ヘスケス (Hesketh) は1974年から1978年までコンストラクターとしてF1に参戦していたイギリスのレーシングチーム。

ヘスケス
参戦年度 1974 - 1978
出走回数 52
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル 0
優勝回数 1
通算獲得ポイント 48
表彰台(3位以内)回数 7
ポールポジション 0
ファステストラップ 1[注釈 1]
F1デビュー戦 1974年南アフリカGP
初勝利 1975年オランダGP
最終勝利 1975年オランダGP
最終戦 1978年ベルギーGP
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チーム代表は第3代ヘスケス男爵のアレクサンダー・ヘスケス(以下「ヘスケス卿」)。

チーム発足 編集

イギリスのレース好きの青年貴族、ヘスケス卿がF3レーサーのアンソニー・"バブルス"・ホースリーと意気投合し、1972年にレーシングチームを結成。さらに「壊し屋」の異名をとるF3レーサーのジェームス・ハントが加わる。ハントが加わってしばらくは2台体制でF3に参戦していたが、ほどなく、ホースリーはマネージャー業に専念し、ハントの1台体制となる。

1973年、チームはサーティースの車両でヨーロッパF2選手権にステップアップしたが、ハントが車を壊してしまい、「F2もF1も大してコストは変わらないだろう」というあっさりした判断からF1進出を決めた[1]

F1参戦 編集

ヘスケス卿時代 (1973年 - 1975年) 編集

 
ヘスケス・308Bに乗るジェームス・ハント(1975年)。車体にはスポンサーロゴが一切つけられていない。

1973年から1975年の3年間は、オーナーのヘスケス卿、マネージャーのホースリーによる運営で、ドライバーと車両は、基本的にハントの1カーエントリーだった。

この3年間の予算はヘスケス卿が自身の事業で稼いだ資産から供出され[2]、「スポンサーを持たない」ことを美徳とし、車両には、ユニオンジャックに基づき、白地に青と赤のストライプをあしらうというシンプルなカラーリングを施していた[3]

1973年 編集

ヘスケス・レーシングは、チームとしては、1973年の第6戦モナコGPからF1への参戦を開始した。

初年度は、購入したマーチ・731を使用して参戦した。マーチ・731を入手する際、同車の設計者であるハーベイ・ポスルスウェイトマーチから引き抜き、1973年シーズン中にポスルスウェイトが731に独自の改良を施した結果、ヘスケスの731はマーチのワークスチーム(STPマーチ)の同型車よりも速くなった。

1974年 編集

1974年シーズンからフル参戦を開始し、開幕2戦目までは引き続きマーチ・731を使用した。第3戦1974年南アフリカグランプリ英語版から、ポスルスウェイトが新規に設計した「ヘスケス・308」を投入し、これにより、ヘスケスはコンストラクター(車両製造者)としてのデビューを果たした。308はフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載するいわゆる「キットカー」だったが、スポーツカーノーズの先端に通常のフロントウイングを装着するという独自性をもつ車両だった。

この年はハントが3度の3位表彰台を勝ち取った。

1975年 編集

 
ヘスケス・308C。1975年シーズンの最終2戦のみで使用された。

1975年シーズンは、前年の308を改善した「308B」をポスルスウェイトが開発し、開幕戦から投入した。

この年の第8戦オランダGP英語版で、ハントはフェラーリニキ・ラウダとのマッチレースを制し、チーム唯一となる勝利を挙げた。

ハントは他にも2位を3回獲得し、ヘスケスはコンストラクターズ選手権4位、ハント自身もドライバーズランキングで4位となるという好成績を収めた。この年は、数戦でハント以外のドライバーもヘスケスの車両で参戦したが、ハント以外のドライバーがポイントを獲得することはなかった。

第13戦と第14戦(最終戦)ではハントのみ新車の308Cを使用した。この車両は、フロントサスペンションに通常のスプリングに代えてラバーコーンを使用した画期的な車両だった。

活動中止 (1975年11月) 編集

1975年シーズン初めの時点で、チームはスポンサーなしでは運営が難しい財政状況となり、ヘスケス卿はスポンサーを探したものの、適当なスポンサーを獲得することはできなかった[2]。そうして、シーズン終了後の11月7日、チームはF1活動の中止を発表した[2]

活動中止を発表した時点で保有していた2台の308C(ハントの1号車と、半完成状態の2号車)は売却されることになり[4][5]、この2台を取得したウルフ・ウィリアムズは「ウィリアムズ・FW05」として翌年に参戦させた[6]

ドライバーのハントはマクラーレンに移籍し[7]、車両の設計者であるポスルスウェイトは売却された308Cとともにウルフ・ウィリアムズに移籍した[5]。チーフメカニックのデイブ・シムス(Dave "Beaky" Sims)のような、その他の主要な関係者も他のチームへと移っていった。

ホースリー時代 (1976年 - 1978年) 編集

 
308Dを駆るハラルド・アートル1976年アメリカ西GP英語版

1976年はヘスケス卿の資金が尽き、ハントはマクラーレン、ポスルスウェイトはウィリアムズに移籍してしまった。前年にヘスケスからスポット参戦したハラルド・アートルをレギュラードライバーに据え、開幕戦は欠場するも、第5,8-10,12-15戦には2台体制で参戦。しかし予選は20位近辺を彷徨い、決勝も最高位が7位とポイントまで後一歩及ばなかった。

1977年は第5-16戦の参戦にとどまった。第5戦(チームにとっての開幕戦)から新車308Eを実戦投入するも、順位は改善されず、予選最高位13位・決勝最高位7位と再びノーポイントとなった。ドライバーは、アートル、ヘクトール・レバークイアン・アシュレーが参戦したが、シーズン全体でヘスケス・レーシングは10回もの予選落ちを喫した(後述するペントハウス・リズラ・レーシングは予選落ちを記録していない)。

1978年は、タイトルスポンサーにカメラメーカーのオリンパスを迎え、ヘスケス・レーシングとしてはここに至って初めて、スポンサーらしいスポンサーを得てシーズンに臨んだ。

車両は前年使用した308Eを継続。第1,2戦はディヴィナ・ガリカ、第3戦はエディ・チーバー、第4-6戦はデレック・デイリーがドライブするも予備予選落ち2回、予選落ち3回、完走1回という散々な成績に終わり、第6戦終了後、チームはF1から撤退した。

活動終了後 編集

チームの活動終了後、多くのエンジニアたちは他のチームへと移っていったが、ヘスケス卿は残ったエンジニアたちをイーストン・ネストンの「馬小屋」で雇い続けた。そこでは他のコンストラクターからの委託を受けて、レース用の車両や部品の製造、整備が行われるようになり、この事業は1980年代まで行われ、ロータスやリジェのF1・F2車両のいくつかはヘスケスの作業場で製造された。1970年代後半から、ヘスケス卿はオートバイ製造に乗り出し、この事業は1980年代に売却したが、事業が人手に渡った後もイーストン・ネストンの作業場は2000年代までオートバイ製造に使われ続けた。

ヘスケス卿自身は、1975年限りでチームの運営からは手を引いた後、1980年代後半から1990年代前半にかけて貴族院政治家として保守党政権で要職を務めた。また、1993年から2000年までブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ英語版 (BRDC) の会長を務めた。

ペントハウス・リズラ・レーシング (1976年 - 1977年) 編集

308D(1976年)
308E(1977年仕様)[注釈 2]
プライベーターのペントハウス・リズラ・レーシングの車両。男性向け雑誌『ペントハウス』がスポンサーとなった。

1975年にヘスケス卿がチームの運営から手を引いた際、残された308の内の2台はホースリーが入手したが、もう1台はガイ・エドワーズが買い取り、エドワーズは独自にペントハウスとリズラをスポンサーに付け、プライベーターとして参戦した。

車両についてはホースリーのヘスケス・レーシングと融通しつつ、1977年シーズンはルパート・キーガンをレギュラーに据えて参戦した。

エピソード 編集

  • ヘスケスはモータースポーツが富裕層の娯楽であった往時の雰囲気を1970年代に再現しようとした。高級車やヘリコプター(モナコではクルーザー)に乗ってサーキットに現れ、シャンパンと豪華な食事をふるまうという派手な金遣いはパドックにおいて、主にイギリス人ジャーナリストから、顰蹙を買ったが、F1で優勝まで果たした点でただの道楽チームに終わらなかった。
  • イギリスを背負って立つチームに、という意気込みがあり、車両には白地に青と赤のストライプというユニオンジャックの配色を施した。シンボルキャラクターは、ユニオンジャックの描かれた白いヘルメットを被ったテディベア(1974年から使用)。
  • ハントのレーシングスーツには"Sex, Breakfast of Champions"(セックスはチャンピオンたちの朝食)という言葉が記された。

車両 編集

  • 308 / 308B / 308D - 計4台が製造された[8]。3台は「308」として製造され、2号車と3号車は後に「308B」にアップデートされた[8]。最後に製造された4号車のみ初戦から「308D」仕様でレースに投入された[8]
  • 308C - 計2台が製造された[8]。308Cとして使用されたのは1号車のみで、1975年時点で半完成状態だった2号車は翌年の投入初戦から「ウィリアムズ・FW05」として使用された[8]
  • 308E - 計5台が製造された[8]

戦績 編集

F1 (世界選手権) 編集

チーム 車体[8] エンジン ドライバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 Points WCC
仕様 個体
1973年 ヘスケス・レーシング マーチ・731 フォード コスワース・DFV 3.0 V8 ARG BRA RSA ESP BEL MON SWE FRA GBR NED GER AUT ITA CAN USA N/A1 N/A1
  ジェームス・ハント 9 6 4 3 Ret DNS 7 2
1974年 ヘスケス・レーシング マーチ・731 フォード・コスワース・DFV 3.0 V8 ARG BRA RSA ESP BEL MON SWE NED FRA GBR GER AUT ITA CAN USA N/A1 N/A1
  ジェームス・ハント Ret 9
308 308/1 Ret Ret 15 6th
308/2 10 Ret Ret 3 Ret Ret
308/3 Ret 3 Ret
308B 308/2 4 3
308 308/1   イアン・シェクター DNQ
1975年 ヘスケス・レーシング 308B 308/3 フォード・コスワース・DFV 3.0 V8 ARG BRA RSA ESP MON BEL SWE NED FRA GBR GER AUT ITA USA 33 4th
  ジェームス・ハント 2 6 Ret
308/2 Ret Ret Ret Ret 1 2 4 Ret 2
308C 308C/1 5 4
308B 308/3   ブレット・ランガー 13 10 Ret
ハリー・スティラー・レーシング 308 308/1   アラン・ジョーンズ Ret Ret Ret 11
ポーラー・キャラバン英語版 308B 308/3   トルステン・パーム英語版 DNQ 10
ヴァルシュタイナー 308 308/1   ハラルド・アートル 8 Ret 9
1976年 ヘスケス・レーシング 308D 308/3 フォード・コスワース・DFV 3.0 V8 BRA RSA USW ESP BEL MON SWE FRA GBR GER AUT NED ITA CAN USA JPN 0 NC
  ハラルド・アートル 15 DNQ DNQ Ret DNQ Ret Ret 7 Ret
308/2 8 Ret 16 DNS 13 8
ペントハウスリズラ・レーシング 308/2   ガイ・エドワーズ DNQ 17 Ret 15
308/4 DNS 20
308/4   ロルフ・シュトメレン 12
308/4   アレックス・リベイロ 12
1977年 ヘスケス・レーシング 308E 308E/2 フォード・コスワース・DFV 3.0 V8 ARG BRA RSA USW ESP MON BEL SWE FRA GBR GER AUT NED ITA USA CAN JPN 0 NC
  ハラルド・アートル Ret DNQ 9 16 DNQ
308E/3   ヘクトール・レバーク DNQ DNQ DNQ
308E/2 Ret DNQ DNQ
308E/3   イアン・アシュレイ DNQ DNQ
308E/2 DNQ 17 DNS
ペントハウス・リズラ・レーシング 308E/1   ルパート・キーガン Ret 12 10 8 Ret
308E/3 Ret 13 Ret Ret
308E/4 Ret 7 9
1978年 オリンパス・カメラ・ヘスケス・レーシング 308E 308E/3 フォード・コスワース・DFV 3.0 V8 ARG BRA RSA USW MON BEL ESP SWE FRA GBR GER AUT NED ITA USA CAN 0 NC
  ディビナ・ガリカ DNQ DNQ
308E/5   エディ・チーバー Ret
308E/5   デレック・デイリー DNPQ DNPQ DNQ
Notes
  • ^1 – コンストラクターとしてエントリーしていない
  • ‡ – 規定周回数の75%を消化せずレース終了、通常のハーフ ポイント

F1 (非選手権レース) 編集

車体[8] エンジン ドライバー 1 2 3
仕様 個体
1973年 サーティース・TS9B フォード コスワース・DFV 3.0 V8 ROC INT
  ジェームス・ハント 3
1974年 マーチ・731G フォード コスワース・DFV 3.0 V8 PRE ROC INT
  ジェームス・ハント Ret
308 308/1 Ret 1
1975年 308B 308/2 フォード コスワース・DFV 3.0 V8 ROC INT SUI
  ジェームス・ハント Ret 8
308 308/1   アラン・ジョーンズ 7
1976年 308B 308/2 フォード コスワース・DFV 3.0 V8 ROC INT
  ジャッキー・イクス 3
308/3   ハラルド・アートル Ret
308/2   ガイ・エドワーズ Ret
1977年 308E 308E/1 フォード コスワース・DFV 3.0 V8 ROC
  ルパート・キーガン 8
1978年 308E 308E/5 フォード コスワース・DFV 3.0 V8 INT
  デレック・デイリー Ret
308E/3   ディビナ・ガリカ Ret

関連項目 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ ヘスケス車両によるファステストラップは1975年アルゼンチングランプリ英語版の1回のみ。そのほか、チーム(ヘスケス・レーシング)としては、1973年にジェームス・ハントがマーチ・731で2回のファステストラップを記録している。
  2. ^ 画像の車両にはヘスケスのテディベアのイラストが付いているが、ヘスケス・レーシングとしてエントリーした車両ではないため、当時の車両にはテディベアのロゴはない。

出典 編集

  1. ^ "トップ10:チーム代表". ESPN F1.(2010年7月21日)2014年3月5日閲覧。
  2. ^ a b c オートスポーツ 1976年1/15号(No.184)、「ヘスケス・レーシング撤退! その噂と真相を探る」(ダグ・ナイ) pp.68–70
  3. ^ オートスポーツ 1974年8/1号(No.148)、「若干23歳のF-1チーム・オーナー トーマス アレキサンダー ヘスケス卿」(Eoin S. Yong) pp.84–87
  4. ^ オートスポーツ 1976年2/1号(No.185)、「F.ウィリアムズ、ヘスケス308Cを購入!?」 p.42
  5. ^ a b オートスポーツ 1976年3/1号(No.187)、「F.ウィリアムズのヘスケス」 p.35
  6. ^ オートスポーツ 1976年5/15号(No.193)、「揺れる人脈、輝くメカニズム」(Jeff Hutchinson) pp.59–63
  7. ^ オートスポーツ 1976年3/1号(No.187)、「マクラーレン・レーシング」 p.35
  8. ^ a b c d e f g h i j k Race Results” (英語). Hesketh Racing. 2023年2月23日閲覧。

参考資料 編集

雑誌 / ムック
  • 『オートスポーツ』(NCID AA11437582
    • 『1974年8/1号(No.148)』三栄書房、1974年8月1日。ASB:AST19740801 
    • 『1976年1/15号(No.184)』三栄書房、1976年1月15日。ASB:AST19760115 
    • 『1976年2/1号(No.185)』三栄書房、1976年2月1日。ASB:AST19760201 
    • 『1976年3/1号(No.187)』三栄書房、1976年3月1日。ASB:AST19760301 
    • 『1976年5/15号(No.193)』三栄書房、1976年5月15日。ASB:AST19760515 
  • 『Racing On』(NCID AA12806221
    • 『No.455 [ニキ・ラウダ]』三栄書房、2011年11月14日。ASIN 477961323XISBN 978-4-7796-1323-4ASB:RON20111001 
    • 『No.493 [70年代F1キットカーの時代]』三栄書房、2018年3月17日。ASIN B073R6R1FHISBN 978-4-7796-3543-4ASB:RON20180201