フレデリック・レイトン

イギリスの画家、彫刻家

初代レイトン男爵フレデリック・レイトンFrederic Leighton, 1st Baron Leighton, PRA, 1830年12月3日 - 1896年1月25日)は、イギリスの画家・彫刻家。作品は歴史、聖書、古典的題材がほとんどである。

フレデリック・レイトン
Frederic Leighton
自画像 (1880年)
誕生日 1830年12月3日
出生地 イギリスの旗 イギリススカーブラ
死没年 1896年1月25日
死没地 イギリスの旗 イギリスロンドン
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24歳の時の作品『フィレンツェの街を行進するシマブエのマドンナ』("Cimabue's Celebrated Madonna is carried in Procession through the Streets of Florence")
イーピゲネイア(1884年)

生涯 編集

レイトンはノース・ヨークシャースカーブラで、輸出入専門業を営む一家に生まれた。彼はロンドンユニヴァーシティー・カレッジ・スクール英語版で教育を受けた。その後ドイツで、エドヴァルト・フォン・シュタインレに学び、パリでジョヴァンニ・コスタに学んだ。24歳の時にフィレンツェへ行き、ヨーロッパ初の絵画を教える機関であったアッカデミア・ディ・ベッレ・アルティ(現在のアカデミア美術館)で学んだ。そこで『フィレンツェの街を行進するシマブエのマドンナ』("Cimabue's Celebrated Madonna is carried in Procession through the Streets of Florence")という作品を描いた。1855年から1859年はパリで暮らし、そこでドミニク・アングルウジェーヌ・ドラクロワコロージャン=フランソワ・ミレーと出会った。

1860年、彼はロンドンへ転居し、ラファエル前派のグループと交流した。1861年、彼はロバート・ブラウニングの依頼で、フィレンツェのイギリス人墓地にあるエリザベス・バレット・ブラウニングの墓碑をデザインした。1864年、彼はロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの会員となり、1878年から1896年まで会長職にあった。1877年の彫刻作品『パイソンとレスリング選手』(Athlete Wrestling with a Python)は、現代イギリス彫刻の復興が始まったと考えられ、ニュー・スカルプチャー(19世紀後半のイギリス彫刻の運動)と称された。彼の絵画は1900年のパリ万博でイギリス展示の象徴とされた。

レイトンは1878年にウィンザーで最下級勲爵士位を授けられた。同年レジオン・ドヌール勲章オフィシエ受賞。1886年には準男爵となった。1889年、彫刻でローマ賞を受賞。同年にフランス学士院会員となった。1896年の新年の受勲者リストでは、画家で最初の貴族に列せられた。(シュロップシャーの)「ストレットンのレイトン男爵」の爵位が1896年1月24日に授けられた。翌1月25日、狭心症の発作で急死した。

レイトンは生涯独身であったため、わずか1日でレイトン男爵家は断絶した。これは貴族であった最短期間記録である。ロンドンのホランド・パークにあった彼の家は、レイトン・ハウス美術館となった。ここには彼の彫刻と同様に、絵画の多くが収められている。

作品 編集

参考文献 編集

  •   この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Leighton, Frederick Leighton, Baron". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 396-397-398.

外部リンク 編集