マニウス・アキリウス・グラブリオ

マニウス・アキリウス・グラブリオラテン語: Manius Acilius Glabrio)は、共和政ローマ政務官ノウス・ホモ[2]、主に東方ギリシアを活躍の場とした。


マニウス・アキリウス・グラブリオ
M'. Acilius C. f. L. n. Glabrio[1]
出生 不明
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 アキリウス氏族
官職 護民官(紀元前201年)
シビュラの書管理十人委員(紀元前200年~)
平民按察官(紀元前197年)
法務官(紀元前196年)
執政官(紀元前191年)
プロコンスル(紀元前190年)
指揮した戦争 ローマ・シリア戦争
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経歴 編集

紀元前201年、グラブリオは護民官に就任した。その年の執政官グナエウス・レントゥルスアフリカ出征を望んでいたもののそれに反対し、カルタゴとの和平を確認するプレブス民会を開催した[3]。翌紀元前200年には、はマルクス・アウレリウス・コッタの死後シビュラの書を管理する10人委員会の一員となっている[4]

紀元前197年にはパトリキアエディリス・クルリスの主催する盛大なルディ(祝祭)がキルクス・マクシムスで3回繰り広げられたが、グラブリオはプレブスのアエディリス・プレビスの一人としてルディを7回開催し、その収益金でケレースリーベルリーベラの銅像が建てられた[5]

紀元前196年にはクルスス・ホノルムを順調に登り、首都と外人担当を兼ねるプラエトルに当選。当時エトルリア奴隷の反乱の動きがあったため、グラブリオは一個軍団を率いてこの陰謀の首謀者たちを打ち破った[6]

紀元前191年スキピオ・ナシカとともに執政官となる。そしてセレウコス朝シリアアンティオコス3世と戦い、勝利する。その後も東方の動向、特にアエトリア同盟の結束に努める。しかしながら結束はうまくいかずティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスの介入により同盟の結束を保てるようになった。

紀元前189年、グラブリオはケンソルに立候補した。他の候補はティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス、元同僚のスキピオ・ナシカ、ルキウス・ウァレリウス・フラックス大カトローマの剣の息子マルクス・クラウディウス・マルケッルスと錚々たる顔ぶれだったが、アンティオコス3世を下しアイトーリアを陥落させたグラブリオは一番人気だった。しかし、ノウス・ホモの台頭を許さないパトリキの反感を買い、護民官プブリウス・センプロニウス・グラックスとガイウス・センプロニウス・ルティルスからシリアでの略奪品の横領疑惑で告発された。グラブリオは、自分と同じように台頭した大カトに不利な証言をされたことで、立候補を取り下げた[7]

出典 編集

  1. ^ Broughton Vol.1, p. 352.
  2. ^ リウィウス『ローマ建国史』37.57
  3. ^ Broughton Vol.1, p. 320.
  4. ^ Broughton Vol.1, p. 326.
  5. ^ リウィウス『ローマ建国史』33.25
  6. ^ リウィウス『ローマ建国史』33.36.2-3
  7. ^ リウィウス『ローマ建国史』37.57

参考文献 編集

  • T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 

関連項目 編集

公職
先代
ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌス
グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス
執政官
同僚:プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ
紀元前191年
次代
スキピオ・アシアティクス
ガイウス・ラエリウス