マールテン・ペパイン(Marten Pepijn[1]1575年2月21日 - 1643年)はフランドルの画家である。ピーテル・パウル・ルーベンスアンソニー・ヴァン・ダイクと同時期にアントウェルペンで活動した画家で、歴史画や風俗画を描いた[2]

マールテン・ペパイン
Marten Pepijn
誕生日 1575年2月21日
出生地 アントウェルペン
死没年 1643年
死没地 アントウェルペン
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略歴 編集

アントウェルペンで生まれた[3]。父親は古着を扱う商人で、絵の売買もしていた[2]。フランドルの画家の伝記、コルネリス・デ・ビー (Cornelis de Bie) の『Gulden Cabinet(1662年)』では1595年から1596年と1599年から1600年にイタリアを旅したとしているがその証拠はない[4][5]。1600年にアントウェルペンの聖ルカ組合に加入した。1601年12月に結婚し、3人の息子と2人の娘が生まれた[6] 。次女のカタリーナ・ペパイン(Katharina Pepijn: 1619-1688)は肖像画家となり作品が残されている[4] 。息子の一人も画家になったが作品は残されていない[4]

デ・ビーの著書やアルノルト・ホウブラーケンの著した伝記でもペパインとピーテル・パウル・ルーベンスはライバルであったと記しているが、ペパインの最初の娘の名づけ親にルーベンスの最初の妻、イザベラ・ブラントがなっていることから、良好な関係であったと考えられる[4]。アンソニー・ヴァン・ダイクとも親しく、ヴァン・ダイクが描いたペパインの肖像画は、現在アントワープ王立美術館に収蔵されている。

1602年から1628年の間に自分の子供たち以外に、弟子を取っていてその人数は8人に上った[6]

アントウェルペンで没した。

宗教的な題材を描いた作品や肖像画、宮廷の舞踏会などを描いた風俗画を描いたことで知られている。やや古いスタイルで人物の動きは硬いとされる。宮廷の舞踏会を描いた一連の作品はペパイン自身の作品ではなく、息子か工房のだれかの作品であるとしる研究者もいる[4]

作品 編集

参考文献 編集

  1. ^ 名前の綴りは Marten Pepyn, Maarten Pepyn, Marten Pupynなどとも
  2. ^ a b Marten Pepijn at the Netherlands Institute for Art History
  3. ^ ‘'Marten Pepijn'’ in: A.J. van der Aa, Biographisch woordenboek der Nederlanden. Deel 15, J.J. van Brederode, Haarlem, 1852 p. 175
  4. ^ a b c d e Ursula Härting. "Pepyn, Maarten." Grove Art Online. Oxford Art Online. Oxford University Press. Web. 16 March 2015
  5. ^ Marten Pepyn biography in: Arnold Houbraken, De groote schouburgh der Nederlantsche konstschilders en schilderessen, 1718, p. 78-79
  6. ^ a b Catharina Pepijn in'; Franz Jozef Peter van den Branden, Geschiedenis der Antwerpsche Schilder-school, Part 1], Buschmann, 1883, p. 474-479 (オランダ語)