ヘンリー・シーモア・コンウェイ

ヘンリー・シーモア・コンウェイ元帥英語: Henry Seymour Conway1721年 - 1795年7月9日)は、グレートブリテン王国の軍人、政治家。初代ハートフォード侯爵の弟、ホレス・ウォルポールのいとこであり、オーストリア継承戦争で軍歴をはじめた後、アイルランド主席政務官英語版南部担当国務大臣庶民院院内総務北部担当国務大臣を歴任した。晩年はイギリス軍最高司令官英語版を務めた。

Field Marshal The Honourable
ヘンリー・シーモア・コンウェイ
北部担当国務大臣
任期
1766年5月23日 – 1768年1月20日
君主ジョージ3世
首相チャタム伯爵
前任者グラフトン公爵
後任者ウェイマス子爵
庶民院院内総務
任期
1765年7月14日 – 1768年10月20日
君主ジョージ3世
首相ロッキンガム侯爵
チャタム伯爵
前任者ジョージ・グレンヴィル
後任者ノース卿
南部担当国務大臣
任期
1765年7月12日 – 1766年5月23日
君主ジョージ3世
首相ロッキンガム侯爵
前任者ハリファックス伯爵
後任者リッチモンド公爵
アイルランド担当大臣英語版
任期
1755年 – 1757年
君主ジョージ2世
副知事デヴォンシャー公爵
前任者ジョージ・ジャーメイン
後任者リチャード・リグビー英語版
個人情報
生誕1721年
グレートブリテン王国 グレートブリテン王国ミドルセックスチェルシー
死没1795年7月9日
グレートブリテン王国 グレートブリテン王国バークシャーヘンリー=オン=テムズ英語版
政党ロッキンガム派英語版
配偶者キャロライン・キャンベル
子供アン・シーモア・コンウェイ英語版
兵役経験
所属国グレートブリテン王国 グレートブリテン王国
所属組織 イギリス陸軍
軍歴1737年 - 1793年
最終階級陸軍元帥
戦闘

出自 編集

コンウェイは初代コンウェイ男爵フランシス・シーモア=コンウェイ(コンウェイ男爵の兄ポパム・シーモア=コンウェイ英語版コンウェイ伯爵英語版家の遺産を継承した)と3人目の妻シャーロット(旧姓ショーター)の次男として生まれた[1]。1732年にイートン・カレッジに入学、そのときからいとこのホレス・ウォルポールと親しい間柄になった[1]

初期の軍歴 編集

1737年6月27日、中尉としてモールズワースの竜騎兵連隊英語版に入隊した[2]。1741年2月14日、第1近衛歩兵連隊に移籍して大尉英語版に昇進、1742年5月10日に中佐captain-lieutenant)に昇進した[2]

オーストリア継承戦争ではジョージ・ウェイド元帥の下で1743年6月のデッティンゲンの戦いに参戦、1745年5月にはカンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタスの下でフォントノワの戦いに参戦した[3]。1746年4月6日に第48歩兵連隊英語版長に任命された後、16日に1745年ジャコバイト蜂起におけるカロデンの戦いに参戦した[3]。続いて1747年7月にラウフフェルトの戦いに参戦、瀕死の重傷を負ってフランス軍の捕虜になったが、数日後に仮釈放された[3]。1749年7月に第34歩兵連隊英語版に移籍、1751年には連隊がミノルカ島の駐留軍の一部になった[3]

初期の政歴 編集

1741年、コンウェイは対立候補のないままアントリム・カウンティ選挙区英語版で当選してアイルランド議会の議員になり、同年12月にはサー・ロバート・ウォルポールの勧めでハイアム・フェラーズ選挙区英語版から出馬して当選、グレートブリテン議会英語版議員になった[1]。その後、1747年イギリス総選挙ではペンリン選挙区英語版で、1754年イギリス総選挙ではセント・モーズ選挙区英語版で当選したが、いずれもボスコーエン家の支持を受けての当選だった[1]。1755年3月12日、少将に昇進した[3]

1755年4月、新しく着任したアイルランド総督ハーティントン侯爵ウィリアム・キャヴェンディッシュによって予想外にアイルランド担当大臣英語版に任命された[3]。そのため、1755年10月にようやくアントリム・カウンティ選挙区代表としてアイルランド庶民院に登院した[3]。当時のアイルランド政界では庶民院議長ヘンリー・ボイルアーマー大司教英語版ジョージ・ストーン英語版ジョン・ポンソンビーが政争を繰り広げており、コンウェイの調停が期待された。結局、第一次ニューカッスル公爵内閣が受け入れられる妥協がなされ、ボイルが伯爵に叙され、ポンソンビーが庶民院議長になった[1]。1757年4月、ジョージ2世とジョージ3世寝室宮内官英語版に任命され、1764年まで務めた[1]

七年戦争 編集

 
七年戦争中の1762年にコンウェイによって占領されたヴァルデック城英語版。写真は2012年撮影。

1757年のロシュフォール襲撃において、コンウェイはイギリス軍の副指揮官を務め、フーラ砦(Fouras)への攻撃をしきりに支持したが、それ以外の指揮官は夜襲にのみ同意、結果的には夜襲は失敗[1]、遠征隊は何も果たさないままポーツマスに戻った[3]。総指揮官のジョン・モードント英語版軍法会議で無罪になったものの、2人ともこの失態で名声に影響を受けた[3]。そして、国王ジョージ2世は1758年の戦役でコンウェイの派遣を拒否した[3]。以降次期国王即位(1760年)まで戦場に出られず、1759年にはスロイスで捕虜交換条約を締結しただけだった[1]。1759年4月21日、第1王立竜騎兵連隊英語版長になり[4]、同年8月25日には中将に昇進した[5]

1761年、ドイツでグランビー侯爵ジョン・マナーズ英語版フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル率いる軍勢のイギリス部隊指揮官)の副官を務めた[3]。1761年7月のフィリングハウゼンの戦いでは戦列の中央で部隊を率いたが、敵軍に攻撃されなかった[1]。1762年6月のヴィルヘルムスタールの戦いにも参加、7月にはヴァルデック城英語版を占領した[1]。11月にフォンテーヌブローで予備講和条約が締結されると、イギリス軍の大陸ヨーロッパからの出港を監督、翌年3月に帰国した[1]

後期の政歴 編集

1761年4月、コンウェイはテットフォード選挙区英語版でイギリス庶民院議員に再選[6]、同年7月4日に枢密顧問官に任命された[7]。彼はホイッグ党ロッキンガム派英語版の一員として、ジョージ3世による改革派ジョン・ウィルクスへの訴追(1763年)に反対[3]、その結果として1764年に寝室宮内官と第1王立竜騎兵連隊長を罷免された[3]。これにより政府が政敵を軍から追放すると恐れられ、多くの人々がパンフレットを出版してお互いを告発することとなった[1]

1765年7月、ロッキンガム侯爵の首相就任とともに入閣、南部担当国務大臣を務めた後、1766年5月に北部担当国務大臣に鞍替え、1768年1月にさらに無任所大臣に鞍替えした[3]。コンウェイは就任中にアメリカ植民地への中道政策を支持、印紙法廃止にも支持したほか財務大臣チャールズ・タウンゼンドの徴税政策に反対した[1]

後期の軍歴 編集

1768年1月に大臣を辞任すると陸軍に戻り、1772年5月26日に大将に昇進[8]、同年10月22日にジャージー総督英語版に任命された[9]。この時期にも庶民院の重鎮であり、イギリスによるアメリカ反乱の鎮圧に反対した[10]。その結果、1782年3月の第2次ロッキンガム侯爵内閣イギリス軍最高司令官英語版として入閣したが[10]小ピットの新内閣(1783年成立)に反対したため、1784年イギリス総選挙で敗北して議席を失い、ここにコンウェイの政治生涯が終わりを告げた。以降は軍務に集中してイギリス軍最高司令官を1793年1月に完全引退するまで務めた[10]。1793年10月18日、元帥に昇進[11]、1795年7月9日にバークシャーレメナム英語版パーク・プレイス英語版で死去した[10]

家族 編集

1747年12月9日、ジョン・キャンベル中将英語版(後の第4代アーガイル公爵)の娘キャロライン(第4代エルギン伯爵および第3代エイルズベリー伯爵チャールズ・ブルースの未亡人)と結婚した[10]。2人は1人娘アン・シーモア・コンウェイ英語版をもうけ、アンは後に彫刻家になった[10]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Towse, Clive (23 September 2004). "Conway, Henry Seymour (1719–1795)". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/6122 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  2. ^ a b Heathcote 1999, p. 92.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n Heathcote 1999, p. 93.
  4. ^ "No. 9888". The London Gazette (英語). 17 April 1759. p. 2.
  5. ^ "No. 9924". The London Gazette (英語). 21 August 1759. p. 2.
  6. ^ "No. 10096". The London Gazette (英語). 14 April 1761. p. 2.
  7. ^ "No. 10118". The London Gazette (英語). 30 June 1761. p. 1.
  8. ^ "No. 11251". The London Gazette (英語). 23 May 1772. p. 2.
  9. ^ "No. 11294". The London Gazette (英語). 20 October 1772. p. 1.
  10. ^ a b c d e f Heathcote 1999, p. 94.
  11. ^ "No. 13582". The London Gazette (英語). 15 October 1793. p. 913.

参考文献 編集

  • Heathcote, Tony (1999年). The British Field Marshals 1733–1997. Pen & Sword Ltd. ISBN 0-85052-696-5

関連図書 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集

グレートブリテン議会英語版
先代
ヘンリー・フィンチ英語版
庶民院議員(ヒガム・フェラーズ選挙区英語版選出)
1741年 - 1747年
次代
ジョン・ヒル
先代
ジョン・イヴリン英語版
ジョージ・ボスカーウェン英語版
庶民院議員(ペンリン選挙区英語版選出)
1747年 - 1754年
同職:ジョージ・ボスカーウェン英語版
次代
リチャード・エッジカム閣下英語版
ジョージ・ボスカーウェン英語版
先代
ロバート・ニュージェント
サー・トマス・クレイヴァリング準男爵英語版
庶民院議員(セント・モーズ選挙区英語版選出)
1754年 - 1761年
同職:ロバート・ニュージェント 1754年
ジェームズ・ニューシャム 1754年 - 1761年
次代
エドマンド・ニュージェント
リチャード・ハッシー
先代
ヘンリー・ボークラーク
ハーバート・ウェストファリング
庶民院議員(テットフォード選挙区英語版選出)
1761年 - 1774年
同職:オーブリー・ボークラーク閣下 1761年 - 1768年
ジョン・ドラモンド英語版 1768年 - 1774年
ピーターシャム子爵英語版 1774年
次代
チャールズ・フィッツロイ閣下英語版
チャールズ・フィッツロイ=スクーダモア英語版
先代
オーガスタス・ハーヴィー閣下
サー・チャールズ・デイヴァース準男爵英語版
庶民院議員(バーリー・セント・エドマンズ選挙区英語版選出)
1775年 - 1784年
同職:サー・チャールズ・デイヴァース準男爵英語版
次代
ジョージ・フィッツロイ閣下
サー・チャールズ・デイヴァース準男爵英語版
アイルランド議会
先代
ジョン・スケッフィントン
ジョン・アップトン
庶民院議員(アントリム・カウンティ選挙区英語版選出)
1741年 - 1768年
同職:アーサー・スケッフィントン 1741年 - 1747年
ヒュー・スケッフィントン 1747年 - 1768年
次代
ダンラス子爵英語版
ビーチャム子爵
公職
先代
ジョージ・ジャーメイン
アイルランド担当大臣英語版
1755年 - 1757年
次代
リチャード・リグビー英語版
先代
ハリファックス伯爵
南部担当国務大臣
1765年 - 1766年
次代
リッチモンド公爵
先代
ジョージ・グレンヴィル
庶民院院内総務
1765年 - 1768年
次代
ノース卿
先代
グラフトン公爵
北部担当国務大臣
1766年 - 1768年
次代
ウェイマス子爵
司法職
先代
サー・コンプトン・ドムヴィル準男爵
アイルランド国王書記長英語版
1768年 - 1788年
次代
サー・ルーシャス・オブライエン準男爵英語版
軍職
先代
フランシス・リゴンアー英語版
第48歩兵連隊英語版
1746年 - 1749年
次代
トリントン子爵
先代
ジェームズ・チャムリー閣下英語版
第34歩兵連隊英語版
1749年 - 1751年
次代
チャールズ・ラッセル
先代
サー・チャールズ・アーマンド・ポウレット英語版
第13竜騎兵連隊英語版
1751年 - 1754年
次代
ジョン・モスティン英語版
先代
ヘンリー・デ・グランゲス英語版
第4アイルランド騎兵連隊英語版
1754年 - 1759年
次代
フィリップ・ホニーウッド英語版
先代
ヘンリー・ホーリー英語版
第1王立竜騎兵連隊英語版
1759年 - 1764年
次代
ペンブルック伯爵英語版
先代
タウンゼンド子爵
兵站部副総監英語版
1767年 - 1772年
次代
ジェフリー・アマースト
先代
サー・ロバート・リッチ準男爵英語版
第4竜騎兵連隊英語版
1768年 - 1770年
次代
ベンジャミン・カーペンター英語版
先代
ジョン・マナーズ英語版
王立近衛騎兵連隊英語版
1770年 - 1795年
次代
リッチモンド公爵
先代
アルベマール伯爵
ジャージー総督英語版
1772年 - 1795年
次代
サー・ジョージ・ハワード英語版
先代
アマースト男爵
イギリス軍最高司令官英語版
1782年 - 1793年
次代
アマースト男爵