ヘンリー・ベネディクト・ステュアート

ヘンリー・ベネディクト・マリア・クレメント・トマス・フランシス・ザヴィア・ステュアート英語: Henry Benedict Maria Clement Thomas Francis Xavier Stuart, 1725年3月11日 - 1807年7月13日)は、ジャコバイトの主張したイングランドおよびスコットランドの王位継承者。ジャコバイトによって「イングランドとアイルランドの王ヘンリー9世およびスコットランドの王ヘンリー」と呼ばれるが、自身ではヨーク枢機卿公(Cardinal-Duke of York)と称した。

ヘンリー・ベネディクト・ステュアート
エンリコ・ベネデット・ストゥアルト
Henry Benedict Stuart
Enrico Benedetto Stuart
フラスカーティ司祭枢機卿
ヘンリー・ベネディクト・ステュアート(アントン・ラファエル・メングス画、1756年、ファーブル美術館蔵)
管区 ローマ司教区
司教区 フラスカーティ
主教区 フラスカーティ
着座 1761年7月13日
離任 1807年7月13日
前任 カミロ・パオルッチ
後任 ジュゼッペ・ドーリア・パンフィーリ
他の役職 サン・ピエトロ大聖堂首席司祭 (1751年 - 1807年)
首席枢機卿 (1803年 - 1807年)
聖職
叙階/叙聖 1748年9月1日
司教/主教 1758年11月19日
枢機卿任命 1747年7月3日
格付 司祭枢機卿
個人情報
本名 Henry Benedict Maria Clement Thomas Francis Xavier Stuart
ヘンリー・ベネディクト・マリア・クレメント・トマス・フランシス・ザヴィア・ステュアート
出生 (1725-03-11) 1725年3月11日
教皇領
ローマ
死去 (1807-07-13) 1807年7月13日(82歳没)
教皇領
ローマ
フラスカーティ
墓所 教皇領
ローマ
サン・ピエトロ大聖堂
両親 父:ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート
母:マリア・クレメンティナ・ソビエスカ
紋章 ヘンリー・ベネディクト・ステュアートの紋章
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ジェームズ老僭王や兄チャールズ若僭王と異なり、王位奪還のための活動を行わず、教皇領カトリック教会の聖職者(枢機卿)として一生を終えた。イタリア語名はエンリコ・ベネデット・ストゥアルト(Enrico Benedetto Stuart)。

生涯 編集

イングランド王ジェームズ2世の息子ジェームズ老僭王と、ポーランドヤン3世ソビエスキの孫娘マリア・クレメンティナ・ソビエスカの間に次男として、父が亡命していたローマで生まれた。ヘンリーはその日のうちにローマ教皇ベネディクトゥス13世によって洗礼され(ベネディクトの名は教皇にちなむ)、同年父によってヨーク公に叙された。

1789年フランス革命が勃発すると、ヘンリーはフランス王からの援助を失って窮地に立たされた。これを見かねたイギリスの駐ヴェネツィア公使は、ヘンリーに対して年金を支払うようジョージ3世に掛け合い、ヘンリーは4000ポンドの年金を受け取った。イギリス政府はこれを純粋な慈善行為としていたが、ヘンリーやジャコバイトは、イギリス政府が返還すると約束していた祖母メアリー・オブ・モデナの結婚持参金の分割払いと見なしていた。

1807年7月13日にフラスカーティで82歳で死去した。遺体は両親や兄と同じくバチカンサン・ピエトロ大聖堂に葬られている。ヘンリーの死によってステュアート家の嫡子孫は絶え、ジャコバイトの主張する王位は、チャールズ1世の娘ヘンリエッタ・アンの血を引く遠戚のサルデーニャカルロ・エマヌエーレ4世やその子孫へと継承されたが、彼らが実際にイングランドとスコットランドの王位を請求することはなかった。

 
サン・ピエトロ大聖堂のステュアート家3人の廟
 
ステュアート家3人の棺

家系図 編集