ピエルルイジ・マルティニ

ピエルルイジ・マルティニPierluigi Martini, 1961年4月23日 - )は、イタリア出身のレーシングドライバーで元F1ドライバー。フジテレビの中継における表記は「ピエロルイジ・マルティニ[1]

ピエルルイジ・マルティニ
ピエルルイジ・マルティニ(2016年)
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
出身地 同・ルーゴ
生年月日 (1961-04-23) 1961年4月23日(63歳)
F1での経歴
活動時期 1984-1985,1988-1995
所属チーム '84 トールマン
'85,'88-'91,'93-'95 ミナルディ
'92 スクーデリア・イタリア
出走回数 124 (119スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 18
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1984年イタリアGP
最終戦 1995年ドイツGP
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経歴 編集

ジュニア時代 編集

イタリアのフォーミュラ・フィアット・アバルトでチャンピオンを獲得する。

フォーミュラ3 編集

1981年、イタリアンフォーミュラの名門トリヴェラート・レーシングよりイタリアF3選手権にステップアップ。1982年にパヴェーシへ移籍すると3勝を挙げランキング3位に浮上し、1983年にヨーロッパF3選手権で4勝を挙げ、ジョン・ニールセンエマニュエル・ピロとの争いを制してシリーズチャンピオンを獲得。ヨーロッパF2選手権へのスポット参戦も経験した。この年のヨーロッパF3チャンピオン獲得により、シーズンオフにF1ブラバムのオーナーであるバーニー・エクレストンから声がかかり、プライベートテストにマウロ・バルディクリスチャン・ダナーロベルト・ゲレーロと共に呼ばれBT52Bをドライブした[2]。翌1984年に向けてディフェンディングチャンピオンでありNo.1ドライバーのネルソン・ピケをサポートするブラバムのNo.2シートに座る候補としてアイルトン・セナやベテランのジョン・ワトソンと並んで報じられるが、ブラバムのメインスポンサーであるイタリア企業パルマラットが最終的にテオ・ファビの起用を希望し[3]、この時のF1レギュラーシート獲得は成らなかった。

フォーミュラ2 / WEC 編集

ヨーロッパF3選手権を主戦場としていた1983年シーズン途中に、おじのジャンカルロ・マルティニ英語版の友人であるジャンカルロ・ミナルディ[4]のチーム、ミナルディと契約し、ヨーロッパF2選手権にスポット参戦、デビュー戦で2位表彰台を獲得した。同時期にはWECにもランチア・LC2で参戦し、ベッペ・ガビアーニとのコンビでシルバーストン1000kmを7位入賞、マウロ・バルディとのコンビでブランズ・ハッチ1000kmを7位入賞、イモラ1000kmで9位などの結果を出した。

1984年9月、F1第14戦イタリアGPにて、アイルトン・セナの契約トラブルによる出場停止とジョニー・チェコットの負傷欠場のため、トールマンと契約しF1へスポット参戦したが、予選不通過となり公式記録上のデビューは成らなかった[5]

フォーミュラ1参戦 (第1期:1985年) 編集

 
1985年ヨーロッパGP

1985年、1カー体勢でF1にステップアップすることとなった「ミナルディ」から、F1レギュラー参戦を果たす。これは当初予定されたアレッサンドロ・ナニーニスーパーライセンスが認定されなかったことで、前年F1予選に参加しスーパーライセンス所持者となっていたマルティニにチャンスが巡ってきたものだった。しかし、F1では実質ルーキーであり、またミナルディもF1参戦初年度で競争力・信頼性どちらも欠けたマシンとなったM185でのデビューシーズンは、完走3回・最高成績8位(オーストラリアGPで記録・完走8台の最下位)という結果に終わる。

1986年、ミナルディは2台体制での参戦となったが、エース格にマールボロスポンサーを持つアンドレア・デ・チェザリスを起用。もう1台にはFIAよりスーパーライセンスの発給が認められたナニーニの起用が決定し、これによりF1シートを失ったマルティニは国際F3000選手権に参戦カテゴリーを移し、キャリアの再構築を計ることとなった。

国際F3000選手権参戦 (1986年-1988年) 編集

1986年はF3時代も所属したパヴェーシ・レーシングより国際F3000選手権に参戦、チームメイトはルイス・ペレス=サラとなった。マルティニは第5戦イモラで初優勝すると次戦ムジェロも連勝し、イヴァン・カペリ、エマニュエル・ピロとのチャンピオン争いに加わる。しかし最終戦ハラマでチームのレギュレーション確認ミスにより失格処分を受けるなど不運もあり、シリーズランキングは3位となった。

1987年もパヴェーシに残留し、ローラワークスへ移籍したサラに代わってパオロ・バリッラがチームメイトとなった。開幕戦で5位に入賞後チームがマシンセッティングの方向性を誤り、第6戦エンナ・ペルグーサで2位表彰台を得た以外は苦戦続きのシーズンとなった。

1988年にファースト・レーシングへ移籍。ここで競争力をとり戻し、第3戦で3位、第6戦で優勝と、前年加わることが出来なかったランキング上位争いに復帰。シーズン途中にミナルディからF1参戦復帰後もF3000への参戦を継続し、ランキング4位となった。

フォーミュラ1参戦 (第2期:1988年-1995年) 編集

1988年、ミナルディでのレギュラー2年目を迎えていたエイドリアン・カンポスが予選落ちを繰り返し、成績不振により解雇される[6]。その後任としてマルティニは第6戦デトロイトGPよりミナルディのレギュラーシートを得てF1に復帰する。その初戦で完走9台となった決勝レースを6位で完走・入賞し、自身とチームにとって初のF1ポイント獲得を果たした。

1989年はミナルディに残留し開幕からレギュラー参戦、第8戦イギリスGPでは5位に入り、チームメイトのルイス・ペレス=サラも6位に入りチーム初のダブル入賞を果たした。このレースは、入賞しなければチームが予備予選組に回されるという瀬戸際の状態であり、土壇場でのダブル入賞にピットはまるで優勝したかのような騒ぎだったという。シーズン終盤も速さを見せ、第13戦ポルトガルGPではラップリーダーを記録し(最終的には5位)、最終戦のオーストラリアGPでは予選3位を獲得した(決勝でも6位に入賞)。同年は、回数に限ればマルティニのベスト記録となる、計3度の入賞を記録した。

同年の逸話として、戦闘力の低下したロータスで10位前後を走る機会が多かった元ワールドチャンピオンのネルソン・ピケがヤングドライバーについて語る機会があり、「トップ集団で争うより、経験の浅い若手が多い中団での戦いの方が大変なんだよ。でも、トップ集団にいた時には気付けなかった若い才能を間近に見る機会は増えた。ピエルルイジ・マルティニやジャン・アレジに秘められた新しい力に私が気付いたのは、回りで見ている他の連中(ジャーナリスト)よりも早かったはずだ。それは興味深い出来事だったね。」と名前を挙げ、その才能を評価された[7]フェラーリからも高評価を受け、将来に関する交渉をしてオプション契約を結んだ。この年のフェラーリはイタリアの若手とオプション契約を数多く結ぶ手法を取っており、マルティニの他アレックス・カフィニコラ・ラリーニジャンニ・モルビデリともオプション契約を結んでいた。しかし翌1990年秋にフラビオ・ブリアトーレとの間で行われたアレッサンドロ・ナニーニの契約譲渡交渉(のちに破談)や、ジャン・アレジ獲得の際に多額の移籍金が必要となり、それ以前に存在したマルティニらのオプション契約はすべて解消された[8]

1990年は、開幕戦のアメリカGP予選で一時トップタイムを記録しあわやポールポジションかと思われたが、マクラーレンゲルハルト・ベルガーに終了間際で逆転されポールポジション獲得を惜しくも逃した。それでも予選2位タイムであり、自身とチームにとって初のフロントローを獲得した(ミナルディのマシンがF1においてフロントローを獲得した唯一の記録)。ただし、この年はピレリタイヤの特性により予選で速さを見せるものの決勝レースでのリタイヤも多く、3年ぶりにノーポイントとなった。

1991年、ミナルディは門外不出と思われていたフェラーリV12エンジンを搭載。サバイバルレースとなった第3戦サンマリノGPでは、キャリア最高位となる4位に入賞。終盤の第13戦ポルトガルGPでも、再度4位でポイントを獲得する[9]

第15戦日本GPでは、予選でシーズンベストとなる7番グリッドを獲得。チームメイトのジャンニ・モルビデリも8番グリッドにつけ、四強の一角でありこの年1勝も記録していたベネトン勢を、2人揃って上回った。決勝でも、マルティニは終盤まで5位を走行。この年計6ポイントを獲得し、自身最高となるランク11位となり、コンストラクターズ部門でも、ミナルディチーム最高となるランキング7位を記録した[10]

1992年スクーデリア・イタリアに移籍。1984年のスポット参戦を除けば、唯一ミナルディ以外のチームから参戦した年となった。チームは同年フェラーリV12エンジンの供給契約を獲得しており、マルティニは2年続けてフェラーリエンジン搭載車に乗ることになった。ダラーラ製のBMS192を駆り前半戦に2度の入賞を見せたが、サスペンション設計及びセッティングに致命的な欠陥を持つマシンだったため、コーナリング性能が劣悪だった[11]。チームメイトのJ.J.レートと共に10位以下を争うことが多く、チームはダラーラとの提携をこの年限りで解消するに至った。翌年のチーム再興に向けてチームオーナーのジュゼッペ・ルッキーニ英語版はシャシー製造の依頼先をローラ社へ変更することと、ドライバーもフェラーリ社長のルカ・ディ・モンテゼーモロの後押しもありミケーレ・アルボレートへとオファーを出しており[12]、マルティニはシートは失ってしまう。

1993年開幕時にはレギュラーシートが無いF1浪人となっていたが、スポンサーマネー額の問題でシーズン前半のみの契約だったファブリツィオ・バルバッツァの契約期間が満了となり、その後任としてミナルディに復帰。ハンガリーGPでは予選7位を記録。チームメイトのクリスチャン・フィッティパルディど互角の速さを見せ、翌年のレギュラーシート契約を結ぶ。

 
1995年イギリスGP

1994年はミナルディとスクーデリア・イタリアが経営合併しての参戦となり、チームメイトはミケーレ・アルボレートとなった。シーズン序盤からアルボレートを予選で破る好走を見せ、前半戦に2度の入賞を記録。アルボレートの最高位が6位、1ポイント獲得だったのに対し、マルティニは最高位5位を2度記録する4ポイントを獲得し、チームを牽引した[13]

1995年もミナルディに残留、チームメイトは元F3000チャンピオンのルカ・バドエルとのコンビとなった。同年のマシンM195はコンサバティブな手堅い設計だったが、エンジンが非力なフォード・ED V8搭載だったことでストレートでの速さを欠いていた中で、最高位が8位だったバドエルを上回る7位完走を2回記録し着実に結果を残した。しかし、ミナルディは鉄鋼業により資金力を持っていたスクーデリア・イタリアとの提携解消により運営資金が枯渇しており、第9戦ドイツGP英語版への参戦を最後にマルティニとの契約を打ち切り、新たなスポンサー資金を持ち込んだペドロ・ラミーと契約。シートを失った。

以後もグランプリ復帰を目指し、1996年に向けてミナルディとの間でレギュラーシート交渉は継続され、ドライバー候補にもなっていたが、チームはドライバーの実績よりもスポンサー資金の多さを優先させる状況だったため、ラミーのほかタルソ・マルケス井上隆智穂と交渉。そこにマールボロたばこからの推薦を受けるバドエルと新人ジャンカルロ・フィジケラもシート争いに加わると、マルティニのシート獲得は断念され、F1参戦機会は以後訪れなかった[14]

スポーツカーレース 編集

その後はFIA GT選手権アメリカ・ル・マン・シリーズ(ALMS)に参戦。また、1999年のル・マン24時間レースで総合優勝を果たした。

2000年のセブリング12時間レースにローラ・B2K/10で参戦後、ドライバーとしての参戦を休止。

2006年のグランプリ・マスターズにチーム・グローバルのレイナード・02iで参戦したのが最後のレースとなっている。

日本における異名 編集

フジテレビでF1実況を担当していた古舘伊知郎は、マルティニが自身のキャリアの殆どをミナルディで過ごした事から「ミスター・ミナルディ」、マルティニの容姿とチームにおける立場から「プチ・プロスト」などと呼んだ。

エピソード 編集

  • F1グランプリにエントリーした124戦中107戦がミナルディからであり、古館がTV中継内で形容した「ミスター・ミナルディ」は広く知られるようになった。また1992年に在籍したスクーデリア・イタリアも、その2年後にはミナルディと合併している。
  • F1の決勝出走した119レースでの最高位は4位(2回)で、一度も表彰台(3位以内)には立てなかった。これは2014年ドイツグランプリエイドリアン・スーティルに更新されるまで、一度も表彰台に登壇したことのないドライバーの最多出走記録であった。
  • 陽気な性格で、多くの友人を持つ。
  • 1990年日本グランプリのとき、自動車で行こうというチーム・マネージャー佐々木正に対して「F1には弱者の席は用意されていない」と主張し、一人で近鉄電車鈴鹿サーキットまで行った。
  • 1994年開幕前のムジェロ合同テストにミナルディが参加した際、マシンのテストドライブだけでなくマシンを輸送するトランスポーターの運転手も担当しファクトリーとサーキットを往復していた。
  • プロフィール上では身長は165cmという事であったが、実際には160cmにも満たないという表記もあった。
  • 1991年に結婚している。
  • 1978年イタリアグランプリの事故により亡くなったロニー・ピーターソンを尊敬し、自身のヘルメットの黄色いカラーリングはピーターソンのヘルメットのカラーリングから採った。ピーターソンを敬愛して自身のヘルメットカラーにその思いを投影していたのはミケーレ・アルボレートと共通しており、この2人は1994年にミナルディでチームメイトとしてコンビを組むというめぐり合わせにもなった。
  • 引退後は投資家として成功している。
  • ティレル・P34の熱烈なファンであり、自身の憧れであるロニー・ピーターソンが使用していたシャシーナンバー「P34/2」と「P34/5」の2台を所有している。また、サーキットイベントなどで行われるデモンストレーション・ランのドライバーを、自ら務めることもある[15][16]

レース戦績 編集

ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権 編集

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1982年 ルチアーノ・バヴェーシ・レーシング ラルト RT3 アルファロメオ MUG
DNQ
NÜR DON ZOL MAG ÖST ZAN SIL MNZ
Ret
PER
8
LAC KNU NOG JAR KAS NC 0
1983年 VLL
3
NÜR
C
ZOL
Ret
MAG
Ret
ÖST
4
LAC SIL
Ret
MNZ
5
MIS
2
ZAN
2
KNU
4
NOG
1
JAR
1
IMO
1
DON
2
CET
1
1位 66

国際F3000選手権 編集

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1986年 パヴェーシ・コルセ ラルト・RB20 コスワース DFV SIL
19
VLL
10
PAU
DNQ
SPA
11
2位 36
ラルト・RT20 IMO
1
MUG
1
PER
2
ÖST
7
BIR
2
BUG
Ret
JAR
1
1987年 パヴェーシ・レーシング ラルト・RT21 SIL
5
VLL
Ret
SPA
Ret
PAU
7
DON
8
BRH
20
BIR
Ret
IMO
Ret
BUG
7
11位 8
ラルト・RT20 PER
2
JAR
9
1988年 ファースト・レーシング マーチ・88B ジャッド JER
8
VLL
11
PAU
3
SIL
10
MNZ
Ret
PER
1
BRH
2
BIR
3
BUG ZOL
Ret
DIJ
10
4位 23
  •  : ハーフポイント。レース周回数が75%未満で中断終了したため、得点が半分となる。

F1 編集

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1984年 トールマン TG184 BRA RSA BEL SMR FRA MON CAN DET DAL GBR GER AUT NED ITA
DNQ
EUR POR NC
(35位)
0
1985年 ミナルディ M185 BRA
Ret
POR
Ret
SMR
Ret
MON
DNQ
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
11
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
Ret
BEL
12
EUR
Ret
RSA
Ret
AUS
8
NC
(24位)
0
1988年 M188 BRA SMR MON MEX CAN DET
6
FRA
15
GBR
15
GER
DNQ
HUN
Ret
BEL
DNQ
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
Ret
JPN
13
AUS
7
17位 1
1989年 M188B BRA
Ret
SMR
Ret
MON
Ret
15位 5
M189 MEX
Ret
USA
Ret
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
5
GER
9
HUN
Ret
BEL
9
ITA
7
POR
5
ESP
Ret
JPN AUS
6
1990年 USA
7
BRA
9
NC
(21位)
0
M190 SMR
DNS
MON
Ret
CAN
Ret
MEX
12
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
15
ITA
Ret
POR
11
ESP
Ret
JPN
8
AUS
9
1991年 M191 USA
9
BRA
Ret
SMR
4
MON
12
CAN
7
MEX
Ret
FRA
9
GBR
9
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
12
ITA
Ret
POR
4
ESP
13
JPN
Ret
AUS
Ret
11位 6
1992年 ダラーラスクーデリア・イタリア 192 RSA
Ret
MEX
Ret
BRA
Ret
ESP
6
SMR
6
MON
Ret
CAN
8
FRA
10
GBR
15
GER
11
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
8
POR
Ret
JPN
10
AUS
Ret
16位 2
1993年 ミナルディ M193 RSA BRA EUR SMR ESP MON CAN FRA GBR
Ret
GER
14
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
7
POR
8
JPN
10
AUS
Ret
NC
(23位)
0
1994年 M193B BRA
8
PAC
Ret
SMR
Ret
MON
Ret
ESP
5
21位 4
M194 CAN
9
FRA
5
GBR
10
GER
Ret
HUN
Ret
BEL
8
ITA
Ret
POR
12
EUR
15
JPN
Ret
AUS
9
1995年 M195 BRA
Ret
ARG
Ret
SMR
12
ESP
14
MON
7
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR
7
GER
Ret
HUN BEL ITA POR EUR PAC JPN AUS NC
(19位)
0

(key)

ル・マン24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1984年   スクーデリア・ジョリー・クラブ   グザヴィエ・ラペイル
  ベッペ・ガビアーニ
ランチア・LC2 C1 117 DNF DNF
1996年   ヨースト・レーシング   ミケーレ・アルボレート
  ディディアー・セイス
ポルシェ・WSC95 LMP1 300 DNF DNF
1997年   BMSスクーデリア・イタリア   クリスチャン・ペスカトリ
  アントニオ・ヘルマン
ポルシェ・911 GT1 GT1 317 8位 4位
1998年   チームBMWモータースポーツ   ヨアヒム・ヴィンケルホック
  ジョニー・チェコット
BMW・V12 LM LMP1 43 DNF DNF
1999年   ヨアヒム・ヴィンケルホック
  ヤニック・ダルマス
BMW・V12 LMR LMP 365 1位 1位

脚注 編集

  1. ^ 中継内でのテロップでは空白を入れて「ピエロ ルイジ マルティニ」表記だった他、スターティンググリッド紹介時のテロップでの略称表記は「P-L・マルティニ」であった。
  2. ^ SENNA TESTED FOR BRABHAM-BMW GrandPrix247 2019年3月3日
  3. ^ SUTTON's DIARY No.2未定のブラバムの事情 オートスポーツ No.394 23頁 三栄書房 1984年5月1日発行
  4. ^ Rainer Nyberg, Mattijs Diepraam (2001年). “Minardi's F1 debut was with a Ferrari!” (英語). 2009年12月26日閲覧。
  5. ^ F1公式記録では決勝レースへの出走が公式デビュー扱いとなる。
  6. ^ カンポスの新しい人生 グランプリ・エクスプレス '88カナダGP号 28頁 1988年7月2日発行
  7. ^ ネルソン・ピケ さらなる頂点を見つめて グランプリ・エクスプレス '90フランスGP号 9-11頁 1990年7月28日発行
  8. ^ GPX1990年ポルトガルGP号 30頁 1990年10月13日発行
  9. ^ このグランプリでは、3位を走っていたのが本家フェラーリのジャン・アレジであり、そのすぐ背後まで追い詰めるシーンも見られた。
  10. ^ ただしこの年の高額なフェラーリエンジンの使用料は、後々までミナルディを圧迫することとなる
  11. ^ スクーデリアイタリア F1コンストラクターズ・スタイルブック 74-79頁 ソニーマガジンズ 1992年10月25日発行
  12. ^ ついに消えゆくF1界最後のプロフェッショナル ミケーレ・アルボレートインタビュー F1グランプリ特集 vol.069 72-77頁 1995年3月16日発行
  13. ^ Minardi M194 チーム合併も活動継続以上の効果はなかったか 完全保存版・AS+F 1994F1総集編 84-85頁 三栄書房 1994年12月14日発行
  14. ^ '96エントリーリスト発表 参戦チームは11に F1グランプリ特集 vol.79 16-17頁 ソニー・マガジンズ 1996年1月16日
  15. ^ 『サンエイムック GP Car Story vol.26 ティレルP34・フォード』 (三栄書房)86 - 95頁。
  16. ^ F1ドライバーになり、P34を所有。マルティニは”夢”を2度叶えた! en:Motorsport.com

関連項目 編集

タイトル
先代
オスカー・ララウリ
ヨーロッパF3選手権 チャンピオン
1983年
次代
イヴァン・カペリ
先代
ローレン・アイエロ
アラン・マクニッシュ
ステファン・オルテリ
ル・マン24時間勝者
1999 with:
ヤニック・ダルマス
ヨアヒム・ヴィンケルホック
次代
フランク・ビエラ
トム・クリステンセン
エマニュエル・ピロ