マツダ・ロードペーサー

ロードペーサーROADPACER)は、かつて東洋工業(以下、および現在のマツダ)が製造・発売していた最高級車である。正式名称は、マツダの排出ガス対策車の証である「AP」を付した「ロードペーサーAP」。

マツダ・ロードペーサーAP
RA13S型
フロント
リア
概要
販売期間 1975年4月 - 1979年
ボディ
乗車定員 5-6人
ボディタイプ 4ドアセダン
エンジン位置 フロント
駆動方式 後輪駆動
パワートレイン
エンジン 13B型 654 cc×2ローター
最高出力 135 PS/6,000 rpm
最大トルク 19.0 kgm/4,000 rpm
変速機 日本自動変速機[注釈 1]製3速AT
車両寸法
ホイールベース 2,830 mm
全長 4,850 mm
全幅 1,885 mm
全高 1,465 mm
車両重量 1,575 kg
その他
最高速度 165 km/h
トレッド前後 1,530 mm
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マツダ初の3ナンバー車及びフラグシップモデルであった。セダンタイプの乗用車としては、当時のマツダ車で一番大きいボディを持っていた[注釈 2]

開発の経緯 編集

1970年代前半、それまで日本メーカーによる富裕層向け最高級乗用車はトヨタ・センチュリー日産・プレジデントに限られていたが、日本の経済成長によって最高級車市場の拡大の動きがあり、マツダは三菱自動車工業いすゞ自動車とともに最高級車市場への参入を図った。

しかし、当時のマツダや三菱自動車、いすゞ自動車には、トヨタや日産のような最高級車を自社独自開発できる企業体力はなかった。そこで三菱自動車といすゞ自動車は、外国メーカーとの提携関係を活かし、日本と同じ右ハンドルであるオーストラリア乗用車を輸入し、日本の基準に適合するよう最小限の改造(当時日本で認可されていなかったドアミラーフェンダーミラーにするなど)を施した上で、自社系販売店で販売した。

しかし、当時のマツダはまだフォードとは提携しておらず、外国メーカーとの提携が全くなかったため、オーストラリアのGMホールデンと部品購入契約を交わすことで最高級車を開発した。こうして誕生したのがロードペーサーであった。

成り立ち 編集

ボディはホールデンが生産していた主力大型車であるホールデン・HJ英語版シリーズの最上級グレード「プレミア」がベースで、前輪独立懸架、後輪固定車軸後輪駆動という、当時の大型車としてはごく一般的な構成である。プレミアは、当時いすゞが上記の施策により輸入したステーツマン・デ・ビルen)の姉妹車でもある。

このモデルのベース車はホールデンの親会社であるGMのインターミディエート・クラスで、北米では中級サイズにあたるが、日本では大型セダンとして通用するものであった。オーストラリア本国では、基本プラットフォームはそのままに、4回の大規模改良を受けつつ1971年から1984年まで生産されたロングセラーであり、HJは最初のマイナーチェンジが行われた1974年から1976年まで生産された型である。 このボディを日本向け高級車仕様の内外装にしつらえたうえ、マツダ独自のパワーユニットとして13B型エンジンを搭載し、トランスミッションは日本自動変速機(現ジヤトコ)製3速ATを組み合わせた。当時ロータリーエンジンを自社のイメージリーダーにしていたマツダが、軽量で高出力を得られる自社製パワーユニットという特性を利用して、ロードペーサーにもこれを搭載したものであった。元より、当時のマツダは直列4気筒以上の多気筒レシプロエンジンを製造しておらず、いすゞのようにホールデン・HJのエンジン[注釈 3]を流用しない限り、手持ちエンジンとしては額面上最強となるロータリーエンジンを使わざるを得なかったことも一面であった。

初代 RA13S型(1975年-1979年) 編集

  • 1975年4月 - 発売。この車から現在の「mazDa」ロゴが使用される。
    • 10月 - 51年排ガス規制適応、一部変更。
  • 1977年8月 - 一部変更(セーフティーパネルの設置、間欠ワイパー、トランクオープナーの追加、コンビネーションスイッチの採用、ボディー色の追加)。
  • 1978年 - 生産終了。
  • 1979年 - 販売終了。

グレード・価格 編集

  • 5人乗り(フロントセパレートシート)、371.0万円。
  • 6人乗り(フロントベンチシート)、368.0万円。

なお、前期型では四角形のメーターナセルだったが、これは後期型では丸型に変更され、フロントグリルの格子の形状も変えられている。

目標販売台数は月間100台であった。

商業的失敗と生産・販売終了 編集

価格がセンチュリーやプレジデントをも上回っていたことや、2010年代以降の高級車に相当するボディサイズは、1970年代当時としては極めて巨大であったことからユーザーには敬遠され、販売は不振を極めた。搭載されたロータリーエンジンは、1975年(昭和50年)当時の日本で進行中であった厳しい自動車排出ガス規制にも対処が容易であったため、当初は官公庁からの若干の需要もあったが、それも限られたものであった。

高価格のほか、本来は日本向け高級車のデザインではないボディを流用したために、スタイリング面で日本の想定ユーザー層の好みに合わなかったことや、従来、大衆車商用車販売を主としてきたマツダの既存販売網が、大型乗用車の顧客層への営業力を欠いたことも不振の一因ではあった。

しかし何よりも、自動車としての成り立ちがあまりにもアンバランスであったことがロードペーサーの最大の問題点であった。ベースとなったホールデン・HJは、本来大型アメリカ車同様に大排気量で低回転域から大トルクを発揮するエンジンが搭載されるクラスであり、最低のベースモデルでも直列6気筒2.8 - 3.3 L、標準モデルで4.2 L、上級モデルでV型8気筒5.0 - 5.7 Lのレシプロエンジンが搭載されていた。ちなみに、バッジエンジニアリング車であったいすゞ・ステーツマン・デ・ビルは5.0 L・240 ps / 43.6 kgmのエンジンをそのまま搭載しており、ボディに見合った性能を確保していた。マツダがそれに見合う280 ps / 41.0 kgmのロータリーエンジンを開発するのは、15年後の1990年(平成2年)のことである。

そのような大きく重いボディに、軽量高回転ながら135 ps / 19.0 kgmに留まるロータリーエンジンを搭載しても、ATのトルクコンバーターでトルク増大を図ったところでなお実用上の動力性能が甚だしく不足し、高回転ゆえ燃費は非常に悪くなった。これはパワーのあるV型8気筒4 Lクラスのエンジンを搭載し、十分な動力性能を得ていたセンチュリーやプレジデントに比べて、致命的な短所であった。

その後、1977年(昭和52年)に3代目ルーチェレガートが発売された。この新型ルーチェはボディサイズの拡大で見た目の高級感が増し、なおかつ日本における小型自動車規格(5ナンバー)に収まり、ロータリーとレシプロ双方のエンジンが選択できる市場適合性から、マツダにとっての最高級ポジションを担う格好となり、ルーチェよりも価格が圧倒的に高く、販売も低迷していたロードペーサーの生産は打ち切られた。以降は1979年(昭和54年)まで在庫車による新車販売が行われた。総生産・販売台数は799台。

車名の由来 編集

  • 英語で「道路の王様」という意味。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 現在のジヤトコ
  2. ^ その後、全長は初代センティアによって更新されたが、全幅は現在でも最大である。
  3. ^ V型8気筒排気量5.0 L。

出典 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集