ベルケ・テムルモンゴル語: Бэрх Төмөр Berge temür、? - 1317年)とは、13世紀後半にモンゴル帝国に仕えたジャライル部国王ムカリ家出身の領侯(ノヤン)

元史』などの漢文史料では別理哥帖木爾(biélǐgē tièmùěr)と表記される。

概要 編集

ベルケ・テムルはモンゴル帝国建国の功臣、ジャライル部の国王ムカリの子孫の一人で、黒竜江下流域に進出したことで知られるシディの息子に当たる[1]。ベルケ・テムルは幼くして父を亡くしたことで母親に学問を教えられ、僅かな誤りがあれば必ず叱責されるような教育を受けて成長した[2]

その後、母親が重い病にかかるとつきっきりで看病をし、事情を知ったオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が医者を派遣すると、医者は昔人は股の肉を割いて与えることで家族の病を癒やしたことがあると述べた。これを聞いたベルケ・テムルは早速自らの肉を削いで薬を煎じたところ、母親の病は治ったが、その頃ベルケ・テムルは憔悴しきっていたという。また、ベルケ・テムルは器量が広く、遠来の客が誤って玉杯を落として割ってしまった時も、泰然自若としていたため周囲の者は感服したという逸話が残っている[3]

その後、ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)に仕えると、ある時ブヤント・カアンは文王について周囲の者に尋ねたことがあったが、多くの者が何も答えられない中、ベルケ・テムルのみは詳細に答えた。そこでブヤント・カアンは酒を賜り、「卿こそモンゴル人の中の儒者である」と語ったという。その後、ブヤント・カアンの治世中の1317年(延祐4年)に32歳で若くして亡くなった[4]

元末に紅巾の乱討伐などで活躍したドルジバルはベルケ・テムルの息子にあたる[5]

ジャライル部スグンチャク系国王ムカリ家 編集

脚注 編集

  1. ^ 『金華黄先生文集』巻25魯国公札剌爾公神道碑,「今上皇帝至正元年、詔贈故朝列大夫僉通政院事別里哥帖穆爾為資善大夫・河南江北等処行中書省右丞・上護軍、追封魯郡公。……公諱別里哥帖穆爾、系出札剌爾氏。六世祖・諱孔温窟哇……五世祖・諱木華黎……曾祖・諱速渾察……祖・諱乃燕……諱碩徳」
  2. ^ 『金華黄先生文集』巻25魯国公札剌爾公神道碑,「公蚤孤、太夫人教以国書、有微過必責之、輙欣然而改刻意於学、孜孜不倦甫成童」
  3. ^ 『金華黄先生文集』巻25魯国公札剌爾公神道碑,「太夫人有疾衣不解帯者旬月薬必親嘗、成宗遣尚医視之、或言昔人有刲股療親疾者。公聞之、則退詣私室刲肉七臠以和薬、疾遂愈、公豊姿凝粋。而器量宏逹嘗燕客僮滌玉杯誤堕地、而砕坐客驚視、而公神色自若衆莫不歎服」
  4. ^ 『金華黄先生文集』巻25魯国公札剌爾公神道碑,「逮事仁宗皇帝眷遇尤渥擢居通政俾世父官。上嘗問周文王父母及其所以興、侍臣未有対者、公言之甚詳。上為之俯聴、賜以巵酒、奨諭之曰『卿蒙古人中儒者也』。公於先世所分食邑平其徭役而恤其貧乏在官恒以律身報国為務論議可否不避嫌疑居五年而終于位公生於至元二十三年□月□□日薨於延祐四年閏月□□日。享年三十有二」
  5. ^ 『元史』巻139列伝26朶爾直班伝,「朶爾直班字惟中、木華黎七世孫。祖曰碩徳、父曰別理哥帖木爾」

参考文献 編集

  • 大葉昇一「クイ(骨嵬、蝦夷)・ギレミ(吉里迷)の抗争とオホーツク文化の終焉」『学苑』第701号、1998年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 堤一昭「元朝江南行台の成立」『東洋史研究』第54巻4号、1996年
  • 堤一昭「大元ウルス江南統治首脳の二家系」『大阪外国語大学論集』第22号、2000年
  • 中村和之「モンゴル時代の東征元帥府と明代の奴児干都司」『中世の北東アジアとアイヌ 奴児干永寧寺碑文とアイヌの北方世界』高志書院、2008年
  • 吉野正史「元朝にとってのナヤン・カダアンの乱:二つの乱における元朝軍の編成を手がかりとして」『史觀』第161冊、2009年