立した」と批評した[22]。映画監督のゴーヴィンド・ニハラニは、映画は直射日光の当たる屋外と、白いモスリンで直射日光を遮り乱反射させた柔らかい太陽光の当たるスタジオで撮影されたと分析しており、色調のグラデーションやライティング、カメラワークを高く評価している。また、煙の中から神が現れたり消えたりするシーンは、「一発撮りで撮影された印象を受ける」と語っている[30]。映画批評家のサティーシュ・バハードゥル英語版は、映画のタイトルカードは英語とヒンディー語で表記されていたものの、「明白な形でマハーラーシュトリアンに関する何かが映画の中に含まれていた」と指摘している[11]。また、映画に登場する建築物や衣装のデザインについては、北インドよりもデカン高原に存在したマラーター王国ペーシュワーの影響を感じさせると指摘している。アシシュ・ラージャディヤークシャは著書『The Phalke Era: Conflict of Traditional Form and Modern Technology』の中で、観客を映画の中に引き込むために絵画、演劇、伝統芸術から物語様式を引用していると指摘している[49]インド国立フィルム・アーカイヴのディリップ・ラージプートは映画のシーンが高速に感じられることについて、『ハリシュチャンドラ王』で使用したプロジェクターは16-18コマ/秒だったのに対し、現代のプロジェクターは24コマ/秒であることが原因と分析している[2]

2009年にパレーシュ・モーカーシー英語版が『ハリシュチャンドラ王』の製作秘話を描いた『ハリシュチャンドラの工場』を製作し、同作は第56回国家映画賞英語版マラーティー語長編映画賞英語版を受賞している[50]。また、第82回アカデミー賞国際長編映画賞第62回英国アカデミー賞非英語作品賞第66回ゴールデングローブ賞外国語映画賞のインド代表作品に選出されたが、いずれも最終候補5作品にはノミネートされなかった[51][52][53]

フィルムの保管状況 編集

オリジナルのフィルムの長さは3700フィート(1100メートル=約4リール)であるが[33]、1917年にフィルムを牛車に乗せて上映館に運んでいた際、移動の際に生じる摩擦と屋外の高温に長時間さらされたことでフィルムが焼失している。このトラブルに際してパールケーは再撮影を行っており、この再撮影されたフィルムが現代に伝わっている『ハリシュチャンドラ王』のフィルムとされている[54][55]。一方、オリジナルのフィルムについては、最初と最後の部分のみがインド国立フィルム・アーカイヴに保管されている。複数の映画史家は、現存するフィルムは『ハリシュチャンドラ王』のものではなく、リメイク版の『Satyavadi Raja Harishchandra』のフィルムではないかと主張している[56][57]。インド国立フィルム・アーカイヴの手によってフィルムの複製作業が行われたが、この際に映像の左側が20%ほど消失している[58]。また、2002年1月8日にインド映画テレビ研究所で発生した火災によって、現存するフィルムは他の1700点の硝酸塩フィルムと共に焼失したと考えられている[59]。後にパールケーの子供たちが保管していたプライベートコレクションからフィルムの提供を受け[60][61]、インド国立フィルム・アーカイヴがフィルムの修復及びデジタル化を行っている[62]

「インド初の長編映画」の称号 編集

『ハリシュチャンドラ王』がインド初の長編映画なのかを巡っては、これまでに何度も論争が起きている。一部の映画史家は、ダーダーサーヘブ・トルネ英語版の『Shree Pundalik』がインド初の長編映画と主張している[63][64]。同作は1912年5月18日に公開されており『ハリシュチャンドラ王』よりも1年早かったが[4][65]、『Shree Pundalik』はマラーティー語演劇を撮影して映画作品として編集したものであり、イギリス人が撮影してロンドンで編集したという経緯から、多くの映画史家は『ハリシュチャンドラ王』をインド初の長編映画に位置付けている[66][67][68][69]インド政府も『ハリシュチャンドラ王』をインド初の長編映画として認定しており[70]、1969年にはインド初の長編映画を製作したパールケーの業績を称えて、インド映画界において最も権威ある映画賞に位置付けられるダーダーサーヘブ・パールケー賞を創設した[71][72]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ あるインタビューでは、パールケーは映画の鑑賞日を「1910年のクリスマス」と語っているが、『キリストの生涯』の広告がザ・タイムズ・オブ・インディアに掲載されたのは1911年4月14日号である[7]
  2. ^ 1917年の『Satyavadi Raja Harishchandra』でも同役を演じた[4]。また、『ランカー炎上』ではラーマとシーターを演じ、インドで初めて一人二役を演じた俳優となった[21]

出典 編集

  1. ^ 夏目深雪、松岡環、高倉嘉男『新たなるインド映画の世界』PICK UP PRESS、2021年、134頁。 
  2. ^ a b Raheja & Kothari 2004, p. 17.
  3. ^ Rajadhyaksha, Ashish (1993). “The Phalke Era: Conflict of Traditional Form and Modern Technology”. In Niranjana, Tejaswini. Interrogating Modernity: Culture and Colonialism in India. Seagull Books. pp. 76–80. ISBN 978-81-7046-109-8. オリジナルの19 January 2017時点におけるアーカイブ。. http://cscs.res.in/dataarchive/textfiles/textfile.2008-02-06.6750403959/file 
  4. ^ a b c d e f g Rajadhyaksha & Willemen 1998, p. 243.
  5. ^ a b Dharap, B. V. (1985). Indian Films. National Film Archive of India. pp. 35. OCLC 71801090 
  6. ^ a b Kosambi 2017, p. 320.
  7. ^ a b c d Watve 2012, pp. 24–26.
  8. ^ Watve 2012, p. 33.
  9. ^ Rajadhyaksha & Willemen 1998, p. 177.
  10. ^ a b c Watve 2012, p. 35.
  11. ^ a b c Gokulsing, K. Moti; Dissanayake, Wimal (2013). Routledge Handbook of Indian Cinemas. Routledge. pp. 73. ISBN 978-1-136-77284-9. https://books.google.com/books?id=djUFmlFbzFkC 
  12. ^ a b c d e “मुलाखत: धुंडिराज गोविंद फाळके [Interview: Dhundiraj Govind Phalke]” (Marathi). Kesari (Pune). (1913年8月19日) 
  13. ^ Watve 2012, p. 34.
  14. ^ a b Watve 2012, p. 36.
  15. ^ a b c Watve 2012, p. 37.
  16. ^ a b c d e Watve 2012, p. 38.
  17. ^ a b c Watve 2012, p. 39.
  18. ^ a b Bose 2006, p. 50.
  19. ^ Dwyer, Rachel (2006). Filming the Gods: Religion and Indian Cinema. Routledge. pp. 23. ISBN 978-0-203-08865-4. オリジナルの3 January 2014時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140103081710/http://books.google.com/books?id=8qjKJ0yk-gQC&pg=PA23 2018年6月16日閲覧。 
  20. ^ Schulze, Brigitte (2003). Humanist and Emotional Beginnings of a Nationalist Indian Cinema in Bombay: With Kracauer in the Footsteps of Phalke. Avinus. pp. 127. ISBN 978-3-930064-12-0. オリジナルの7 January 2014時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140107193914/http://books.google.com/books?id=DytnAAAAMAAJ 2018年6月17日閲覧。 
  21. ^ Majumdar, Neepa (2009). Wanted Cultured Ladies Only!: Female Stardom and Cinema in India, 1930s–1950s. University of Illinois Press. pp. 224. ISBN 978-0-252-09178-0. https://books.google.com/books?id=TdM2Ben3alIC&pg=PA224 
  22. ^ a b c d Gulzar, Nihalani & Chatterjee 2003, p. 29.
  23. ^ a b c Watve 2012, p. 52.
  24. ^ “'Raja Harishchandra': Indian Cinema Was Born This Day 105 Years Ago”. Mid Day. (2017年5月3日). オリジナルの2018年6月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180629211222/https://www.mid-day.com/articles/raja-harishchandra--indian-cinema-was-born-this-day-105-years-ago/16181165 2018年6月29日閲覧。 
  25. ^ a b c Watve 2012, p. 40.
  26. ^ Jha, Subhash K. (2001年12月15日). “10 pre-release big ones”. Rediff.com. 2012年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年6月8日閲覧。
  27. ^ a b “मुलाखत: सरस्वतीबाई धुंडिराज फाळके [Interview: Saraswatibai Dhundiraj Phalke]” (Marathi). Dhanurdhari (Nashik). (1946年2月16日) 
  28. ^ a b Watve 2012, p. 41.
  29. ^ a b c d Watve 2012, p. 42.
  30. ^ a b c Gulzar, Nihalani & Chatterjee 2003, p. 243.
  31. ^ Deocampo, Nick (19 September 2017). Early Cinema in Asia. Indiana University Press. p. 270. ISBN 978-0-253-03444-1. オリジナルの8 September 2020時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200908144809/https://books.google.com/books?id=0yFmDwAAQBAJ&pg=PT270 2019年3月17日閲覧。 
  32. ^ Parkes, Colin Murray; Laungani, Pittu; Young, William (2015). Death and Bereavement Across Cultures (2nd ed.). Taylor & Francis. pp. 66–67. ISBN 978-1-317-52092-4. オリジナルの30 June 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180630135158/https://books.google.com/books?id=EkHLCQAAQBAJ 2018年6月20日閲覧。 
  33. ^ a b c d Watve 2012, p. 43.
  34. ^ Mittal, J. P. (2006). History of Ancient India (A New Version): From 7300 BC to 4250 BC. 1. Atlantic Publishers & Dist. p. 168. ISBN 978-81-269-0615-4. オリジナルの15 December 2013時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131215100226/http://books.google.com/books?id=b7gOBW8oDFgC 2018年6月21日閲覧。 
  35. ^ Iyer, Natesan Sharda (2007). Musings on Indian Writing in English: Drama. 3. Sarup & Sons. pp. 189. ISBN 978-81-7625-801-2. オリジナルの30 June 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180630135158/https://books.google.com/books?id=e2_aFo5sAroC&pg=PA189 
  36. ^ Divedi, Mahavir Prasad (1995) (Hindi). Sahitya-Vichar. Bani Prakashan. p. 164. ISBN 978-81-7055-386-1. オリジナルの30 June 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180630135158/https://books.google.com/books?id=iZR0DhhoqfIC&pg=PA164 2018年6月21日閲覧。 
  37. ^ “पहिल्या भारतीय चित्रपटाच्या आठवणी [Memories of the first Indian movie]” (Marathi). Shreeyut. (1962年5月) 
  38. ^ a b Watve 2012, p. 46.
  39. ^ Gandhi, Mahatma (1960). Collected works. Publications Division, Ministry of Information and Broadcasting, Govt. of India. p. 442. オリジナルの8 September 2020時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200908144809/https://books.google.com/books?id=G9ImAQAAMAAJ&q=Bhalchandra+Bhatavdekar 2019年8月16日閲覧。 
  40. ^ “Ramkrishna Gopal Bhandarkar: Orientalist par excellence”. The Times of India. (2003年7月12日). オリジナルの2019年6月9日時点におけるアーカイブ。. https://archive.today/20190609073054/https://timesofindia.indiatimes.com/Ramkrishna-Gopal-Bhandarkar-orientalist-par-excellence/articleshow/72430.cms 2019年3月17日閲覧。 
  41. ^ Rangoonwalla, Firoze (1975). 75 years of Indian cinema. Indian Book Co.. p. 34. オリジナルの8 September 2020時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200908144812/https://books.google.com/books?id=swQwAAAAMAAJ&q=donald 2019年8月16日閲覧。 
  42. ^ a b Bhingarde, Santosh (2012年4月21日). “भारतातील पहिल्या "प्रीमियर"चे आज शताब्दी वर्षात पदार्पण [100 years for India's first premiere show]” (Marathi). Sakal. オリジナルの2012年4月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120422054629/http://esakal.com/esakal/20120421/5174839222123331331.htm 2018年6月21日閲覧。 
  43. ^ Watve 2012, p. 47.
  44. ^ a b Watve 2012, pp. 183–184.
  45. ^ a b c Watve 2012, p. 48.
  46. ^ a b c Watve 2012, p. 50.
  47. ^ Dasgupta, Priyanka (2016年9月28日). “Role reversal: Street play to promote cinema”. The Times of India (Kolkata). オリジナルの2018年6月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180630135158/https://timesofindia.indiatimes.com/city/kolkata/Role-reversal-Street-play-to-promote-cinema/articleshow/54568023.cms 2018年6月29日閲覧。 
  48. ^ Rajadhyaksha & Willemen 1998, p. 18.
  49. ^ Nelmes, Jill (2003). An Introduction to Film Studies. Psychology Press. pp. 367. ISBN 978-0-415-26268-2. オリジナルの6 July 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180706120307/https://books.google.com/books?id=vb_1ma9DKH0C&pg=PA367 
  50. ^ 56th National Film Awards”. Directorate of Film Festivals. pp. 82–83. 2019年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月9日閲覧。
  51. ^ “UTV to release Harishchandrachi Factory”. Hindustan Times. Indo-Asian News Service (New Delhi). (2009年12月3日). オリジナルの2014年7月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140714212945/http://www.hindustantimes.com/News-Feed/Entertainment/UTV-to-release-Harishchandrachi-Factory/Article1-482593.aspx 2012年9月24日閲覧。 
  52. ^ Jha, Subhash K. (2009年12月18日). “Mokashi lives American dream”. The Times of India. The Times Group. オリジナルの2013年1月3日時点におけるアーカイブ。. https://archive.today/20130103081356/http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2009-12-18/news-interviews/28107568_1_paresh-mokashi-marathi-film-harishchandrachi-factory 2012年9月24日閲覧。 
  53. ^ BAFTA Screenings Archive”. British Academy of Film and Television Arts. 2013年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月24日閲覧。
  54. ^ Nitrate Fires: Reasons for the loss of India's cinematic heritage”. Film Heritage Foundation (2014年8月28日). 2017年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧。
  55. ^ Shrivastava, Vipra (2015年5月4日). “10 times when fire caused damage to movie sets”. India Today. オリジナルの2018年6月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180629211237/https://www.indiatoday.in/movies/bollywood/story/fire-on-movie-sets-fire-tragedies-fire-fighters-day-abcd2-mother-india-comedy-nights-with-kapil-devdas-black-dabangg-2-main-tera-hero-raja-harishchandra-251378-2015-05-04 2018年6月29日閲覧。 
  56. ^ Raja Harishchandra”. National Film Archive of India. 2017年11月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧。
  57. ^ Chakravarty, Ipsita (2012年5月4日). “Our no-show”. The Indian Express. オリジナルの2018年6月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180629211402/https://indianexpress.com/article/opinion/columns/our-noshow/ 2018年6月29日閲覧。 
  58. ^ Rajadhyaksha, Ashish (2017年2月7日). “The Film Fragment: Survivals in Indian Silent Film”. Museum of Modern Art. 2018年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧。
  59. ^ Katakam, Anupama (18 January 2003). “Fire at FTII”. Frontline (The Hindu Group) 20 (2). オリジナルの30 June 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180630135158/https://www.frontline.in/static/html/fl2002/stories/20030131008813300.htm 2018年6月29日閲覧。. 
  60. ^ Paul, Cithara (2009年2月19日). “India's first talkie 'silent forever'; All Alam-Ara prints lost, Govt clueless”. The Telegraph (Calcutta) (New Delhi). オリジナルの2009年2月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090226073342/http://www.telegraphindia.com/1090219/jsp/nation/story_10558194.jsp 2018年6月29日閲覧。 
  61. ^ Chaudhuri, Mohini (2015年6月20日). “Saving India's cinema, one film at a time”. Forbes India. 2017年11月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧。
  62. ^ List of Digitized and Restored Films”. National Film Archive of India. pp. 10, 18. 2018年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧。
  63. ^ Goldsmith, Melissa U. D.; Willson, Paige A.; Fonseca, Anthony J. (2016). The Encyclopedia of Musicians and Bands on Film. Rowman & Littlefield Publishers. pp. 25. ISBN 978-1-4422-6987-3. オリジナルの6 July 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180706120307/https://books.google.com/books?id=_TP3DAAAQBAJ&pg=PR25 
  64. ^ Chakravarty, Sumita S. (2011). National Identity in Indian Popular Cinema, 1947–1987. University of Texas Press. pp. 35. ISBN 978-0-292-78985-2. オリジナルの30 June 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180630135158/https://books.google.com/books?id=l8T0uwJtMxkC&pg=PA35 
  65. ^ Mehta, D. S. (1979). Mass Communication and Journalism in India. Allied Publishers. pp. 54. ISBN 978-81-7023-353-4. オリジナルの6 July 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180706120307/https://books.google.com/books?id=xrEIBAAAQBAJ&pg=PA54 
  66. ^ Sengupta, Mekhala (2015). Kanan Devi: The First Superstar of Indian Cinema. India: HarperCollins. pp. 8. ISBN 978-93-5136-537-2. オリジナルの30 June 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180630135158/https://books.google.com/books?id=FHfDCgAAQBAJ&pg=PT8 
  67. ^ Damle, Manjiri (2012年4月21日). “Torne's 'Pundlik' came first, but missed honour”. The Times of India (Pune). オリジナルの2013年5月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130530104400/http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2012-04-21/pune/31378416_1_english-films-subtitles-bourne 2012年7月17日閲覧。 
  68. ^ Mishra, Garima (2012年5月3日). “Bid to get Pundalik recognition as first Indian feature film”. The Indian Express. オリジナルの2018年6月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180629093126/http://archive.indianexpress.com/news/bid-to-get-pundalik-recognition-as-first-indian-feature-film/944090/ 2013年5月3日閲覧。 
  69. ^ Srampickal, Jacob (1998). Communication and media in India today. Media House. pp. 68. ISBN 978-81-7495-039-0. オリジナルの30 June 2018時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180630135158/https://books.google.com/books?id=HH9NQAW0tWYC&pg=PA68 2018年6月27日閲覧。 
  70. ^ Dada Saheb Phalke Award Overview”. Directorate of Film Festivals. 2018年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧。
  71. ^ “Vinod Khanna honoured with Dadasaheb Phalke Award”. The Indian Express (New Delhi). (2018年4月13日). オリジナルの2018年4月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180428055903/http://indianexpress.com/article/entertainment/bollywood/vinod-khanna-dadasaheb-phalke-national-film-award-5135900/ 2018年6月29日閲覧。 
  72. ^ 17th National Film Awards”. Directorate of Film Festivals. pp. 38–42. 2018年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月3日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集