ホセバ・ベロキ・ドロンソロ(Joseba Beloki Dorronsoro、1973年8月12日- )スペインバスク州ギプスコア県ラスカオ(カスティーリャ語ラスカーノ)出身。元自転車競技選手。

ホセバ・ベロキ

経歴 編集

1998年にエウスカディと契約を結んでプロ転向。フェスティナに移籍した2000年のツール・ド・フランスでは大健闘。モン・ヴァントゥを含む中央高地アルプス越えステージで力強い走りを披露し、総合3位に入った。オンセに移籍した2001年のカタルーニャ一周では区間3勝に加えて総合優勝、ポイントを獲得。同年のツール・ド・フランスでも山岳ステージで健闘し、総合3位となる。

2002年のツール・ド・フランスでは第4ステージのチームタイムトライアルでオンセがUSポスタルに16秒の差をつけて優勝したこともあり序盤からマイヨ・ジョーヌ争いに加わり、中盤まではランス・アームストロングと渡り合った。中央高地、アルプス越えステージで徐々にアームストロングに引き離されていったが、最終的に同レースでは自身最高順位となる総合2位となった。また、同年のブエルタ・ア・エスパーニャでは第1~第4ステージまでマイヨ・オロ(ゴールデンジャージ)を着用。最終的に総合3位となった。

この頃までのベロキは、王者・アームストロングの対抗馬の一人であった。2003年のツール・ド・フランスでも、第8ステージを終えて総合首位のアームストロングに対し、40秒差の2位につけていた。ところが第9ステージにまさかの事態が発生する。

ゴール地点となるギャップまで残り約4kmの地点において下り中に、異常な高温が原因(走路温度は約50℃ほどに上ったという)で、後輪が横滑りしてしまった。その結果転倒してしまい、大腿骨などを骨折する大怪我に見舞われ、無念のリタイアとなってしまった。そればかりか、この事態が発生して以後、ベロキが第一線級の選手として活躍する機会はなくなった。2005年のツール・ド・フランスには出場したものの、総合75位に終わった。

ちなみに、この時に直後を走っていたアームストロングはベロキを避けるためにコースアウト、草原を通過して九十九折りをショートカットする形になったが、自転車をコントロールしてレースに復帰した。

その後、これといった戦績を挙げられないことに加え、オペラシオン・プエルトに関する疑惑も持たれ、2006年7月以降はレースにさえ出ることがなくなった(しかしドーピング疑惑のほうは2006年7月26日、潔白が証明された)。そして2007年12月、UCIプロツアーチームとの契約が困難になった理由により、引退を表明した[1]

脚注 編集

外部リンク 編集