マリー・ド・ブルイエMarie de Breuillet, 1080年ごろ - 1119年ごろ)は、フランス王室に厩務員長として仕えていた騎士でブルイエ及びドゥールダン卿であったルノーの娘。フランス王ルイ6世が王太子時代、結婚する以前に愛人としていた女性である。

マリー・ド・ブルイエ
Marie de Breuillet

出生 1080年ごろ
ロンポン
死去 1119年ごろ
オルレアン
配偶者 オルセー卿テヴィン
子女 ルイ6世の子
イザベル・ド・フランス
オルセー卿テヴィンの子
エイモン
ナンティエ
父親 ブルイエ・ドゥルダン卿ルノー
母親 アンヌ・ド・ドゥルダン
テンプレートを表示

生涯 編集

ロンポンフランス語版で誕生し、他3人の兄弟がいた。そのうちの2人は修道士となり、ロンポンのノートルダム修道院フランス語版に入っていた。

当時のフランス王フィリップ1世が王妃ベルト・ド・オランドを退け、臣下アンジュー伯フルク4世夫人であったベルトラード・ド・モンフォールを奪って後添いに迎え、2人共教会から破門される等、王室で問題が起こっていた時、一説によれば、王太子ルイがフランス宮廷を出てパリの修道院にいた際に、もう一説によれば、父の務める王室厩舎に出向いて、馬の世話をしていたマリーとルイは出会ったとされる[注釈 1][1]

マリーはあまり美人ではなく、恥ずかしがり屋ではあったが、穏やかな性格で素朴かつ素直な人柄が魅力的な女性であったとされる。

当時のルイが抱える寂しさや孤独を慰めようと近付いて来る女性は、野心的で自分の将来のために愛妾の座を狙う女性ばかりであった中、マリーはその人柄をルイから熱愛されたようである。

1100年ごろより、当時まだ未婚であったルイの愛人となったが[2]、 1104年にルイが王太子妃リュシエンヌ・ド・ロシュフォールと結婚し、マリーが修道院に一時尼僧となり隠棲することになったため、関係を清算した。

しかし、マリーはルイと別れる以前に懐妊しており、その翌年の1105年、ルイの庶子リアンクール=サン=ピエール女卿イザベル・ド・フランス[注釈 2](1105年 - 1175年)を産んだとされる[注釈 3]

修道院から還俗した後、マリーはオルセー卿テヴィンと結婚し、エイモンとナンティエと言う名の2男をもうけている。

後にマリーは1119年ごろ、35歳前後でオルレアンにて死去している[3]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 王太子ルイが自分達の娘を気に入っていることに気付いたマリーの両親は、娘が愛妾となった際に王室から得られる称号や領地、金銭等に期待を掛け、マリーを宮廷に送り込み、目論見通りになったとされる。
  2. ^ イザベルが嫁ぐ際、父ルイ6世が教会を除くリアンクール=サン=ピエール領全土という莫大な領地を化粧料として贈与された。
  3. ^ イザベルの母を王太子妃リュシエンヌ・ド・ロシュフォールとする説も有るが、信憑性は低く、当時愛人であったマリーの娘とする説の方が有力である。

出典 編集

  1. ^ Marie de Breuillet (c. 1080 – 1119) Mistress of - A King's Whore” (英語). A King's Whore. 2019年6月26日閲覧閲覧。
  2. ^ Le prieuré N D de Longpont (XXIX) La fille naturelle de Louis VI le Gros.”. vieux-marcoussis.pagesperso-orange.fr. 2020年6月30日閲覧。
  3. ^ Marie de Breuillet - Les Favorites Royales” (フランス語). favoritesroyales.canalblog.com (2011年4月29日). 2020年6月30日閲覧。