ボールドラッド (1962年生まれの競走馬)

ボールドラッドBold Lad、1962年 - 1986年)は、アメリカ合衆国サラブレッド競走馬種牡馬。2歳時に顕著な成績を収め、1964年アメリカ最優秀2歳牡馬に選出された。

ボールドラッド
欧字表記 Bold Lad
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1962年4月23日[1]
死没 1986年[1]
Bold Ruler
Misty Morn
母の父 Princequillo
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生産者 Wheatley Stable[1]
馬主 Wheatley Stable[1]
調教師 William C. Winfrey
→Edward A. Neloy[1]
競走成績
生涯成績 19戦14勝[1]
獲得賞金 516,465ドル[1]
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経歴 編集

  • 特記がない限り、競走はすべてダートコース。また当時はグレード制未導入。

出自 編集

グラディス・フィップスとその兄弟オグデン・ミルズがホイートリー牧場で生産したサラブレッドの牡馬である。生産者所有のホイートリーステーブル名義のもと、ビル・ウィンフリー調教師のもとに預けられた。

1964年(2歳時) 編集

2歳時のボールドラッドは無類の強さを誇った。サラトガ競馬場で行われたホープフルステークス(6.5ハロン)ではトラックレコードとなる1分15秒60で勝利を挙げ[2]、またアケダクト競馬場フューチュリティステークス(6.5ハロン)においても1分16秒00のトラックレコードタイ記録をマークした[3]。ボールドラッドはこれらの実績により、全会一致で1964年のアメリカ最優秀2歳牡馬として選ばれた[4]

また1964年の年末、ジョッキークラブハンデキャッパーを務めるトーマス・トロッターは、当時試験導入中であったフリーハンデキャップにおいて、同年のボールドラッドに130ポンドという高い評価を与えた。これは、セクレタリアトが1972年に与えられた129ポンドよりも高い数値であった[5]

1965年(3歳時) 編集

2月初旬、ボールドラッドはハイアリアパーク競馬場での滞在時に右前脚を損傷、第4中手骨(外側副管骨)が飛び出してしまった。このためしばらく休養を要し、年内初戦は遅くなった。

4月5日、アケダクト競馬場で行われた6ハロンの一般戦で復帰し、古馬を相手にしながら年内初勝利を挙げた[6]。その後、ウッドメモリアルステークス(アケダクト・9ハロン)で3着に入り、ダービートライアルステークス(チャーチルダウンズ・8ハロン)で勝利した。

同年のケンタッキーダービー(チャーチルダウンズ・10ハロン)ではボールドラッドが1番人気に据えられていた。ボールドラッドはレース中は直線に入るまで先頭を争っていたが、その後力尽きて10着に敗れた。この後ボールドラッドは貧血を患っていると診断され[7]、これを考慮してプリークネスステークスおよびベルモントステークスには出走しなかった。

1965年6月20日、ボールドラッドはアケダクト競馬場での調教中に再び負傷、手術を受け、同年は休養に充てられた。

1966年(4歳時) 編集

この年をもってビル・ウィンフリー調教師が引退し、ボールドラッドの新たな調教師としてエディ・ネロイが迎えられた。ボールドラッドは1966年4月30日に競走に復帰、ガーデンステートパーク競馬場で勝利を挙げた。

5月6日、ボールドラッドはアケダクト競馬場のアラーテッドパースで勝利し、続く5月18日にはローズベンハンデキャップ(アケダクト・7ハロン)を3馬身差で勝利した。さらに同じくアケダクト競馬場での1966年5月30日、メトロポリタンハンデキャップ(8ハロン)において、ボールドラッドは132ポンドを積みながらも2着馬に2馬身半差をつけて1分34秒20のタイムで優勝、4連勝を遂げた。

その次のサバーバンハンデキャップ(アケダクト・10ハロン)においてはさらに重い135ポンドが割り当てられた。この斤量と酷暑が響いたためか、ボールドラッドは6着に敗れて連勝が途切れた[8]。この競走後、鞍上を務めたブラウリオ・バエザはボールドラッドが競走後に左足首を庇っているようだと語った。このためX線撮影が行われ、結果1966年8月2日に引退が発表された[9]

種牡馬入り後 編集

ボールドラッドは1967年よりケンタッキー州のクレイボーンファームで種牡馬入りした。その後1972年にフランス、1977年に日本へと輸出され、1986年に日本で死亡した[1]

アメリカジョッキークラブの調べによれば、ボールドラッド産駒392頭のうち、192頭が勝ち上がり、うち27頭がステークス競走勝ち馬となったとある(ただし日本産馬を除く)[1]。以下は主な産駒。

血統表 編集

ボールドラッド血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ボールドルーラー系
[§ 2]

Bold Ruler
アメリカ 黒鹿毛 1954
父の父
Nasrullah
イギリス 鹿毛 1940
Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
父の母
Miss Disco
アメリカ 鹿毛 1944
Discovery Display
Ariadne
Outdone Pompey
Sweep Out

Misty Morn
アメリカ 鹿毛 1952
Princequillo
アイルランド 鹿毛 1940
Prince Rose Rose Prince
Indolence
Cosquilla Papyrus
Quick Thought
母の母
Grey Flight
アメリカ 芦毛 1945
Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Planetoid Ariel
La Chica
母系(F-No.) グレイフライト牝系(FN:5-f) [§ 3]
5代内の近親交配 Blenheim 4x4, Mumtaz Mahal 4x5 [§ 4]
出典
  1. ^ [10], [11]
  2. ^ [11]
  3. ^ [10]
  4. ^ [10], [11]


脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i Avalyn Hunter. “Bold Lad (horse)”. American Classic Pedigrees. 2022年6月5日閲覧。
  2. ^ Bold lad sets track mark in S111,125 race”. Chicago Tribune (1964年8月30日). 2014年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月2日閲覧。
  3. ^ Bold lad equals record for track in $138,640 sprint; Runs 61/2 Furlongs in 1:16 —Native Charger Second in Futurity”. The New York Times (1964年10月27日). 2021年7月2日閲覧。
  4. ^ Bold Lad Unanimous Top 2-Year-Old Pick”. Los Angeles Times (1964年11月24日). 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月2日閲覧。
  5. ^ Capote Is Rated Best of the 3-Year-Olds”. The New York Times (1987年2月4日). 2021年7月2日閲覧。
  6. ^ Robertson (1965年4月5日). “Bold Lad erases doubts in romp; Tom Rolfe Wins”. news.google.com. The Free Lance Star. 2021年7月2日閲覧。
  7. ^ Bold Lad's failure is traced to anemia”. The New York Times (1965年5月15日). 2021年7月2日閲覧。
  8. ^ 'Light' Buffle Easy Winner In Suburban”. Pittsburgh Post-Gazette (1966年7月5日). 2022年6月5日閲覧。
  9. ^ Champion Out of Competition”. The New York Times (1966年8月2日). 2022年6月5日閲覧。
  10. ^ a b c 血統情報:5代血統表|ボールドラツド(USA)”. JBISサーチ. 2022年6月5日閲覧。
  11. ^ a b c ボールドラツドの血統表”. netkeiba.com. 2022年6月5日閲覧。