プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)

1941年に就役・戦没したイギリス海軍の戦艦

プリンス・オブ・ウェールズ (英語: HMS Prince of Wales) は、イギリス海軍戦艦[注釈 1]キング・ジョージ5世級の2番艦[2][注釈 2]。艦名プリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公)は、英国の王太子に相当する儀礼称号である。

プリンス・オブ・ウェールズ
プリンス・オブ・ウェールズ
プリンス・オブ・ウェールズ
基本情報
建造所 キャメル・レアードバーケンヘッド造船所
運用者  イギリス海軍
級名 キング・ジョージ5世級戦艦
愛称 PoW
モットー :"Ich dien"/:"I serve"
艦歴
起工 1937年1月1日
進水 1939年5月3日
竣工 1941年3月31日
就役 1941年1月19日
最期 1941年12月10日、マレー沖海戦にて戦没。
要目
基準排水量 36,772 トン
満載排水量 43,786 トン
全長 227.1 m (745 ft)
水線長 225.6 m (740 ft)
最大幅 31.4 m (103 ft)
吃水 10.8 m (35 ft)
主缶 海軍式三胴型重油専焼水管缶×8基
主機 パーソンズオール・ギヤードタービン×4基
出力 125,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×4軸
最大速力 28ノット (52 km/h)
航続距離 3,100海里 (5,700 km)/27ノット
乗員 1,521名
兵装
  • 改装後:
  •  Mk VII 356mm四連装砲×2基
  •  Mk VII 356mm連装砲×1基
  •  Mark I 133mm連装両用砲×8基
  •  40mmポンポン砲八連奏×4基
  •  40mm四連装ポンポン砲×2基2基
  •  40mm単装機銃×1基
  •  20mm単装機銃×7基
装甲
  • 舷側:380 mm (15 in)
  • 舷側(水線下):140 mm (5.5 in)
  • 甲板部(最厚):150 mm (5.9 in)
  • 主砲塔:324 mm (12.8 in)
  • バーベット:324 mm (12.8 in)
  • 水密隔壁(最厚):305 mm (12.0 in)
  • 司令塔(最厚):102 mm (4.0 in)
搭載機 スーパーマリン ウォーラス×4機
レーダー
  • 改装後:
  •  271型×1基 (水上警戒)
  •  279型×2基
  •  282型×4基
  •  284型×1基(射撃管制)
  •  285型英語版×4基 (対空射撃管制)
テンプレートを表示

概要 編集

1937年1月初頭に建造を開始[4]。1941年1月に竣工後、本国艦隊に所属。訓練未了で工事続行中の5月中旬[5]ビスマルク迎撃作戦に投入される[6]ランスロット・ホランド英語版中将の指揮下で行動中の5月24日朝、巡洋戦艦「フッド」と共に、ドイツ戦艦「ビスマルク」および重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」と交戦[7]デンマーク海峡海戦[8]。「ビスマルク」の砲撃で「フッド」が轟沈し、「プリンス・オブ・ウェールズ」も艦橋に被弾して避退した[9][注釈 3]。 その後はフレデリック・ウェイク・ウォーカー英語版少将(旗艦「ノーフォーク」)の指揮下で「ビスマルク」を追撃するが[12][13]、「プリンス・オブ・ウェールズ」は燃料不足で戦場を離脱した[14][15][16]

修理後の「プリンス・オブ・ウェールズ」は、首相ウィンストン・チャーチルを乗せて大西洋を横断し、カナダニューファンドランド島に移動、そこでアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが乗艦する[17]。会談の結果、8月12日に本艦艦上で大西洋憲章が締結された[18][注釈 4]。 9月、地中海戦線に投入され、マルタ輸送作戦で活躍した[20]ハルバード作戦)。10月、極東情勢の悪化にともない東洋艦隊に編入されてシンガポールに移動する[21][22]

太平洋戦争開戦直後の12月10日[23]、日本軍のマレー作戦を阻止するためマレー半島沖合を行動中のZ部隊英語版[注釈 5]を、馬来部隊[注釈 6]麾下の日本海軍陸上攻撃機が襲撃する[25][26]。このマレー沖海戦[27]、「プリンス・オブ・ウェールズ」は魚雷と爆弾多数を受けて沈没した[28][注釈 7][注釈 8]。 本艦沈没時に[31]、東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス大将と艦長ジョン・リーチ英語版大佐も戦死した[32][注釈 9]

艦名の由来 編集

イングランドには伝統的に国王が即位後の最初の戦艦には、国王の名前を付ける慣習があった。当時の国王はジョージ6世であったために、当然同級の1番艦はキング・ジョージ6世となるべきであった。しかし父のジョージ5世の治世の間はワシントン軍縮条約によって戦艦が建造されなかった。また先王である兄エドワード8世は世紀のスキャンダルといわれた王冠を賭けた恋により自ら退位しており、短い治世の間にその名を付けた戦艦は建造されなかった。そこで、父王の名前が1番艦に名づけられキング・ジョージ5世となり、兄王はジョージ5世時代の称号である王太子プリンス・オブ・ウェールズとして2番艦に命名された。ジョージ6世自らの名前は、即位前の称号であるヨーク公爵として3番艦デューク・オブ・ヨークに残されている。

艦歴 編集

ビスマルク戦 編集

プリンス・オブ・ウェールズはキャメル・レアード社バーケンヘッド造船所にてワシントン海軍軍縮条約明け直後の1937年1月2日に建造を開始、1939年5月3日に進水した。艤装途中の1940年8月にはドイツ空軍の攻撃を受けた。1941年1月19日に艦長ジョン・リーチ英語版大佐の指揮下で就役したが、3月31日まで完成しなかった。なお俳優のエズモンド・ナイト英語版が砲術士官(予備士官)としてウェールズに配属されていた[34][35]

プリンス・オブ・ウェールズはチャーチル首相のお気に入りであり、就役直後は彼に「世界最強」と言わしめた戦艦であったが、完成が遅れ十分な訓練が出来ないまま第二次世界大戦に投入されることになる。

5月、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) は戦艦や重巡洋艦による通商破壊を目論んでライン演習作戦を発動した[36][37]。その頃のプリンス・オブ・ウェールズは乗員の慣熟訓練が未了であり[5]、また主砲の故障等の問題を抱えていた[38][39]。艦内では、ヴィッカース・アームストロング社の民間人工員が工事を続けていた[40]

5月20日昼すぎ[41]スウェーデン海軍の航空巡洋艦ゴトランド (HMS Gotland) がカテガット海峡でドイツ海軍の戦艦ビスマルク (Bismarck) および護衛部隊と遭遇し、本国に連絡する[42]。その情報は、ただちにイギリスに伝えられた[43][44]。イギリス軍は航空哨戒を厳重におこない[45]21日ノルウェー南西部ベルゲン南方のグリムスター・フィヨルドで、ギュンター・リュッチェンス中将が指揮する戦艦ビスマルクと重巡プリンツ・オイゲン (Prinz Eugen) を発見した[46][47]オークニー諸島スカパ・フロー所在の本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将はいくつかの対応策を指示しており[48][49]、その一環として本国艦隊の主力艦艇を二つに分割した[注釈 10]。 本国艦隊副司令長官/巡洋戦艦戦隊英語版司令官ランスロット・ホランド英語版中将に対しては、巡洋戦艦フッド、新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、駆逐艦6隻[注釈 11]を引き連れ、ビスマルク部隊を捕捉するためにアイスランド方面に進出するよう命じた[46]

5月21日深夜、フッド(ホランド中将旗艦)とプリンス・オブ・ウェールズは、本国艦隊旗艦キング・ジョージ5世 (HMS King George V) に見送られてスカパ・フローを出発した[53]5月23日夜、デンマーク海峡を哨戒中の重巡2隻からビスマルク部隊発見の通報をうけたホランド戦隊は、駆逐艦を残して進撃した[注釈 12]

5月24日朝、アイスランド近海の大西洋上において[58]、ホランド戦隊(フッド、ウェールズ)はリュッチェンス部隊(ビスマルク、プリンツ・オイゲン)を発見し、砲撃戦を開始した[59]デンマーク海峡海戦/アイスランド沖海戦)[60]。ドイツ側は、先頭艦がプリンツ・オイゲン、後方にビスマルクが航行していた[61]。フッドは先頭をすすむプリンツ・オイゲンをビスマルクと間違えて砲撃し[62]、プリンス・オブ・ウェールズはビスマルクを狙ったので[9]、ホランド戦隊の砲火は分散してしまった[63]。ドイツ側は2隻ともフッドを目標にして砲撃を開始した[64]。なおリュッチェンス部隊の後方には重巡洋艦ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) とサフォーク (HMS Suffolk, 55) とが追走していたが、戦闘に殆ど関与できなかった[63][注釈 13]

砲戦開始から10分も経過しないうちに[67]、ビスマルクの第五斉射がフッドの第二煙突と後部マストの中間に命中した[68]。フッドは轟沈し[69]、プリンス・オブ・ウェールズ乗組員に衝撃を与えた[注釈 14]。 ウェールズはフッドの残骸を回避するため右に舵をとり、プリンツ・オイゲンとビスマルクに近づくことになった[71]。しかもフッドとほぼ同じ航跡だったため、ドイツ側は照準を修正せず効果的な射撃をおこなうことができた[72]。ウェールズの艦橋にビスマルクの主砲弾が命中し、艦橋乗組員のうち3名(リーチ艦長、掌信号長、航海科士官1名)以外は全員戦死した[73]。艦橋下部の航跡記録係士官は、伝声管から血がしたたり落ちてきて、被弾と惨事に気付いたという[73]。この海戦でウェールズに命中した弾丸は、ビスマルクの15インチ砲弾4発、オイゲンの8インチ砲弾3発であった[74]。航海長[75]を含む士官2名、下士官11名が戦死、士官1名と下士官兵8名が負傷する[76]。羅針艦橋、レーダー操作室、艦載機揚収クレーン、副砲4門と方位盤、短艇と艦載機が破壊されたり損傷をうけた[77]。吃水線下への命中弾では、400トンの浸水被害が生じた[74]。さらに砲戦中のウェールズの主砲が次々に故障した[78]。トーヴィー戦隊が南東400マイルまで来ているの知ったリーチ艦長は退避を決断する[79]。ウェールズは、プリンツ・オイゲンの魚雷の射程に入る直前に転舵し、リュッチェンス部隊と距離をとった[77]。砲戦開始から21分が経過していたという[76]。ビスマルクの艦長エルンスト・リンデマン大佐はプリンス・オブ・ウェールズを追撃して撃沈することを望んだが、リュッチェンス提督は通商破壊作戦やトーヴィー戦隊の接近などを総合的に判断し、手負いのウェールズを見逃した[80]。午前6時32分、リュッチェンス提督は上級司令部に「巡洋戦艦1、おそらくフッドを撃沈。帯同の戦艦キング・ジョージ五世もしくはレナウンは損傷を負って逃走。2隻の重巡はなお触接を維持」と報告した[81]

デンマーク海峡海戦で、プリンス・オブ・ウェールズは主砲の故障に悩まされた[74]。最初の斉射を放った直後にA(1番)砲塔が故障したが、第3射がビスマルクの燃料タンクとボイラー室に損害を与えた[82]。総合すると、ビスマルクに14インチ主砲弾3発、プリンツ・オイゲンに14インチ主砲弾1発(不発)を命中させた[注釈 15]。ウェールズがビスマルクに与えた損害は、予想以上に大きかった[85]。艦中央部に命中した1発は、不発だった[83]。2発目は重要区画に飛び込み、2番ボイラー室でボイラー2基を使用不能にし、乗組員5名が負傷した[83]。艦首左舷水線部に命中した1発(不発)は、燃料タンク2つを貫通し、燃料供給弁も壊した[86]。ビスマルクは1,000トンあまりの燃料を使えなくなり、作戦行動に支障をきたすようになった[87]。さらに艦前部への浸水で前方に2度乃至3度、左に9度傾斜し、バランスをとるために艦尾区画に注水しなければならなかった[88]。速度は最大で28ノットに低下し、壊れた燃料タンクから油の尾をひくようになった[89]。ドックに入って修理しないかぎり、長期の作戦行動をとれなくなったのである[90]。リュッチェンス提督はプリンツ・オイゲンのみに通商破壊作戦を続行させ、ビスマルクをフランス西部のブレスト基地に帰投させる決断を下した[91]

ビスマルク尾行を続けるウェイク・ウォーカー英語版少将は、フッド生存者の捜索を駆逐艦にまかせ、ひきつづき重巡2隻を率いて追跡を続けた[92]。損傷したプリンス・オブ・ウェールズはウォーカー少将の指揮下に入り[93]、重巡2隻と合流してビスマルク追跡任務に従事した[14][13]。ビスマルクの方も、しつこいウォーカー戦隊3隻(ノーフォーク、サフォーク、ウェールズ)をビスマルクの護衛艦とみなすことにしたという[94]5月24日午後、チャーチルと、海軍本部ダドリー・パウンド元帥(第一海軍卿)は、ウォーカー戦隊がビスマルクの随伴部隊と化したことを憂慮していた[95]。パウンドは「プリンス・オブ・ウェールズをして戦闘再開せしむることに関し、如何に考慮しありや?」と打電した[96]。事実上の叱責であり、ウォーカー少将はビスマルクに砲戦を挑む決意を固めた[97]。リュッチェンス部隊では、プリンツ・オイゲンが通商破壊作戦続行のために分離し、ビスマルク単艦となった[98][99]。ウォーカー戦隊3隻は再びビスマルクと砲火を交え、プリンス・オブ・ウェールズは12斉射をおこなったところで前部の主砲2門が動作不能となり射撃を中止した[100]。距離28,000以上の遠距離砲戦で、砲撃条件も悪かった[101]。ビスマルクも散発的に主砲で応戦した程度で、双方とも命中弾を得なかった[注釈 16]。 つづいてイギリス空母ヴィクトリアス (HMS Victorious, R38) のソードフィッシュ9機がビスマルクに雷撃を敢行し[103][104]、魚雷1本を命中させたが損害軽微であった[105][106]。空襲から約1時間後、プリンス・オブ・ウェールズは距離15,000メートル彼方のビスマルクにむけて主砲2斉射をはなち、ビスマルクも主砲の斉射で応戦した[107]。命中弾のない砲撃戦は短時間で終わり、ウェールズはビスマルクと距離をとった[108]

またビスマルク追跡中に、イギリス輸送船団遭難者の救助をおこなっていたアメリカ合衆国沿岸警備隊の監視船モウドック(1,800トン)と遭遇したウォーカー戦隊は、これをビスマルクと誤認して沈めようとした[109]。そうこうしているうちに、ウォーカー戦隊はビスマルクを見失った[110][111][112]。プリンス・オブ・ウェールズは、燃料不足になって離脱した巡洋戦艦レパルスの代艦として、トーヴィー長官の指揮下に入った[113][114]。だがウェールズやヴィクトリアスも燃料不足となり[14]5月25日に補給のためアイスランドにむかった[115]。その後、本国のロサイスに戻ったプリンス・オブ・ウェールズは6週間に渡る修理を行った。

地中海の戦い 編集

プリンス・オブ・ウェールズは大西洋を渡りカナダへ移動、チャーチルら一行を乗せてニューファンドランド・ラブラドール州プラセンティア湾アルゼンチア海軍基地に到着、8月10日からアメリカ大統領ルーズベルトとの会談が始まる[注釈 17]12日、プリンス・オブ・ウェールズの艦上で大西洋憲章が締結された[18]

9月、プリンス・オブ・ウェールズは地中海攻防戦に投入される。クレタ島撤退作戦後、イベリア半島南東部ジブラルタルを拠点とするH部隊 (Force H) を増強するため、本艦とネルソン級戦艦2隻(ネルソンロドニー)などが地中海に派遣された[116]。9月下旬、ジブラルタルから英領マルタへの増援船団を護衛するハルバード作戦に参加した[117]イタリア王立海軍 (Regia Marina) の新鋭戦艦2隻(リットリオヴィットリオ・ヴェネト)などが出撃したが、戦艦同士の砲撃戦は起きなかった。またイタリア王立空軍 (Regia Aeronautica) のSM.84雷撃機により、戦艦ネルソン (HMS Nelson, 28) が艦首に被雷して損傷している。輸送作戦は成功した[118]。この作戦中、プリンス・オブ・ウェールズは味方のフルマー戦闘機を2機撃墜してしまっている[117]

東洋艦隊派遣 編集

 
シンガポールに到着したプリンス・オブ・ウェールズ

10月25日にチャーチル首相の強い要請で、今後予想される日本軍南下の抑止力として、プリンス・オブ・ウェールズのインド洋への派遣が決まった(シンガポール防衛計画[21][注釈 18]海軍本部のパウンド元帥(第一海軍卿)は、自分を補佐していたトーマス・フィリップス中将に極東派遣部隊の指揮をとらせた[21][注釈 19]。さらに支那方面艦隊ジェフリー・レイトン提督)を解隊して東洋艦隊に統合することにした[120][注釈 20]。東洋艦隊がこのような最新戦艦を持つことは前例がなく、ドイツイタリア王国とヨーロッパで戦争遂行中に、日本と開戦間近と見られていたとはいえ主力艦を東洋に回航したのは相当な意味があった。チャーチル首相とイギリス軍は、プリンス・オブ・ウェールズ及びレパルスにより、イギリスの植民地であるマレー半島やオーストラリア、さらには当時イギリス軍が制海権を持っていたインド洋への日本軍の侵攻を阻止または断念させる事を目的としていたのである[21][121]。その観測の根拠はそれほど的外れなものではなかった。チャーチル首相はビスマルク1隻にイギリス海軍が翻弄され、さらに姉妹艦ティルピッツ (DKM Tirpitz) 1隻が大きな戦略上の障害になっていることを説いた[122]

プリンス・オブ・ウェールズは南アフリカケープタウンを経由し、11月28日セイロン島コロンボに入港する[123]。ここで対空火器を増強した[124]12月2日には巡洋戦艦レパルステナント大佐)と共にマレー半島南端に位置するシンガポール海軍基地に到着した[125]シンガポールはイギリスの植民地であり、同時にイギリス軍の重大拠点でもあった[126]。マレー半島防衛のためにイギリス極東軍英語版(司令長官ロバート・ブルック・ポッファム英語版大将)が準備していた計画をマタドール作戦英語版と呼ぶ[127]。ウェールズは東洋艦隊の旗艦としてフィリップス大将の指揮下に入り、有事の際はフィリピンをのぞく東洋連合軍海軍を統一指揮することになっていた[128]。 なお装甲空母インドミタブル (HMS Indomitable, 92) が合流する予定であったが[129][130]、同艦は竣工したばかりで基礎訓練を必要としていた[131]。しかもジャマイカを出港直後に座礁したため[132]、太平洋戦争開戦までに合流できなかった[133]。それに代わる軽空母ハーミーズ (HMS Hermes, 95) も[131]、速力が足らず配備されなかった[134]。そして、他の空母を欧州戦線や地中海戦線から引き抜き、極東に派遣できる余裕はなかった[129][注釈 21]。イギリス海軍の戦力に不安を感じていたフィリップス提督は、R級戦艦4隻や、アメリカ西海岸で修理中の戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) を極東にふりむけるよう本国に要請したが、間に合わなかった[136]

太平洋戦争開戦直前の時点における英国は、プリンス・オブ・ウェールズを世界最強とみなしていた[137]。日本海軍が有する長門型を含め[138]、対抗できる日本側の戦艦戦力は存在しないとされていた。日本海軍が新世代戦艦を建造していることは列強各国にも知られていたが[139]、その性能は16インチ砲9門ないし10門、基準排水量40,000~42,000トン、速力27-30ノットという推定であった[140][注釈 22]。日本軍の陸上部隊の輸送には対抗上、戦艦の護衛が必須と思われ、これを調達出来ない日本軍はマレー半島での作戦遂行が著しく困難になる筈と考えられていた。 何よりも当時の常識では、行動中の新式戦艦が航空機に撃沈された事例は無かった[144][注釈 23]。 さらに、イギリス軍は日本軍機の性能を過小評価していた[137]。対峙する日本海軍においても、その航空戦力発展に大きく寄与してきた連合艦隊司令長官山本五十六大将でさえ[146]、1941年(昭和16年)12月10日朝の旗艦長門において三和義勇連合艦隊参謀に「リナウンキングジョージもやれるかな。リナウンは撃沈できるがキングジョージは大破だろう」と声をかけた[147][注釈 24]。山本と三和は、イギリス新鋭戦艦を撃沈できるかどうかにビールを賭けた[149][注釈 25]

イギリス軍が東洋艦隊に最新鋭戦艦と高速戦艦を配備したという情報は日本軍の作戦計画に影響を与え、連合艦隊は馬来部隊に潜水戦隊と陸上攻撃機を増強して対応した[150][24]。さらに南方部隊本隊と馬来部隊の水上部隊で対処することにした[151]。日本軍の南方作戦において、海軍側の総指揮官は第二艦隊司令長官近藤信竹中将(南方部隊指揮官、旗艦愛宕)で、高雄型重巡洋艦2隻と金剛級高速戦艦2隻(金剛榛名)を有していた[152][注釈 26]マレー作戦を担当していたのは南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将(馬来部隊指揮官、旗艦鳥海)で[24][156]、おもに陸軍輸送船団の護衛を担う[157][158]。指揮下に最上型重巡洋艦4隻[159]第三水雷戦隊と二個潜水戦隊[24][160]、さらに増強された基地航空部隊を有していた[26][161]

現場の南方部隊本隊や馬来部隊では、同部隊の昼間砲撃力ではイギリス東洋艦隊に明らかに劣るため艦隊決戦に勝機を見いだせず、夜戦に活路を見出すしかないと思われていた[162][163]。 既述のように日本連合艦隊はイギリス戦艦2隻の増援に対して馬来部隊に陸上攻撃機(基地航空部隊)を増強しており、キング・ジョージ5世(ウェールズ)についても「撃沈は無理でも大破させることは可能」、リナウン(レパルス)は撃沈できると判断していた[128]宇垣纏少将(当時、連合艦隊参謀長)は「 吾人の眼よりせば茲に飛び込むは我あり、機雷あり、大巡数隻水戦あり、加ふるに高速戦艦二隻ある上、南部佛印に我攻撃機隊の相當優勢なるものあるを知るや知らずや、無謀と云はざれば其の傍若無人振りを賞すべきなり 」と余裕を持っている[164]。英戦艦2隻は「 ねぎを負って現れたる海戦を何と命名するや 」というマレー沖海戦に臨むことになった[注釈 27]

最期 編集

1941年(昭和16年)12月8日未明に実施されたマレー作戦を機に太平洋戦争[166][167]大東亜戦争)がはじまった[168][169][注釈 28]。 東洋艦隊では主力艦艇でZ部隊英語版 (Force,Z) を編成した[171]。フィリップス提督はイギリス空軍の支援を要請したが、実施されなかった[172]。Z部隊(戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦4隻[注釈 29]は同8日夕刻にシンガポールを出撃し[137]マレー半島コタバルシンゴラへ向かう日本陸軍部隊[注釈 30]を乗せた輸送船団の攻撃に向かった[178][179]。これを馬来部隊(指揮官・小沢治三郎中将、南遣艦隊司令長官)率いる水上艦部隊と、サイゴン方面の飛行場に配備された基地航空部隊が迎え撃った[26]

Z部隊はアナンバス諸島を迂回して、日本軍輸送船団の上陸地点シンゴラにむかった[180]12月9日15時15分、日本軍の潜水艦伊65がZ部隊を発見した[181]。伊65は「敵レパルス型戦艦2隻見ゆ、地点コチサ11、針路340度、速力14ノット」と報告する[182][183]。南方部隊は全水上部隊を集結させて翌朝決戦の意図を示した[184]。馬来部隊は重巡や水雷戦隊による夜戦の用意をおこないつつ[184][185]、麾下の第二十二航空戦隊(基地航空部隊)による夜間攻撃を試みた[186]。Z部隊では情勢を検討し、21時45分に反転して帰途についた[187]。また燃料不足になった駆逐艦テネドス (HMS Tenedos) を分離し[188]、一足先にシンガポールに帰投させた[189]

12月10日午前0時、陸攻は南遣艦隊旗艦の重巡鳥海(小沢中将旗艦)を英戦艦と間違えて照明弾を投下、夜間雷撃の準備にはいり、鳥海が敵味方識別を懸命に訴える一幕もあった[186][190]。鳥海とZ部隊は8~32キロ前後にまで接近していたが、双方とも敵艦を発見できなかった[188]。この頃、潜水艦伊58がZ部隊の反転を確認して各方面に通報したが[181]、上級司令部までに届かなかった[191]。Z部隊では「日本軍がクワンタンに上陸中」との情報を入手し、同10日午前2時20分に同地へむかったが日本軍と遭遇せず、反転してシンガポールにむかった[187]。午前715分、ウェールズは水上偵察機ウォーラスを発進させ、同機はクアンタンを偵察後にシンガポールへ帰投した[192]

 
マレー沖海戦で日本軍機の攻撃を受け回避行動を行うプリンス・オブ・ウェールズ(画面左前方)とレパルス(画面左後方)。

10日昼間、Z部隊は南シナ海において行われたマレー沖海戦で、九六式陸上攻撃機美幌海軍航空隊元山海軍航空隊)と鹿屋海軍航空隊[193]一式陸上攻撃機の大部隊に襲撃された[194][29][195]。日本時間午前11時45分、帆足正音予備少尉が指揮する九六陸攻(元山空、索敵)がZ部隊を発見して通報した[196]。同機の誘導により、まず美幌空の九六式陸攻8機が水平爆撃を敢行し、レパルスに爆弾1発が命中して小破した[197]。続いて元山空の九六式陸攻の雷撃がはじまる[198]。第2波空襲開始早々、プリンス・オブ・ウェールズに魚雷2本が命中した[198]。左舷艦尾、推進軸付近に命中した魚雷により推進軸が捩れ曲がり、回転するタービン・シャフトの先端が隔壁を連打して破壊した[199]。ウェールズはこの致命的な損傷により大浸水を生じ、速力は20ノット程度に低下、舵も効かなくなった[200]。発電機室の浸水により停電し後部の4基の13.3cm連装両用砲と操舵機が使用不能になり、傾斜によって両用砲の運用が困難となる。ウェールズは「我れ航行の自由を失えり」の信号旗を掲げてレパルスの救援を要請したが[201]、一式陸攻部隊(鹿屋空)の空襲が始まると、雷撃でレパルスが沈没した[202][注釈 31]。 回避運動も対空射撃もままならなくなっていたウェールズには、魚雷3-4本と爆弾1発が命中した[204]。爆弾は、美幌空の九六陸攻部隊が敢行した水平爆撃である[205]。艦中央部の水上機飛行甲板に命中し、そこに集められていた負傷者を含め多くの死者を出した[206]。後の海底調査は、この時の魚雷の命中は3本であり、3本とも右舷に命中していた[206]。まず右舷船首の先端部分に魚雷が命中、続いて右舷艦中央部に命中、最後に右舷後部に命中した[206]。船体後部は左舷後部に命中した魚雷による浸水のために沈下しており、最後に右舷に命中した魚雷は正常時の喫水線の上に命中した[206]。この右舷後部の魚雷命中により、右舷外側推進軸が破壊され、右舷外側スクリューも失われ、ウェールズは1軸運転となる[206]

日本軍攻撃隊が去ったあと、フィリップス長官の命令により駆逐艦エキスプレス (HMS Express, H61) が接舷してウェールズ乗組員を救助する[207]第243飛行隊第453飛行隊バッファロー戦闘機が到着した時には、ウェールズは沈みかけていた[208]。ウェールズでは13時15分に総員退去が命じられ、13時20分に転覆、沈没した[199]。日本軍記録では魚雷7本、500kg爆弾2発命中(英軍記録魚雷6本、爆弾1発)、日本時間14時50分沈没となっている[144]。乗組員1612名のうち、士官90名と兵員1195名が救助されたという[209]。327名(将校20名、兵307名)が戦死した[210]船乗り猫の“チャーチル”も救助されたが、のちにシンガポールで行方不明となった[203]。日本側は雷撃50機、爆撃25機がZ部隊を攻撃し、3機を喪失した[148]。なお、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの合計戦死者が士官47名、兵793名と比較的少ないのは、日本軍の航空機が駆逐艦による救助作業を全く妨害しなかったためである[211]

マレー沖海戦を生き延びたプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの水上偵察機ウォーラスは、イギリス空軍第205飛行隊 (No. 205 Squadron RAF) に引き取られた[212]

影響と 編集

マレー沖海戦以前にも、イギリス空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) のソードフィッシュが雷撃でドイツ戦艦ビスマルクの舵を破壊し[213]、同艦の撃沈に貢献した[214][215]。また空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) のソードフィッシュによるタラント空襲[216]、3日前に南雲機動部隊の艦上機によって行われた真珠湾攻撃では、「停泊中」の戦艦が航空攻撃により沈められた[217]ギリシャ・イタリア戦争におけるサラミス湾空襲では戦艦キルキス (Kilkis)とレノムス(Lemnos) がJu 87急降下爆撃で沈められたりしているが、これらは港に停泊中を奇襲され充分な対応ができないうちに被害を受けたり、旧式化した練習戦艦が被害を受けた結果であった。だが、マレー沖では充分な装備を持ち、万全の準備を行っていた「行動中」の新式戦艦が航空機の攻撃だけで撃沈された[218]。戦前の予測では、新式戦艦を航空機で沈めるのは難しいとされていた[128][219]。だが航空機には勝てない事が明らかとなり[220]、航空機の掩護がなければ艦船の行動や作戦実行がきわめて難しいことが認識された[221]。ただし本海戦は戦艦側に上空警戒機が1機もなく[222]、このために陸攻の攻撃が成功したとする論調もあった[223][224][注釈 32]。 宇垣纒は「 極東艦隊司令長官旗艦として急遽回航せる計りの最新鋭艦も其の無暴なる行動に依り脆くも飛行機の為に海底の藻屑となる 」「 昨日来の経過は確に航空機の威力を確認せざるを得ず。嘗てはビスマークを葬るに参加せる新鋭の本戦艦も案外防禦力薄弱にして、獨の復讐江戸の讐を長崎にて打ちたる格好となれり 」と感想を述べている[165]

戦略的にも大きな意味があった[27][226]シンガポール占領を目指す日本軍にとって最大の障害と見られた東洋艦隊主力が壊滅したことは[31]、マレー作戦をふくめた南方作戦全体の作戦展開に弾みをつけることになった[222][227]。プリンス・オブ・ウェールズの撃沈の報告を聞いたイギリスのチャーチル首相は絶句し「戦争全体でその報告以上に私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と著書の『第二次世界大戦回顧録』で語っている[223]。またイギリス議会下院で本艦喪失を報告した時には「 マレーとハワイにおいて与えられた喪失の重大性を過小評価してはならない。また我々を襲ってきた新たな敵の力をも。また絶対の勝利を収めるのに必要な大きな兵力を極東に創造し、整理し、盛り上げることに要する時間の長さも、過少評価してはならない 」と述べた[228]

プリンス・オブ・ウェールズ沈没のニュースに、日本は大いに沸いた[30]。各主要新聞はトップで報じ、大本営12月10日午後4時5分の発表でイギリス東洋艦隊撃滅を報じ[145]、「無敵海軍」「海の荒鷲」を宣伝した[30]参謀総長杉山元陸軍大将)から報告を受けた昭和天皇は「ソレハヨカッタ」と喜んでいる[229]軍令部でもシャンパンで祝杯を挙げたという[229]。連合艦隊旗艦長門作戦室では「キングジョージ5世(ウェールズ)沈没」の速報が流れると歓声があがり[148]、普段は無表情な山本長官が非常に上機嫌であったという[220]。山本は三和に「(ビール)10ダースでも15ダースでもいくらでも出そう」と笑顔で語った[149]。また翌日、プリンス・オブ・ウェールズを撃沈した航空隊員の1人である壱岐春記大尉は、搭乗機で現場を訪れる[230]。日本軍と連合国軍の双方の戦死者を鎮魂するため、二つの花束を投下した[231][232]

馬来部隊指揮官の小沢治三郎中将(南遣艦隊司令長官)は、旗艦鳥海に英戦艦2隻沈没とフィリップス提督戦死の報が届いた時、その死を悼んで静かに涙を流した[233]。野村守軍医大佐(当時、南遣艦隊軍医長)によれば、休憩室の小沢をたずねて祝辞をのべたところ「自分もいつかは彼と同じ運命を辿らねばなるまい」と静かに答えたという[233]。また「自分もいずれ、我々にも同じ運命がくる」と暗澹たる口調で呟いたという[234]

海底のプリンス・オブ・ウェールズと違法サルベージ 編集

沈没地点 北緯3度33分36秒 東経104度28分42秒 / 北緯3.56000度 東経104.47833度 / 3.56000; 104.47833は比較的浅い海(水深68m)であり、レパルスほどではないにしてもプリンス・オブ・ウェールズも比較的到達容易な水深に沈んでおり、晴天時には海面から船体が確認できるほどである。宇垣纏(当時、連合艦隊参謀長)は戦場日記『戦藻録』に「否水深三〇米引揚は極めて容易、我戦艦籍に二隻を加ふるも近き事なるべく藻屑とならざるべし」と記述して、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスのサルベージと日本戦艦籍編入を思案していたが、実現しなかった[165]軍令部でも引き揚げを狙い、サルベージの派遣手続きを取っている[229]。1942年(昭和17年)1月下旬、小沢長官は海防艦「占守」と第一掃海隊(掃海艇部隊)に、ウェールズとレパルスの沈没位置を特定するよう命じた[235]2月1日、占守はウェールズの位置を確認して浮標を設置した[235]

ウェールズの船体は完全に転覆した状態で沈んでおり、舷側には大小4箇所の破損穴が海底調査で発見されている。船首部の破損穴は完全に貫通している。また右舷外側スクリューシャフト基部の破損穴は500キロ爆弾の爆発によって生じた可能性があると海底調査では記載されている。海底調査は2回実施されており、最近の調査では破損穴の1つが土砂で埋まっており観察できない状態になっていることが報告された。沈没時に弾薬庫の誘爆がなかったので、船体には大きな損傷は認められていない。

日本軍の戦闘報告では魚雷命中数は6本以上となっているが、海底調査での破孔の数との乖離は、爆弾の至近弾の見間違いや同一命中を複数カウントされているためで、ドイツの戦艦ビスマルクの船体調査でも同じ事が報告されている。

2014年に中国の違法サルベージ業者によりレパルスと共に破壊行為を受けていることが報じられ、作業を行っていた船員が拘束された。爆発物を船体に取り付けて破壊し、破片をクレーン船で引き上げるという手法で鉄屑が回収されていた[236]

2023年5月にもマレーシアのジョホール州東岸沖でプリンス・オブ・ウェールズの残骸から遺物を回収した疑いのある中国船がマレーシアに拿捕された[237]

ギャラリー 編集

登場作品 編集

映画『ビスマルク号を撃沈せよ!
デンマーク海峡海戦で艦橋被弾時に負傷[238]、一時的に視力をうしなったエズモンド・ナイト[239]、プリンス・オブ・ウェールズのジョン・リーチ艦長役として出演する。
映画『ハワイ・マレー沖海戦
マレー沖海戦での本艦沈没シーンが、本作戦のクライマックスとなった。

出典 編集

注釈 編集

  1. ^ (上)逃げまどふ英艦[1] 左(中央)はプリンス・オブ・ウエールズ、最後方がレパルス、手前は我が猛爆をうけて逃げまどふ英驅逐艦。/(中)プリンス・オブ・ウエールズの性能 排水量三五,〇〇〇トン、一九四一年四月竣工、速力三〇節以上、十四インチ砲十門、五.二五インチ砲十六門を装備し搭載機四、英國主力艦中の最新鋭艦である。/(下)レパルスの性能 排水量三二,〇〇〇トン 一九一六年竣工、速力二九節、十五インチ砲六門、四インチ砲十二門、四インチ高角砲八門搭載機四を装備してゐる 猶、プリンス・オブ・ウエールズは、昨年八月北大西洋上に於てルーズヴエルト、チヤーチル洋上會談が同甲板上で行はれ、かつ友邦ドイツのビスマルク撃沈にも参加した艦であることは記憶に新たなるところであり、レパルスは一九四〇年十月獨潜水艦スカパーフロー襲撃の際辛くも撃沈を免れた艦である。 
  2. ^ 同級は、35.56 cm (14インチ) 砲を四連装砲塔2基(前部、後部に各一基)連装1基(前部に配置)計10門を装備する[3]
  3. ^ ウェールズはビスマルクに何発かの命中弾を与え、小破させた[10]。ビスマルクはウェールズとの交戦による損傷が原因で燃料不足になり、大西洋での通商破壊作戦を諦めてフランス西部のドイツ海軍基地に帰投することにした[11]
  4. ^ マレー沖海戰[19] 英の東洋艦隊早くも茲に潰滅す。/ 十二月十日 マレー東岸クワンタン沖に我が爆撃機、雷撃機隊は英が不沈戰艦と傲語するプリンス・オブ・ウエールズ及び戰艦レパルスを捕捉して挺身猛撃、海鷲獨特の必中彈を浴びせてこれを轟撃沈せしめた。/プリンス・オブ・ウエールズの長官艇の遺品/ 昭和十六年四月完成、三萬五千噸、最新鋭主力艦たるこのプリンス・オブ・ウエールズの艦上同年八月にチャーチル、ルーズヴエルト會談が行はれた。寫眞は艦上のチヤーチル(後甲板を散歩するチャーチル写真)/ レパルス(上)プリンス・オブ・ウエールズの最後―午後零時四十三分撮影。レパルスは命中彈で氣息奄々、午後二時二十九分轟沈。プリンス・オブ・ウエールズは艦中央から艦尾にかけ數發の命中彈をうけて、暫時遁走せるも、同二時五十分、英東洋艦隊司令長官サー・トーマス・フィリツプスを乗せたまゝ大爆發を起して沈没。
  5. ^ 戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(東洋艦隊旗艦)、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦4隻(エクスプレステネドスエレクトラヴァンパイア)。
  6. ^ 馬来部隊指揮官は、南遣艦隊司令長官小沢治三郎海軍中将であった[24]
  7. ^ プリンス・オブ・ウェールズと共に巡洋戦艦レパルス (HMS Repulse) も沈没した[29]
  8. ^ 12月10日16時5分、大本営海軍部発表[30]〔 帝国海軍は開戦劈頭より英東洋艦隊、特にその主力艦二隻の動静を注視しありたるところ 昨九日午後帝国海軍潜水艦は敵主力艦の出動を発見 午後帝国海軍航空部隊と緊密なる協力の下に捜索中、本十日午前十一時半マレー東部クワンタン沖に於て再び我が潜水艦これを確認せるをもって 帝国海軍航空部隊は機を逸せずこれに対し勇猛果敢なる攻撃を加へ 午後二時二十九分戦艦レパルスは瞬時にして轟沈し 同時に最新式戦艦プリンス・オブ・ウェールズは忽ち左に大傾斜暫時遁走せるも間もなく午後二時五十分大爆発を起し遂に沈没せり ここに開戦第三日にして早くも英国東洋艦隊主力は全滅するに至れり 〕
  9. ^ 八、マレー沖海戰[33] 開戰匆々ハワイ海戰においてアメリカ太平洋艦隊主力はわが海軍精鋭の敢行した大奇襲作戰によつて脆くも潰え去つたのであるが、マレー方面においてはわが上陸作戰を阻止すべくイギリスが世界にその最新鋭を誇る戰艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と高速戰艦「レパルス」の出動となつたのである。この二戰艦がマレー半島沖を北上中なる旨の報告が哨戒中の潜水艦からもたらされたのは十二月九日の午後であつた。航空部隊は直ちに基地を出撃したが、その日は惡天候のためつひに敵艦隊を發見することが出來なかつた。十日午前三時四十分潜水艦から敵艦がシンガポールに遁走中なる旨の報があつた。かくてわが航空隊は暁方より索敵をつゞけたが、つひに午前十一時四十五分、北緯四度、東經百三度五十五分の點において敵主力が驅逐艦三隻を從へて航行中を發見、午前零時四十五分爆撃機隊の猛撃は開始された。かくてイギリスが「不沈戰艦」として誇るプリンス・オブ・ウエールズ及びレパルスの二艦と大型驅逐艦一をマレー沖の藻屑と化せしめ、イギリス東洋艦隊の主力を潰滅せしめたのである。さきのハワイ海戰の戰果とともにこの戰果は世界戰史上その例を見ないものである。/プリンス・オブ・ウエールズ號(東洋艦隊司令長官トーマス・フイリツプス坐乗、艦長J・C・リー大佐)要目=一九四一竣工、排水量三万五千トン、速力三十ノツト、主砲十四インチ砲十門、高角機銃二十五聯装三基、二十聯装一基、八聯装空ポムポム砲四基、搭載機四機/レパルス號(艦長J・G・テナント大佐)要目=一九一六年竣工(一九三六年改装)排水量三万二千トン、速力二十九ノツト、主砲十五インチ砲六門、副砲四インチ砲十二門、高角砲四インチ砲八門、二十一インチ魚雷發射管八基、搭載機四機。
  10. ^ トーヴィー大将自身は、旗艦キング・ジョージ5世、空母ヴィクトリアス、巡洋戦艦レパルスを率いることになっていた[50][51]。トーヴィー戦隊は5月22日夜に出撃した[52]
  11. ^ 駆逐艦6隻の内訳は、エレクトラアンソニーエコーイカルスアキティーズアンテロープであった[34]
  12. ^ リュッチェンス部隊に触接したのは[54]、第一巡洋艦戦隊(司令官フレデリック・ウェイク・ウォーカー英語版少将)の重巡洋艦ノーフォーク(旗艦)とサフォークであった[55][56]。またフッドとウェールズに随伴していた駆逐艦部隊のうち、燃料不足で駆逐艦2隻が離脱し、残りは荒天候下でも高速を発揮できる戦艦2隻についてゆけなくなった[57]
  13. ^ ノーフォークにはウォーカー少将が座乗していたが、ホランド中将(フッド)の方が先任であるため、デンマーク海峡海戦では精彩を欠いた[65]。ホランド中将はウォーカー少将の重巡2隻でプリンツ・オイゲンを片付けるつもりだったが、無線封止をしていたので意図が伝わらなかった[66]。あるいは砲戦中のため、命令を出す時機を逸した[63]
  14. ^ ウェールズのリーチ艦長は、後日の調査会でフッド轟沈時のスケッチを提出している[70]
  15. ^ プリンツ・オイゲンの煙突基部付近で回収された巨弾の断片は、巡洋戦艦フッドのものとされた[83]。だが分析の結果、ウェールズの主砲弾であることが判明した[84]
  16. ^ リュッチェンス提督は上級司令部に「19時14分 キング・ジョージ五世と短時間交戦したが、戦果なし。プリンツ・オイゲン、燃料補給のため離脱。敵は現在もなお触接を堅持」と報告した[102]
  17. ^ ルーズベルト大統領は重巡洋艦オーガスタ (USS Augusta, CA-31) でアルゼンチア海軍基地に到着しており、駆逐艦マクドゥガル (USS McDougal, DD-358) でウェールズに乗艦した。ウェールズとオーガスタ双方の乗組員で合同の日曜礼拝が開かれている[17]
  18. ^ 当初、チャーチルは最新鋭艦デューク・オブ・ヨーク (HMS Duke of York, 17) とレナウン級巡洋戦艦1隻、旧型空母1隻の極東派遣を主張した[119]アレキサンダー海軍大臣パウンド第一海軍卿は反対している。
  19. ^ フィリップス中将は11月25日付で海軍大将に昇進した。
  20. ^ イギリス中国艦隊(支那方面艦隊)はプリンス・オブ・ウェールズがシンガポールに到着した12月2日付で解隊された[32]
  21. ^ 結局ハーミーズはZ部隊に同行せず、またインドミタブルも間に合わなかったので、直掩戦闘機を欠いたウェールズとレパルスが呆気なく沈没する一因となった[135]
  22. ^ これが大和型戦艦で、1番艦の大和[141](1937年11月4日起工、1940年8月8日進水、1941年12月16日竣工)は[142]、18インチ砲9門、基準排水量64,000トン、速力27ノットであった[143]
  23. ^ 七、マレー戰の驚異[145] 撃沈した隻數はハワイ海戰の場合よりも少ないから、世上或はマレー海戰の戰果をヨリ小さいと考へるものがあれば、それは大間違ひである。戰果に甲乙なく、共に世界的且つ歴史的の大戰勝であり、さうして今後の海戰略に重大なる示唆を與へ、更に敵主力の進攻戰に期間的終止符を打つた點で全く相匹敵するものである。/ 異なる所はハワイ戰が敵の主力を根據地碇泊中に撃滅したのに對し、マレー戰は洋上の機動に於て撃滅した點にある。即ち空中魚雷と爆彈とによる攻撃戰の二つの場合が、殆ど時を同じうして東と南とで實演され、共に成功の標本を作り上げたわけである。/ 筆者は我が海軍航空部隊が、世界的新鋭戰艦プリンス・オブ・ウエールズ號に對し、必殺の攻法によつて大打撃を與へ得るだらうとは考へたが、彼れを撃沈することは出來ないであると豫想してゐた。レパルス、レナウン型の高速戰艦は、五月二十七日にフツドが撃沈された如く、高速戰艦固有の弱點の爲に撃滅の可能性はあると思つたが、キング・ジオージ・五世級の新戰艦に至つては、餘程多數の魚雷と重爆彈とを命中させなければ沈めることが出來ないし、斯かる命中は洋上の機動戰に於ては不可能だと考へたからである。/ プリンス・オブ・ウエールス號は『空軍に對する戰艦の将來』を調査したインスキツプ委員會の報告に基き當時イギリスにも流行した戰艦無用論を尻目にかけて起工された新工夫の代表艦である。即ち空中からの攻撃に對しては特殊鋼を以て特殊の型式による防備を施し、水中攻撃に對しても強力なる抵抗力を附與し、その爲に防禦鋼の重量が一萬四千トンに達したといふ記録を持つ。/ 一方に對空攻撃武器としては、五吋高角速射砲八門の外に、四聯集装のポムポム砲― 一装は半吋強の機關砲八門から成る― 二基を備へ、即ち六十四門から噴水の如く間斷なく打ち上げる彈幕で敵の急降下爆撃機を事前に粉碎する用意を持つてゐた。
  24. ^ 三和によれば、山本長官の発言は相手の自信の程度を確かめるための話術であったという[148]
  25. ^ キング・ジョージ5世とプリンス・オブ・ウェールズはキングジョージ5世級戦艦の同型艦、レナウンとレパルスはレナウン級巡洋戦艦の同型艦である[147]
  26. ^ 第三戦隊(司令官三川軍一中将)[153]の金剛型4隻(金剛、比叡、榛名、霧島)のうち、三川中将直率の第1小隊(比叡霧島)は南雲機動部隊護衛艦艇としてハワイ作戦に参加[154]、不在[155]
  27. ^ 宇垣纏『戦藻録』(1941年12月10日記事)〔 十二月十日 水曜日 雨 (X-2) アバリ、ビカン上陸成功。馬来沖海戦。特別攻撃隊。ギルバート占領 〕[165]
  28. ^ 馬来部隊のマレー半島コタバル上陸は、真珠湾攻撃よりも一時間はやく12月8日午前2時15分から実施された[170]
  29. ^ 駆逐艦4隻の内訳は[173]エクスプレステネドスエレクトラヴァンパイアであった[172]
  30. ^ この部隊は第25軍[174](司令官山下奉文中将)が指揮していた[175][176]。12月8日早朝、同部隊はコタバル上陸作戦を敢行して成功した[177]
  31. ^ レパルスの生存者は駆逐艦ヴァンパイア (HMAS Vampire, I68) とエレクトラ (HMS Electra, H27)) に収容された[203]
  32. ^ 1942年(昭和17年)2月20日のニューギニア沖海戦では、空母レキシントンを攻撃した一式陸上攻撃機が直衛のF4F戦闘機に迎撃され、全滅に近い損害をうけながら、全く戦果をあげられなかった[225]

脚注 編集

  1. ^ ハワイ海戦、マレー沖海戦 1942, p. 31(原本38-39頁)
  2. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 68–73イギリス、キング・ジョージ5世級
  3. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 353–354列強の戦艦建造計画について ◇イギリス海軍
  4. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 195–196世界をあげての巨艦時代
  5. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 61.
  6. ^ ジョーダン、戦艦 1988, p. 73.
  7. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 18–19(ライン演習作戦各部隊行動図)
  8. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 115–118巡洋戦艦「フッド」轟沈
  9. ^ a b ヒトラーの戦艦 2002, pp. 218–222〈フッド〉轟沈
  10. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 118–121ビスマルクに三弾命中
  11. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 201–209(15)突然の変針命令
  12. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 122.
  13. ^ a b 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 218(北大西洋におけるビスマルク追撃態勢)
  14. ^ a b c ヒトラーの戦艦 2002, pp. 222–224当てのない追跡行
  15. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 125.
  16. ^ Barnett, p. 297-299
  17. ^ a b キーガン 2015, p. 163.
  18. ^ a b 帝国の落日(下) 2010, pp. 260–261.
  19. ^ 大東亞戰爭海軍作戰寫眞記録(1) 1942, p. 26原本22-23頁
  20. ^ グレンフェル 2008, p. 80.
  21. ^ a b c d ビスマルクの最期 1982, p. 415.
  22. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 153.
  23. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 100地図1 マレー半島とシンガポールの攻略ルートと主要関連地名
  24. ^ a b c d 智将小沢治三郎 2017, pp. 22–24.
  25. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 178a表15、日本軍攻撃隊一覧(元山空、美幌空、鹿屋空)
  26. ^ a b c 戦史叢書95 1976, pp. 181–182馬来部隊
  27. ^ a b 別冊歴史読本(45) 2009, pp. 110–111(1941.12.10)マレー沖海戦/英首相チャーチルを苦悩させた新鋭戦艦の撃沈
  28. ^ キーガン 2015, p. 168.
  29. ^ a b 戦史叢書95 1976, pp. 227–229マレー方面航空作戦、マレー沖海戦
  30. ^ a b c 戦史叢書80 1975, p. 113.
  31. ^ a b ニミッツ 1962, p. 30.
  32. ^ a b 戦史叢書80 1975, pp. 85–90マレー沖海戦
  33. ^ 南方圏要覧 1942, pp. 204–205(原本389-390頁)八、マレー沖海戰
  34. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 69.
  35. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 117–119.
  36. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 100–101「ライン」演習作戦
  37. ^ 撃沈戦記 1988, pp. 336–338「ビスマルク」大西洋へ
  38. ^ 撃沈戦記 1988, pp. 339–340水平線上の艦影
  39. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 110–111防禦力で劣る巡洋戦艦
  40. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 68.
  41. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 130–131.
  42. ^ 撃沈戦記 1988, p. 338.
  43. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 132–135(9)情報はイギリス海軍省に
  44. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 22–24.
  45. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 211–214ドラマのはじまり
  46. ^ a b 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 106–110「ビスマルク」出撃
  47. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 65–66.
  48. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 154–159(11)スカパ・フローに緊張走る
  49. ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, pp. 140–141.
  50. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 62.
  51. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 214–216〈ビスマルク〉はどこに
  52. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 78.
  53. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 70.
  54. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 167(ドイツ機動部隊、イギリス重巡と遭遇)
  55. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 89–96.
  56. ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, pp. 143–144.
  57. ^ 撃沈戦記 1988, p. 339b.
  58. ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, pp. 146–147(ビスマルク追跡図-1)(1941年5月23日午後7時22分~24日午前8時)
  59. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 175–200(14)フッド轟沈
  60. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 124–125(デンマーク海峡海戦~ヴィクトリアス攻撃まで)
  61. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 115.
  62. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 136–137.
  63. ^ a b c ビスマルクの最期 1982, p. 143.
  64. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 180.
  65. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 183.
  66. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 121.
  67. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 194(アイスランド沖海戦航跡図)
  68. ^ 撃沈戦記 1988, pp. 342–344第五斉射の一弾
  69. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 60–63イギリス、フッド級
  70. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 147–150.
  71. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 150–151.
  72. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 188.
  73. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 152.
  74. ^ a b c ヒトラーの戦艦 2002, p. 221.
  75. ^ Garzke, p. 180
  76. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 156.
  77. ^ a b ビスマルクの最期 1982, p. 154.
  78. ^ ジョーダン、戦艦 1988, p. 71.
  79. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 155.
  80. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 191–193.
  81. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 198.
  82. ^ Garzke, p. 179
  83. ^ a b c ビスマルクの最期 1982, p. 166.
  84. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 419.
  85. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 195.
  86. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 167.
  87. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 196.
  88. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 168.
  89. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 197.
  90. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 170.
  91. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 171.
  92. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 159.
  93. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 176.
  94. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 211.
  95. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 185.
  96. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 186.
  97. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 187.
  98. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 192–193.
  99. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 216–217.
  100. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 194.
  101. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 220.
  102. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 221.
  103. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 199–203.
  104. ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, p. 151.
  105. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 208–210.
  106. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 224–230(18)ソードフィッシュ雷撃機との死闘
  107. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 212.
  108. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 230.
  109. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 206.
  110. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 217–219.
  111. ^ ビスマルクの最期 1982, pp. 252–253(5月25日朝から5月27日まで、各艦航跡図)
  112. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 241(ビスマルク、触接を断つ)
  113. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 223.
  114. ^ 木俣、大西洋・地中海 2004, p. 155(ビスマルク追跡図-2)(1941年5月24日午前8時~27日午前10時36分)
  115. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 247.
  116. ^ 地中海の戦い 1993, pp. 119–120.
  117. ^ a b Jack Greene and Alessandro, pp.181-191
  118. ^ 地中海の戦い 1993, p. 132.
  119. ^ グレンフェル 2008, p. 78.
  120. ^ グレンフェル 2008, p. 68.
  121. ^ 帝国の落日(下) 2010, pp. 237–245帝国の無敵神話を粉砕したシンガポール陥落
  122. ^ M.ミドルブルック「戦艦」早川書房 1979
  123. ^ 戦史叢書80 1975, p. 44.
  124. ^ グレンフェル 2008, p. 82.
  125. ^ 戦史叢書80 1975, p. 48.
  126. ^ 戦史叢書80 1975, p. 69.
  127. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 82–85マレー上陸作戦
  128. ^ a b c 戦史叢書80 1975, p. 88.
  129. ^ a b ニミッツ 1962, p. 15.
  130. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 66.
  131. ^ a b グレンフェル 2008, p. 81.
  132. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 176.
  133. ^ Chesneau, p. 12
  134. ^ HMS Hermes, British aircraft carrier, WW2, Naval-History.Net, http://www.naval-history.net/xGM-Chrono-04CV-Hermes.htm 2010年1月27日閲覧。 
  135. ^ グレンフェル 2008, pp. 182–184.
  136. ^ グレンフェル 2008, p. 85.
  137. ^ a b c 戦史叢書80 1975, p. 89.
  138. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 100–101日本、長門級
  139. ^ Shin Sekai Asahi Shinbun 1941.03.22 新世界朝日新聞/nws_19410322(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022458200  p.2 〔 日本の四万噸大戰艦「日進」「高松」と命名 ジエーン海軍年鑑で發表す
  140. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 283–285大和の情報収集に失敗した米海軍
  141. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, p. 202.
  142. ^ 福井、日本戦艦物語(II) 1992, pp. 192–193世界空前の巨大戦艦
  143. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 100–102日本、大和級
  144. ^ a b 戦史叢書95 1976, p. 229a.
  145. ^ a b ハワイ海戦、マレー沖海戦 1942, pp. 30–31(原本36-38頁)
  146. ^ 阿川弘之「山本五十六(下)」新潮文庫 ISBN 978-4-10-111004-2
  147. ^ a b 追悼山本五十六 2010, p. 215.
  148. ^ a b c 戦史叢書80 1975, p. 87.
  149. ^ a b 智将小沢治三郎 2017, p. 56.
  150. ^ 戦史叢書95 1976, pp. 164–166南方部隊(挿図第二表参照)
  151. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 55a-56馬来方面作戦部隊
  152. ^ 聯合艦隊作戦室 1997, pp. 26–27作戦室の店開き
  153. ^ 戦史叢書10 1967, p. 170.
  154. ^ 戦史叢書95 1976, pp. 162–164ハワイ作戦部隊
  155. ^ 戦史叢書10 1967, p. 257.
  156. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, pp. 27–28.
  157. ^ 戦史叢書80 1975, p. 55b.
  158. ^ 戦史叢書95 1976, pp. 167–168馬来部隊及びジャワ西部への進攻部隊(挿図第二表参照)
  159. ^ 巡洋艦戦記 2011, pp. 259–263(3)ついに英二戦艦を逸す
  160. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 123–125一 南西方面における潜水艦戦/開戦初頭における作戦/兵力展開
  161. ^ 戦史叢書95 1976, pp. 173–175南方作戦部隊
  162. ^ 戦史叢書95 1976, p. 228.
  163. ^ 愛宕奮戦記 2008, p. 45.
  164. ^ 戦藻録 1968, p. 39.
  165. ^ a b c 戦藻録 1968, pp. 42–46.
  166. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 102–103大東亞戦争と呼称決定
  167. ^ 別冊歴史読本(45) 2009, pp. 96–97(1941.12.8~45.2.15)マレー攻略作戦
  168. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, pp. 37–38.
  169. ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 44–49.
  170. ^ 戦史叢書80 1975, p. 75.
  171. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 158.
  172. ^ a b グレンフェル 2008, pp. 96–97.
  173. ^ 撃沈戦記 1988, p. 105.
  174. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 68.
  175. ^ 別冊歴史読本(45) 2009, p. 97.
  176. ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 25–34全滅を賭したコタバル上陸作戦
  177. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 83–84.
  178. ^ ニミッツ 1962, p. 28.
  179. ^ 聯合艦隊作戦室 1997, p. 31(マレー沖海戦図)
  180. ^ グレンフェル 2008, p. 98.
  181. ^ a b 智将小沢治三郎 2017, p. 51.
  182. ^ 聯合艦隊作戦室 1997, pp. 29a-30英戦艦出現
  183. ^ 戦史叢書98 1979, pp. 125–127マレー沖海戦
  184. ^ a b 戦史叢書80 1975, p. 86.
  185. ^ 巡洋艦戦記 2011, pp. 260–261.
  186. ^ a b 聯合艦隊作戦室 1997, p. 29b.
  187. ^ a b 戦史叢書80 1975, p. 90.
  188. ^ a b 南方進攻航空戦 2002, p. 160.
  189. ^ グレンフェル 2008, p. 100.
  190. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 40.
  191. ^ 戦史叢書98 1979, p. 126.
  192. ^ 南方進攻航空戦 2002, pp. 163–164.
  193. ^ 戦史叢書95 1976, p. 179.
  194. ^ 南方進攻航空戦 2002, pp. 164–165.
  195. ^ 聯合艦隊作戦室 1997, pp. 30–32マレー沖海戦
  196. ^ 南方進攻航空戦 2002, pp. 165–166.
  197. ^ 南方進攻航空戦 2002, pp. 167–168.
  198. ^ a b 南方進攻航空戦 2002, p. 169.
  199. ^ a b Chesneau, p. 13
  200. ^ グレンフェル 2008, p. 103.
  201. ^ グレンフェル 2008, p. 104.
  202. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 174.
  203. ^ a b 南方進攻航空戦 2002, p. 179.
  204. ^ グレンフェル 2008, p. 105.
  205. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 175.
  206. ^ a b c d e death-of-a-battleship-2012-update
  207. ^ グレンフェル 2008, p. 106.
  208. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 177.
  209. ^ グレンフェル 2008, p. 107.
  210. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 178b表17『プリンス・オブ・ウェールズ』『レパルス』戦傷者数
  211. ^ 『20世紀全記録 クロニック』小松左京堺屋太一立花隆企画委員。講談社、1987年9月21日、p613。
  212. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 220.
  213. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, pp. 287–303(27)致命的な一撃
  214. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 225–227ソードフィッシュの雷撃
  215. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 127–130「ビスマルク」壮烈な最期
  216. ^ 戦史叢書10 1967, p. 143.
  217. ^ 戦史叢書10 1967, pp. 482a-484五 兵術思想に及ぼした影響
  218. ^ 戦史叢書95 1976, pp. 229b-230南西方面航空作戦戦果の評価と影響
  219. ^ 戦史叢書95 1976, pp. 193–194雷撃
  220. ^ a b 追悼山本五十六 2010, p. 216.
  221. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 117–119海軍傭兵思想への影響
  222. ^ a b 戦史叢書95 1976, pp. 229c-230.
  223. ^ a b 智将小沢治三郎 2017, p. 55.
  224. ^ 戦史叢書10 1967, p. 483.
  225. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 177–178ラバウル沖航空戦
  226. ^ 戦史叢書80 1975, pp. 121–123英国への影響
  227. ^ 聯合艦隊作戦室 1997, pp. 32–37軌道に乗ったマレー作戦
  228. ^ 戦史叢書80 1975, p. 122.
  229. ^ a b c 高松宮日記第3巻 1995, pp. 333–334.
  230. ^ 戦士の肖像 2004, pp. 44–45戦場に投じた花束
  231. ^ 無敵荒鷲魂 1942, p. 78原本135頁
  232. ^ 南方進攻航空戦 2002, p. 189.
  233. ^ a b 智将小沢治三郎 2017, pp. 57–58.
  234. ^ 半藤一利編 『太平洋戦争 日本軍艦戦記』文藝春秋文春文庫ビジュアル版、1985年 209頁「不運の英艦隊指揮官-トム・S・V・フィリップス」
  235. ^ a b 日本海防艦戦史 1994, pp. 22–23英戦艦をさがした海防艦
  236. ^ UK to investigate claims that wrecks of British warships being plundered for scrap metal by Chinese piratesIndependent.co.uk 2018年8月19日
  237. ^ マレーシア、中国船を拿捕=沈没戦艦から遺物あさる”. 時事通信 (2023年5月30日). 2023年5月30日閲覧。
  238. ^ ビスマルクの最期 1982, p. 153.
  239. ^ 巨大戦艦ビスマルク 2002, p. 190.

参考図書 編集

  • 池田清『重巡摩耶 元乗組員が綴る栄光の軌跡』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X 
  • 宇垣纏成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。 
  • 生出寿『智将小沢治三郎 沈黙の提督 その戦術と人格』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2017年7月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-3017-7 
  • ジョン・キーガン「第八章 ひとりきりの首相 一九四〇 ~ 四一年」『チャーチル 不屈の指導者の肖像』富山太佳夫、岩波書店、2015年8月(原著2002年)。ISBN 978-4-00-023887-8 
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1994年9月。ISBN 4-8099-0192-0 
  • 木俣滋郎「(10)グリーンランド沖の大捕物」『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7 
  • エドウィン・グレイ『ヒトラーの戦艦 ドイツ戦艦7隻の栄光と悲劇』都島惟男 訳、光人社〈光人社NF文庫〉、2002年4月。ISBN 4-7698-2341-X 
  • ラッセル・グレンフェル『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録』田中啓眞 訳、錦正社、2008年8月(原著1953年)。ISBN 978-4-7646-0326-4 
  • ルードヴィック・ケネディ『戦艦ビスマルクの最期』内藤一郎 訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1982年9月。ISBN 4-15-050082-7 
  • 小板橋孝策『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』光人社〈光人社NF文庫〉、2008年2月。ISBN 978-4-7698-2560-9 
  • 神立尚紀「壹岐春記 戦場に投じた戦士の花束」『戦士の肖像』株式会社文藝春秋〈文春ネスコ〉、2004年8月。ISBN 4-89036-206-1 
  • クリストファー・ショアーズ、ブライアン・カル「第三章 災難につぐ災難」『南方進攻航空戦 1941 ― 1942 BLOODY SHAMBLES』伊沢保穂 訳、株式会社大日本絵画、2002年1月。ISBN 4-499-22770-4 
  • ジョン・ジョーダン『戦艦 AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS』石橋孝夫(訳)、株式会社ホビージャパン〈イラストレイテッド・ガイド6〉、1988年11月。ISBN 4-938461-35-8 
  • 世界の艦船増刊第67集
  • 杉本惇「山本元帥の思い出 海軍大佐 三和義勇」『追悼 山本五十六 海軍機関誌の「追悼号」が伝える在りし日の山本元帥の姿……。直近の人々が語る貴重な証言集!』新人物往来社、2010年6月。ISBN 978-4-404-03867-8 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第3巻 昭和十五年~十六年』中央公論社、1995年11月。ISBN 4-12-403393-1 
  • 永井喜之、木俣滋郎「第2部 第二次大戦/外国編/7.イギリス巡洋戦艦「フッド」」『撃沈戦記』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8 
  • 中島親孝「第一章 万里の波濤〈第二艦隊参謀時代(一)〉」『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社〈光人社NF文庫〉、1997年10月。ISBN 4-7698-2175-1 
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲・富永謙吾 訳、恒文社、1962年12月。 
  • リチャード・ハンブル『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』実松譲 訳、サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫(26)〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9 
  • 平間源之助 著 著、平間洋一 編『軍艦「鳥海」航海記 平間兵曹長の日記 昭和16~17年』イカロス出版、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0634-1 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第二巻 日本戦艦物語〔Ⅱ〕』光人社、1992年8月。ISBN 4-7698-0608-6 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』 第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』 第80巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍航空概史』 第95巻、朝雲新聞社、1976年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • 「丸」編集部編「重巡「最上」出撃せよ ミッドウェーの惨劇を艦長が吐露する痛恨の手記 ― 曾爾章」『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9 
  • 三野正洋「第三期/一九四一年七月から十二月まで」『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 
  • ブルカルト・フォン・ミュレンハイム=レッヒベルク『巨大戦艦ビスマルク 独・英艦隊、最後の大海戦』佐和誠 訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、2002年7月。ISBN 4-15-050269-2 
  • ジャン・モリス『帝国の落日〔上巻〕 パックス・ブリタニカ完結篇』椋田直子、株式会社講談社、2010年9月(原著1978年)。ISBN 978-4-06-215247-1 
  • ジャン・モリス『帝国の落日〔下巻〕 パックス・ブリタニカ完結篇』椋田直子、株式会社講談社、2010年9月(原著1978年)。ISBN 978-4-06-215248-8 
  • 佐藤實 編『未公開写真で初めてわかる大東亜戦争 秘蔵アルバムでよみがえる英霊たちの勇姿』新人物往来社〈別冊歴史読本45〉、2009年8月。ISBN 978-4-404-03645-2 
  • Barnett, Correlli. Engage the enemy more closely: the Royal Navy in the Second World War. New York: W.W. Norton, 1991. ISBN 0-39302-918-2
  • Chesneau, Roger, ed (1980). Conway's All the World's Fighting Ships 1922-1946. Greenwhich: Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-146-7.
  • Garzke, William H., Jr.; Dulin, Robert O., Jr. (1980). British, Soviet, French, and Dutch Battleships of World War II. London: Jane's. ISBN 0-7106-0078-X
  • Jack Greene and Alessandro, The Naval War in the Miditerranean 1940-1943, Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2

関連項目 編集

外部リンク 編集