フセヴォロド1世/ ヴセヴォロド1世Всеволод I Ярославич, 1030年 - 1093年4月13日)は、キエフ大公(在位:1076年 - 1077年1078年 - 1093年)。

フセヴォロド1世
Всеволод I Ярославич
キエフ大公
在位 1076年 - 1077年1078年 - 1093年

出生 1030年
死去 1093年4月13日
配偶者 コンスタンティノス9世モノマコスの娘
  アンナ・ポロヴェツカヤ
子女 ウラジーミル2世モノマフ
アンナ
ロスチスラフ
エウプラキヤ
エカテリーナ
マリヤ
家名 リューリク家
王朝 リューリク朝
父親 キエフ大公ヤロスラフ1世
母親 インゲゲルド・アヴ・スヴェーリエ
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フセヴォロド1世のキエフ宮廷(画:イヴァン・ビリビン

経歴 編集

父はヤロスラフ1世、祖父はウラジーミル1世。息子にウラジーミル2世モノマフがいる。二人の兄イジャスラフ1世スヴャトスラフ2世とともに「三兄弟公」と呼ばれる(実際には早くして亡くなった長兄ウラジーミルがいる)。公妃は最初、東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの娘(ru)であり、娘アンナと息子ウラジーミルはこの妃から生まれた。公妃の名をアンナと伝える資料もあるが、確証がないとする意見もある。1067年公妃の死後、在地勢力から妻アンナを迎える。ポロツク公家門とする見方のほか、クマン人からであるとする説もある。この妃から息子ロスチスラフと三人の娘(あるいは二人)を得た。ロスチスラフはのちに溺死した。娘の一人は修道女となり、もう一人エウプラキヤは神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に嫁した。

1054年の父の死後、次子であるイジャスラフがキエフ大公位及びノヴゴロドトゥーロフを、スヴャトスラフがチェルニーゴフリャザンムーロムトムタラカニを獲得し、フセヴォロド自身はペレヤスラヴリ・ルースキー(モスクワ近郊のペレヤスラヴリ・ザレスキーではない)及びロストフスーズダリベロオーゼロといったヴォルガ上流域の東北ロシアを領有した。また、弟が二人おり、ヴャチェスラフはスモレンスクを末弟イーゴリはヴォルィーニを支配した。

イジャスラフ、スヴャトスラフと共に一種の三頭政治を展開し、ヤロスラフ1世が作成したルースカヤ・プラウダ(ルーシ法典)に新条項(「ヤロスラフの子らの法典」)を付加した。1072年には、兄弟三人で叔父に当たるボリスとグレブ不朽体聖遺物)を移動させる儀式を行った。ボリスとグレブは1010年代の公位継承戦争のなかで謀殺されたウラジーミルの子であり、キリスト教殉教者と考えられていた。現地出身の聖人を作ることで、国家としての求心力と威信を高めようとしたものと思われる。

1073年にはスヴャトスラフがイジャスラフから大公位を奪い、フセヴォロドと共に行動する。1077年のスヴャトスラフ急死の後、一時的に大公位に就くが、イジャスラフと和解し、彼に大公位を譲り、自分はスヴャトスラフの故地チェルニーゴフに移る。その後、チェルニーゴフをめぐり、スヴャトスラフの子オレーグ、その仲間ボリス(ru)を相手に、イジャスラフと共に戦う。1078年の決戦を前にして、ボリスとイジャスラフが死去。フセヴォロドは再びキエフ大公位に就いた。

フセヴォロドはギリシア語で詩作ができ、5言語を解することが出来た。晩年は病に伏し、実際の政務は息子ウラジーミル・モノマフが取った。

子女 編集

最初の妻(ru)との間には以下の子供をもうけた。

二人目の妻アンナとの間には以下の子供をもうけた。

参考文献 編集

先代
スヴャトスラフ2世
キエフ大公
14代
1075年 - 1076年
次代
イジャスラフ1世
先代
イジャスラフ1世
キエフ大公
16代
1078年 - 1093年
次代
スヴャトポルク2世