ヒエロニムス・フランケン1世

ヒエロニムス・フランケン1世(Hieronymus Francken I、1540年 - 1610年5月1日)は、フランドル生まれの画家。フランスで、宮廷画家としても働き、風俗画を描いたことで知られている。

ヒエロニムス・フランケン
Hieronymus Francken I
自画像(1583年頃)
誕生日 1540年
出生地 ヘーレンタルス(Herentals)
死没年 1616年10月2日
死没地 アントウェルペン
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ヒエロニムス・フランケン1世作、庭園を散歩する宮廷の人々

略歴 編集

現在のアントウェルペン州のヘーレンタルス(Herentals)で、あまり有名でない画家のニコラース・フランケン(Nicolaas Francken)の息子として生まれた[1]。弟に画家になったフランス・フランケン1世(Frans Francken I: c.1542-1616)とアンブロシウス・フランケン1世(Ambrosius Francken I: 1544-1618)らがいる。甥の画家ヒエロニムス・フランケン2世(Hieronymus Francken II: 1611-1671)と区別するために「年長のヒエロニムス・フランケン(Hieronymus Francken de Oudere)」とも呼ばれる。

父親らとヘーレンタルスからアントウェルペンに移り、アントウェルペンの画家フランス・フロリス(1519/1520-1570)の弟子になったとされている。1565年の作品にヴェネツィアのカーニバルを描いた作品があり、アントウェルペンでの修行の後、イタリアに旅した可能性があるが、確かではない[2]

1566年から数年間、フランスで働き、フォンテーヌブロー宮殿の装飾に参加した画家の一人であった[3]。1571年にフランス・フロリスが亡くなって未完で残された絵画「東方三博士の礼拝」を完成させるために一時、アントウェルペンに戻った。1574年にもアントウェルペンで活動した記録がある。

1578年から亡くなるまではパリフォンテーヌブローで暮らし、1594年にフランス王室の宮廷画家に任じられた。1585年頃、フランスに滞在したオランダの画家、アブラハム・ブルーマールト(1566-1651)を短期間、指導した[4]

娘のイザベラ・フランケン(Isabella Francken)も画家になり17世紀の初めにいくつかの作品をのこしている[5]

歴史画や肖像画も描いたが、ダンスを楽しむ人々や、宮廷の人々を描いた風俗画で知られている。

作品 編集

ヴァニタス - 皇帝カール5世に説教するドミニコ会士の想像画
ヴェネツィアのカーニバル(c.1565)、ズエルモント・ルートヴィヒ美術館
宴の情景、愛と情欲の寓意画

脚注 編集

  1. ^ Biografische gegevens bij het RKD-Nederlands Instituut voor Kunstgeschiedenis
  2. ^ Hieronymus Francken I bij Oxford Art Online
  3. ^ Ieroon Vrancks vermeld door Van Mander in de biografie van Cornelis Ketel
  4. ^ Abraham Bloemaert in Karel van Mander s Schilderboeck, 1604
  5. ^ Isabella Francken, The Road to Calvary door Bonhams

参考文献 編集

  • Cécile Scailliérez, « Un Anversois à Paris, Jérôme Francken », dans Colette Nativel (dir.), Henri IV : Art et pouvoir, Tours, Presses universitaires François-Rabelais, coll. « Renaissance », 2016 (ISBN 978-2-86906-542-0, lire en ligne , p. 273–284.