マリー=クリスティーヌ=クレティエンヌ・ド・ルーヴロワ・ド・サン=シモン
マリー=クリスティーヌ=クレティエンヌ・ド・ルーヴロワ・ド・サン=シモン(Marie-Christine-Chrétienne de Rouvroy de Saint-Simon, 1728年5月7日 - 1774年7月4日[1])は、ブルボン朝時代フランスの貴族女性、宮廷女官。結婚に伴いモナコ公家の成員となり、ヴァランティノワ伯爵夫人と呼ばれた。
生涯
編集『回想録』で名高い文筆家サン=シモン公爵ルイ・ド・ルーヴロワ・ド・サン=シモンの長男リュフェック公爵ジャック=ルイ・ド・ルーヴロワ(1698年 - 1746年)と、陸軍元帥アントワーヌ5世・ド・グラモン公爵の娘カトリーヌ=シャルロット=テレーズ・ド・グラモン(1707年 - 1755年)の間の一人娘。未婚時期の宮廷での呼称は「リュフェック姫(mademoiselle de Ruffec)」であった。
1749年12月10日、パリの祖父の邸宅オテル・サン=シモンの私的な礼拝堂で、モナコ公オノレ3世の弟ヴァランティノワ伯爵シャルル・モーリスと結婚[2]。婚姻はあらかじめフランス王の裁可を得て行われた。義父のヴァランティノワ公爵ジャックから婚資としてパリ・パッシー地区の邸宅オテル・ド・ヴァランティノワの所有権を譲られた。
1754年に叔父ジャン=アルマンが死ぬと、ラス伯爵位及びスペインのグランデ特権を相続した。翌1755年に祖父の公爵が死ぬと、存命する唯一の直系子孫としてラ・フェルテ=ヴィダム城を始めとするサン=シモン家の財産を相続した。1762年よりルイ15世王の娘たち、通称「メダム」の侍女となった。1770年よりプロヴァンス伯爵夫人の女官に転じた[3]。
ヴァランティノワ伯爵夫妻は間に子のないまま1766年法的に別居した。伯爵夫人は死後、遠縁のジャック・フィリップ・ド・ショワズール=スタンヴィル侯爵にオテル・ド・ヴァランティノワなどの資産を相続させた。
引用・脚注
編集- ^ Marie Christine de Rouvroy at geni.com
- ^ Paul Theroff. “MONACO”. Paul Theroff's Royal Genealogy Site. 2020年2月11日閲覧。
- ^ Marie Christine de Rouvroy, contessa de VALENTINOIS