ペルシアのヤコボス

キリスト教の聖人

ペルシアのヤコボスまたはヤコボス・インテルキスス (Jacobus intercisus, James Intercisus, ? - 421年11月27日[注 1]) は、ペルシアキリスト教殉教者で、正教会非カルケドン派カトリック教会聖人。記憶日は11月27日[2]。 インテルキススとはラテン語で「切り刻まれた者」を意味し[1]こま切れの聖ヤコボス (Saint James the Mutilated) とも呼ばれる[3]

ペルシアの聖ヤコボス
ヤコボス・インテルキスス
(聖ニコラ・ボルニチュキ聖堂)
生誕 不明
ペルシア、ベート・ラパト
死没 421年11月27日
ペルシア
崇敬する教派 正教会
非カルケドン派
カトリック教会
記念日 11月27日
テンプレートを表示

歴史的背景 編集

ヤコボスはペルシア帝国サーサーン朝ヤズデギルド1世(在位:399年 - 420年)の家臣であった。 ヤスデギルド1世の死後、バハラーム5世(在位:420年 - 438年または440年)の治下で行われたキリスト教への迫害のために殉教した [注 3]。 同じくバハラーム5世の迫害により殉教した聖人として、聖マハーサポル (St. Maharsapor) が知られる[5][6]

聖人伝 編集

ヤコボスはペルシアの首都であるベート・ラパト(Beth-Lapeta[6])においてキリスト教徒の貴族の家に生まれ、ペルシア王に重用されていた。ヤコボスは王に対する忠誠心により非キリスト教の神を崇めたために母と妻から絶縁された。ヤコボスは、家族は他人となり、神から遠ざかってしまったことを後悔した。

ある日のことヤコボスは、ペルシア王にキリスト教徒かと問いただされ脅されたが、キリスト教徒だと答え信仰を捨てなかった。ペルシア王はキリスト教徒たちへの見せしめのために、ヤコボスを拷問にかけて処刑することにした。刑吏の手により体をこま切れにされることとなったが、ヤコボスは体が一か所切り落とされるたびに神を称えた。ヤコボスは両手足の指、両足、両手、両腕、両腿の28箇所を切断され、最後に斬首されて死んだ。ヤコボスの遺体はキリスト教徒たちの手により盗み出され埋葬されたここまで[7]

聖遺物 編集

 
こま切れの聖ヤコボスの頭のための聖骨箱

ヤコボスの頭の骨は1103年フランストゥール司教区に運ばれ、1440年バチカンに移されたと伝えられている[8]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 但し黄金伝説では420年頃とされている[1]
  2. ^ religious violenceより。"...in 419 or 420 a series of Christian attacks on Magian fire-temples provoked the Sasanian government to a savage persecution of Christians, which in turn led to war between the two empires in 421–422."[4]
  3. ^ バハラーム5世のキリスト教徒への迫害を切っ掛けとし、サーサーン朝と東ローマ帝国テオドシウス朝)間で戦争が勃発した[注 2]

出典 編集

  1. ^ a b 黄金伝説,p 375
  2. ^ Catholic Online, St. James Intercisus
  3. ^ 黄金伝説,p 369
  4. ^ religious violence, p 169,
  5. ^ Catholic Online, St. Maharsapor
  6. ^ a b Lives of the Saints, St. James, Surnamed Intercisus, Martyr
  7. ^ 黄金伝説, p 369-376
  8. ^ 黄金伝説,p 376

参考文献 編集

  • アルバン・バトラー (1866年). “November 27, St. James, Surnamed Intercisus, Martyr 『Volume XI: November. The Lives of the Saints.』”. 2015年10月3日閲覧。
  • ヤコブス・デ・ウォラギネ、前田 敬作(訳)、山中 知子(訳)、2006、『黄金伝説4』、平凡社平凡社ライブラリー〉 ISBN 978-4582765922

外部リンク 編集