マルガレーテ・フォン・ザクセン (1469-1528)
マルガレーテ・フォン・ザクセン(ドイツ語:Margarete von Sachsen, 1469年8月4日 - 1528年12月7日)は、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ハインリヒ1世の妃。
マルガレーテ・フォン・ザクセン Margarete von Sachsen | |
---|---|
出生 |
1469年8月4日 神聖ローマ帝国 ザクセン選帝侯領、マイセン |
死去 |
1528年12月7日(59歳没) 神聖ローマ帝国 ザクセン選帝侯領、ヴァイマル |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ザクセン選帝侯領、ヴァイマル、聖ペーター・ウント・パウル教会 |
配偶者 | ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ハインリヒ1世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ヴェッティン家エルンスト系 |
父親 | ザクセン選帝侯エルンスト |
母親 | エリーザベト・フォン・バイエルン |
生涯 編集
マルガレーテはザクセン選帝侯エルンストと、バイエルン・ミュンヘン公アルブレヒト3世の娘エリーザベトの間の娘である。兄フリードリヒ3世およびヨハンはザクセン選帝侯となり、姉クリスティーナはデンマーク王ハンスの妃となった。
マルガレーテは1487年2月27日にツェレでブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ハインリヒ1世と結婚した。ハインリヒ1世はすでに12歳のころからザクセン宮廷で過ごしていた。結婚に向けての話し合いはおそらく1469年に始まり、ハインリヒ1世の父オットー5世はマルガレーテの大叔父ヴィルヘルム3世と同盟を結んだ。ザクセン側はツェレ城の拡張工事が完了するまで結婚を遅らせ、ツェレとツェレ城はマルガレーテの寡婦産(Wittum)[1]とされた。
マルガレーテは1528年に死去し、ヴァイマルの聖ペーター・ウント・パウル教会に埋葬された。
子女 編集
脚注 編集
- ^ 寡婦産の訳は、田口正樹、「中世後期ドイツの国王宮廷における非訟事件」北大法学論集66 (5), 2016.による。
参考文献 編集
- Martina Schattkowsky: Witwenschaft in der frühen Neuzeit, Universitätsverlag Leipzig, 2003, p. 171 ff ([1])
- Horst Masuch: Das Schloss in Celle, A. Lax, 1983
- Ingetraut Ludolphy: Friedrich der Weise: Kurfürst von Sachsen 1463- 1525, Vandenhoeck und Rupprecht, Göttingen, 1984