ホガット・ベイ (護衛空母)

アメリカ海軍の護衛空母。カサブランカ級。

ホガット・ベイ (USS Hoggatt Bay, CVE-75) は、アメリカ海軍護衛空母カサブランカ級航空母艦の21番艦。

1945年撮影
艦歴
発注
起工
進水 1943年12月4日
就役 1944年1月11日
退役 1946年7月20日
その後 1960年3月31日にスクラップとして廃棄
除籍
性能諸元
排水量 7,800 トン
全長 512.3 ft (156 m)
全幅 108.1 ft (33 m)
吃水 22.5 ft (6.9 m)
機関 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力
最大速 19ノット
航続距離 10,240カイリ(15ノット/時)
乗員 士官、兵員860名
兵装 38口径5インチ砲1基
40ミリ機関砲16基
搭載機 28機

艦歴 編集

ホガット・ベイは合衆国海事委員会の契約下ワシントン州バンクーバーカイザー造船所で建造され、1943年12月4日にヴィクター・サンドリック夫人によって進水する。1944年1月11日にオレゴン州アストリアで海軍に引き渡され、同日W・V・サウンダース艦長の指揮下就役する。

カリフォルニア沖での慣熟訓練の後、ホガット・ベイは3月10日から25日にかけて真珠湾への航空機と海軍要員の輸送任務に就いた。任務からの帰りには、対潜攻撃訓練を行った。5月1日、ホガット・ベイは真珠湾を経てマジュロに向かった。ところで、大西洋の戦いにおける護衛空母と駆逐艦の組み合わせによる対潜掃討部隊の威力は、Uボートに対して効果が高い事が立証されていた。そして、これを今度は太平洋で、日本海軍の潜水艦に対してやってみることとなった。

ホガット・ベイと駆逐艦、護衛駆逐艦で構成された対潜掃討部隊は、5月26日から6月19日までアドミラルティ諸島近海で行動した。ホガット・ベイらの行動海域ではすでに、護衛駆逐艦イングランド(USS England, DE-635)がヘッジホッグを使って5月13日に伊16を撃沈したのを手始めに、5月22日に呂106、5月23日に呂104、5月24日に呂116、そして5月26日に呂108を立て続けに撃沈して賞賛を浴びていた[1]。しかし、弾薬が底をつきかけていたので僚艦のジョージ英語版(USS George, DE-697)、ラビー英語版(USS Raby, DE-698)とともにマヌス島に一旦帰投することとなった。その代わりに、ホガット・ベイの部隊が哨戒を行ったのである[2]。また、弾薬を補給したラビーとジョージ、イングランドもこの部隊に加わった。5月30日0144、ホガット・ベイの護衛役である駆逐艦ヘイゼルウッド(USS Hazelwood, DD-531)が15,000ヤード先にレーダーで目標を探知した。これは呂105であった[2]。0153、呂105が潜航した後、ヘイゼルウッドは呂105をソナー探知し、爆雷攻撃を行う。0435にはラビーとジョージがヘッジホッグ攻撃を行い、ジョージが3発を命中させたと判断したが、呂105を撃沈できなかった。イングランドは、「戦果の独り占めはよくない」と事実上の攻撃を控えているようにとの命令が出されていたが[1]、僚艦の不甲斐なさにイングランドへの禁令は解かれた。31日0500、スパングラーとイングランドが現場海域に到着。スパングラーが呂105をソナー探知してヘッジホッグ攻撃を行ったが、全て外れた。0729、イングランドは呂105をソナー探知し、ヘッジホッグ24発を投下。投下後、複数の水中爆発音を聴取し、呂105を撃沈した。呂105はイングランドが撃沈した6隻目の潜水艦であった[1]。哨戒期間の後半では、6月11日にホガット・ベイの航空機は油帯を発見[3]。これに対して駆逐艦テイラー (USS Taylor, DD-468) が油帯周辺に急行して爆雷攻撃を行い、たまらず浮上してきた呂111を砲撃で破壊してから、止めの爆雷を発射して撃沈した[4]。一連の対潜掃討は、マリアナ諸島への進撃に対する海中からの不意の攻撃を防ぐ事となった。

ホガット・ベイの対潜掃討部隊はエニウェトク環礁に短期間停泊した後、7月5日から8月9日までマリアナ諸島海域で行動し、期間終了後はマヌス島に帰投した。この期間中の7月18日、ホガット・ベイのレーダーが、19km離れた位置で浮上中の潜水艦を探知。ホガット・ベイからの命を受けて護衛駆逐艦ワイマン英語版(USS Wyman, DE-38)、レイノルズ英語版(USS Reynolds, DE-42)が確認のために現場海域に向かう。19日0024に2隻は到着。ワイマンは3000mの距離で探知していた潜水艦を見失う。これは、相手が潜航したことを意味していた。それからまもなく、ワイマンのソナーが1400mの距離で潜水艦を探知する。0051、ワイマンはヘッジホッグを投下。その後再探知したため、再度ヘッジホッグを投下した。0125、3回目のヘッジホッグを投下。0130、海中で5回の小爆発がワイマンの艦体を揺さぶった。続いて、海中で1回の大きな爆発音を聴取。その後、ワイマンはソナーを使用したが、潜水艦を探知することはなかった。この潜水艦は伊5であった。マリアナ諸島を手中にしたアメリカ軍の次の目標はパラオであり、ペリリュー島は航空基地の候補地であった。9月1日、ホガット・ベイの対潜掃討部隊は出撃し、2ヵ月間マリアナ諸島の南方と西方で対潜哨戒を行った。10月3日未明、ホガット・ベイのレーダーは遠距離に目標を探知[5]。護衛駆逐艦サミュエル・S・マイルズ (USS Samuel S. Miles, DE-183) が目標に向かっていき、ソナーで水中の目標を探知したあと、ヘッジホッグで目標を撃沈した。この目標は伊177であった。また、本職の対潜掃討以外では、台湾沖航空戦で大破してウルシー環礁に下がる途中の軽巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CL-81) の援護を行った。ホガット・ベイは10月28日にウルシーに帰投した。

11月10日、ホガット・ベイはフィリピンの戦いで航空支援を行うため出撃。次いでフォン湾で次の上陸作戦に備えた訓練に参加した後、12月20日にマヌス島に帰投した。数日後、ホガット・ベイはリンガエン湾を目指す大艦隊に加わって出撃。大艦隊が通過したフィリピン水域は、神風特別攻撃隊が絶え間なく飛来していて危険であり、1945年1月4日には、オマニー・ベイ (USS Ommaney Bay, CVE-79) が特攻攻撃により沈没した。1月6日にリンガエン湾に到着したホガット・ベイは、引き続いて襲ってくる特攻機の合間を縫って、航空機によって日本軍拠点を破壊していった。戦いが一段落ついた後、ホガット・ベイは1月17日にウルシーに到着し、次いでサンディエゴに向かった。2月15日、ホガット・ベイはサンディエゴに到着した。

4月6日、修理を終えたホガット・ベイは、4月1日から開始された沖縄戦の戦場に向かい、真珠湾ろウルシーを経由して5月8日に沖縄沖の海域に到着した。ホガット・ベイは沖縄島南方からの航空支援任務に就き、5月24日から6月8日までの間、攻撃支援、写真偵察および物資の投下を行った。ホガット・ベイは6月27日にレイテ湾に到着した後、7月28日に遠くアラスカアダック島に向けて出港した。しかし、その途中の8月15日に戦争が終わり、ホガット・ベイは8月18日に大湊に針路を向けた。9月に入って、アメリカ軍は北海道東北地方に進駐。ホガット・ベイの航空機は、空からの偵察により多数の捕虜収容所を発見。これら収容所に入れられていた捕虜の中には、1941年12月のウェーク島の戦いで捕虜となったジェームズ・デベル英語版海兵少佐もおり、彼らは無事解放された。ホガット・ベイは青森進駐に立ち会った後、9月27日に東京湾に到着した。

ホガット・ベイは9月30日に東京湾を出航し、「マジック・カーペット」艦隊の一艦として帰還兵輸送任務に従事した後、ボストンで1946年7月20日に退役する。大西洋予備役艦隊で保管された後、1955年6月12日にCVHE-75(護衛ヘリ空母)に艦種変更され、1959年5月7日には AKV-25(貨物航空機運搬艦)へ再変更された。ホガット・ベイは1960年3月31日にスクラップとして売却された。

ホガット・ベイは第二次世界大戦の戦功での5つの従軍星章を受章した。

脚注 編集

  1. ^ a b c ニミッツ、ポッター, 376ページ
  2. ^ a b 木俣, 626ページ
  3. ^ 木俣, 628ページ
  4. ^ 木俣, 629ページ
  5. ^ 木俣, 691ページ

参考文献 編集

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9
  • C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
  • 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5

外部リンク 編集