モラヴィア君主一覧

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モラヴィアの君主9世紀以降が知られている。君主の一覧では、王国の中核であった9世紀から最終的にボヘミア国王に服属することが明白になった1611年までのモラヴィアの領域において封建的に育まれた君主をも含む。封建的な育みは、その形成や年代順に選び出された君主に乗っ取った形で位置付けられている。

1459年モラヴィア紋章

大モラヴィア公 編集

初期のモラヴィアサモ王国の構成部を成していた。822年にモラヴィアはチェコスロヴァキアハンガリー及びシレジアの一部の領域をも含む大モラヴィアの中核となった。王国を統治したのはスラヴ人の家系であるモイミール家である。しかし、9世紀末に内乱に陥り、907年マジャール人侵入後に王国は崩壊した。

大モラヴィア公 (833年—907年): モイミール朝
名前 肖像画 生年 没年 統治期間 備考
1 モイミール1世   795年頃? 846年? 830年?—846年 最初に確実に知られるモラヴィアの君主、大モラヴィアの創始者でモイミール家出身。
2 ラスチスラフ   ??? 870年後 846年870年 モイミール1世の甥。東フランク国王 ルートヴィヒ2世に臣従する。870年に廃位された上に盲目にされる。
3 スヴァトプルク1世   830年頃 894年 871年894年 ロスチスラフの甥で850年末にニトラ公となる。871年にロスチスラフに対して反乱を起こして国権を掌握する。スヴァトプルク1世統治下で大モラヴィアの権威は頂点に達する。
4 モイミール2世   ??? ??? 894年907年? スヴァトプルク1世の息子。領地の一部を受け取り、兄弟のスヴァトプルク2世はニトラを、同じく兄弟の プレドスラフは現代のブラチスラヴァの地域を受け取った。モイミール2世は最後に知られた大モラヴィア公であり、マジャール人侵入後に王国は消滅した。

モラヴィア公 編集

10世紀前半のモラヴィアはチェコ人諸侯とマジャール人の緩衝地帯となった。恐らくは、その地域諸侯は存在したであろうが、名前は知られてはいない。10世紀後半にモラヴィアはボヘミアプシェミスル朝の支配下に置かれ且つボレスラフ1世残酷公によってボヘミアに併合された。1003年にモラヴィアはポーランド国王ボレスワフ1世勇敢王によって占領された。モラヴィアは1019年までポーランドの支配下に置かれたが、その間、オルドジフ はモラヴィアを奪還することが出来なかった。


モラヴィア公 (1019年—1197年): プシェミスル朝
名前 肖像画 生年 没年 統治期間 備考
1 ブジェチスラフ1世   1002/1005年 1054年 1019年1033年 オルドジフの息子で1019年に父のモラヴィアに据え置く。
2 オルドジフ   ? 1034 1033年1034年 1012年以降ボヘミア公、1033年に息子により追われた。
3 ブジェチスラフ1世   1002/1005年 1055年1月10日 1034年1049年 再位。父の死後にボヘミアとモラヴィアの公となる。
4 スピチフニェフ2世   1031年 1061年1月28日 1049年1054年 ブジェチスラフ1世の長子、1049年にモラヴィア公となり同地を父が死ぬまで統治した。

1054年にボヘミア公ブジェチスラフ1世は、年長の者がプラハを統治し、年少の者がモラヴィアを相続して年長の公に服従すべきであると決めた。これに従う形でブジェチスラフ1世の長子であるスピチフニェフ2世が1055年にボヘミア公の位についた。モラヴィアはブジェチスラフ1世の次男、三男が互いに二つに分けることで相続した。 ヴラチスラフ2世オロモウツの支配者としてのモラヴィアの一部(オロモウツ公国)を、コンラード1世はその残りをブルノの支配者として(ブルノ公国として再編)それぞれ相続した。後にズノイモ公国が分離した。

ブルノのモラヴィア公 編集

ブルノ公 (1054年—1200/1201年)
名前 肖像画 生年 没年 統治期間 備考
1 コンラード1世   ? 1093年9月6日 1054年1055年 ブジェチスラフ1世の三男。
2 スピチフニェフ2世   1031年 1061年1月28日 1055年1061年 1055年以降ボヘミア公。
3 コンラード1世   ? 1093年9月6日 1061年1092年 再位、1092年にボヘミア公。
4 オルドジフ ? 1113年3月27日 1092年1097年 コンラード1世の息子、1097年にボヘミア公ブジェチスラフ2世により更迭される。
5 ボジヴォイ2世   1065年頃 1124年2月2日 1097年1101年 ブジェチスラフ2世の兄弟で、ボヘミア公ヴラチスラフ2世の三男。1100年—1107年、並びに1117年—1120年にボヘミア公。
6 オルドジフ ? 1113年3月27日 1101年1113年 再位
7 ヴラジスラフ1世   ? 1125年4月12日 1113年1115年 ヴラチスラフ2世の四男。1109年—1117年、並びに1120年—1125年にボヘミア公。
8 ソビェスラフ1世   1075年頃 1140年2月14日 1115年1123年 ヴラチスラフ2世の五男。 1125年—1140年にボヘミア公。
9 オタ2世 ? 1126年2月18日 1123年1126年 1107年—1110年、並びに1113年—1126年にオロモウツ公。
10 ヴラチスラフ ? 1155年 1126年1129年 オルドジフの息子。
11 ソビェスラフ1世   1075年頃 1140年2月14日 1129年1130年 再位。
12 ヴラチスラフ ? 1155年 1130年1155年 再位。
13 コンラード2世 ? 1161年以降 1156年1161年以降 1123年 — 1161年以降にズノイモ公。
14 ヴラジスラフ2世 ? 1174年1月18日 1161年以降—1172年 1140年—1158年にボヘミア公、1158年—1172年にボヘミア王。
15 ベドジフ   ? 1189年3月25日 1172年1173年 ヴラジスラフ2世の息子、1172年—1173年、並びに1178年—1189年にボヘミア公。
16 ヴァーツラフ2世 1137年 1192年 1173年1177年 ソビェスラフ1世の息子で1191年—1192年にボヘミア公。
17 コンラード2世・オタ   ? 1191年9月9日 1177年1189年 ズノイモ公コンラード2世の息子、1161年以降—1191年にズノイモ公、1182年—1189年にオロモウツ公、1182年—1189年にモラヴィア辺境伯、1182年及び1189年—1191年にボヘミア公。
18 スピチフニェフ ? 1198年 1189年1192年 ヴラチスラフの息子、共同統治。
スヴァトプルク ? 1201年6月5日まで
19 ヴラジスラフ   ? 1222年8月12日 1192年1194年 ヴラジスラフ2世の息子、1192年—1194年、1197年—1222年にモラヴィア辺境伯、1197年にボヘミア公。
20 スピチフニェフ ? 1198年 1194年1198/1200年 再位
スヴァトプルク ? 1201年6月まで

スヴァトプルク没後にブルノ公国はヴラジスラフが統治するところのモラヴィア辺境伯領に編入された。

オロモウツのモラヴィア公 編集

オロモウツ公 (1054年—1200/1201年)
名前 肖像画 生年 没年 統治期間 備考
1 ヴラチスラフ2世   1032年頃 1093年1月14日 1054年1061年 ブジェチスラフ1世の次男、1061年—1085年にボヘミア公。
2 オタ1世 ? 1087年6月9日 1061年1087年 ブジェチスラフ1世の五男。
3 ボレスラフ ? 1091年8月11日 1087年1091年 ヴラチスラフ2世の息子、父のオロモウツ公国を割り当てられる。
4 スヴァトプルク ? 1109年9月21日 1095年1109/1110年 オタ1世の息子で共同統治者。1095年頃まで幼少であったことから両人の公国は母エウフェミアの統治下におかれた。
オタ2世 ? 1126年2月18日
5 ヴラジスラフ1世   ? 1125年4月12日 1110年1113年 ヴラチスラフ2世の四男、1109年—1117,年及び1120年—1125年にボヘミア公。
6 オタ2世 ? 1126年2月18日 1113年1126年 再位、1123年—1126年にブルノ公。
7 ヴァーツラフ1世 ? 1130 年3月1日 1126年1130年 スヴァトプルクの息子。
8 ソビェスラフ1世   1075年頃 1140年2月14日 1130年1135年 ヴラチスラフ2世の五男、1125年—1140年にボヘミア公。
9 ルポルト ? 1137年以降 1135年1137年 ボジヴォイ2世の息子、ソビェスラフ1世の意向によりオロモウツを領有。
10 ヴラジスラフ2世 ? 1165年 1137年1140年 ソビェスラフ1世の息子、1138年にプラハを相続することを認められるものの、その死後は承認されなかった。
11 オタ3世 1122年 1160年5月12日 1140年1160年 オタ2世の息子。
12 ヴラジスラフ3世 ? 1174年1月18日 1160年1162年 1140年—1158年にボヘミア公、1158年—1172年にボヘミア王。
13 ベドジフ   ? 1189年3月25日 1162年1173年 ヴラジスラフ2世の息子、1172年—1173年及び1178年—1189年にボヘミア公。
14 オルドジフ 1134年 1177年10月18日 1173年1177年 ソビェスラフ1世の息子、兄弟のボヘミア公ソビェスラフ2世により擁立される。
15 ヴァーツラフ2世 1137年 1192年 1174年1179年 ソビェスラフ1世の息子、1173年—1174年にブルノ公、1191年—1192年にボヘミア公。
16 オタカル1世   1155/1167年 1230年12月15日 1179年1182年 ヴラジスラフ2世の息子、兄弟のベドジフにより擁立される。1192年—1193年及び1197年—1198年にボヘミア公、1198年にボヘミア王。
17 コンラード2世   ? 1191年9月9日 1182年1189年 ズノイモ公コンラード2世の息子、1161年以降—1191年にボヘミア公、1177年—1189年にブルノ公、1182年—1189年にモラヴィア辺境伯、1182年及び1189年—1191年にボヘミア公。
18 ヴラディミール 1145年 1200年12月11日まで 1189年1192年 オタ3世の息子で共同統治。
ブジェチスラフ ? 1201年まで
19 ヴラジスラフ   ? 1222年8月12日 1192年1194年 ヴラジスラフ2世の息子、1192年—1194年及び1197年—1222年にモラヴィア辺境伯、1197年にボヘミア公。
20 ヴラディミール 1145年 1200年12月11日 1194年1200/1201年 再位。
ブジェチスラフ ? 1201年まで

1200/1201年にオロモウツ公国はモラヴィア辺境伯ヴラジスラフの領域に編入された。

ズノイモのモラヴィア公 編集

ズノイモ公 (1092年—1197年)
名前 肖像画 生年 没年 統治期間 備考
1 リトルド ? 1112年3月15日 1092年1097年 コンラード1世の息子
2 ボジヴォイ2世   1065年頃 1124年2月2日 1097年1101年 ブジェチスラフ2世の兄弟、ボヘミア公ヴラチスラフ2世の三男。1097年—1101年にブルノ公、1100年—1107年及び1117年—1120年にボヘミア公。
3 リトルド ? 1112年3月15日 1101年1112年 再位。
4 オルドジフ ? 1113年3月27日 1112年1113年 リトルドの兄弟。
5 ソビェスラフ1世   1075年頃 1140年2月14日 1113年1123年 ボヘミア公ヴラチスラフ2世の五男、1125年—1140年にボヘミア公。
6 コンラード2世 ? 1161年以降 1123年1128年
1134年1161年以降
リトドの息子、1156年 — 1161年以降にブルノ公。1128年—1134年にボヘミア公ソビェスラフ1世の拘禁下におかれる。
7 コンラード2世   ? 1191年9月9日 1161年以降—1189年 ズノイモ公コンラード2世の息子、1182年—1189年にオロモウツ公、1177年—1189年にブルノ公、1182年—1189年にモラヴィア辺境伯、1182年及び1189年—1191年にボヘミア公。
8 ヴラジスラフ   ? 1222年8月12日 1192年1194年 ボヘミア王ヴラチスラフ2世の息子、1192年—1194年及び1197年—1222年にモラヴィア辺境伯、1197年にボヘミア公。
9 インジヒ ? 1197年6月15日 1194年1197年 ボヘミア公ヴラジスラフ1世の四男インジヒの息子、1182年—1197年にプラハ司教、1193年—1197年にボヘミア公。

1197年にズノイモ公国はモラヴィア辺境伯ヴラジスラフの領域に編入された。

モラヴィア辺境伯 編集

1182年神聖ローマ皇帝 フリードリヒ1世赤髭王はモラヴィア辺境伯の称号を設けて3つのモラヴィアの公国を統一したボヘミア公コンラード2世に授けた。1212年に皇帝フリードリヒ2世が発布したシチリアの金印勅書に従ってボヘミア王オタカル1世の弟であるモラヴィア辺境伯ヴラジスラフに一連の特権が与えられた。ボヘミア王の封土としてのモラヴィア辺境伯領は相続人がいない場合には死後に国王に返還されることになった。

プシェミスル家 編集

モラヴィア辺境伯 (1182年—1306年): プシェミスル朝
名前 肖像画 生年 没年 統治期間 備考
1 コンラード2世   ? 1191年9月9日 1182年1189年 ズノイモ公コンラード2世の息子、1182年—1189年にオロモウツ公、1177年—1189年にブルノ公、1162年以降 — 1191年にズノイモ公、1182年—1189年にモラヴィア辺境伯、1182年及び1189年—1191年にボヘミア公。
2 ヴラジスラフ   ? 1222年8月12日 1192年1194年
1197年1222年
ボヘミア王ヴラチスラフ2世の息子、1192年—1194年及び1197年—1222年にモラヴィア辺境伯、1197年にボヘミア公。
3 ヴラジスラフ(2世) 1207年 1228年2月10日 1224年1228年 ボヘミア王オタカル1世の息子。
4 プシェミスル 1209年 1239年10月16日 1228年1239年 ボヘミア王オタカル1世の息子。
5 ヴラジスラフ(3世) ? 1247年1月3日 1246年1247年 ボヘミア王ヴァーツラフ1世の息子。
6 オタカル2世   1233年 1278年8月26日 1247年1278年 ボヘミア王ヴァーツラフ1世の次男、1253年にボヘミア王
7 ヴァーツラフ2世   1271年9月17日 1305年6月21日 1283年1305年 オタカル2世の息子、1283年—1305年にボヘミア王、1300年—1305年にポーランド王。
8 ヴァーツラフ3世   1289年10月6日 1306年8月4日 1305年1306年 ヴァーツラフ2世の息子、1305年—1306年にボヘミア兼ポーランド王。

諸家 編集

モラヴィア辺境伯 (1306年—1310年)
名前 肖像画 生年 没年 統治期間 備考
1 インジフ   1265年頃 1335年4月2日 1306年 ゲルツ家出身、1306年にボヘミア王、1307年—1310年にチロル伯、1310年—1335年にケルンテン及びカルニオラ辺境伯。1306年8月にヴァーツラフ2世の娘アンナと結婚することでボヘミア王となるものの、一か月後にオーストリアルドルフ3世により廃位。
2 ルドルフ1世   1281年 1307年6月3/4日 1306年1307年 1298年—1307年にオーストリア及びシュタイアーマルク公(ルドルフ3世)、1306年—1307年にボヘミア王及び名目上のポーランド王。帝国の支配体制からの脱却を唱えてボヘミア王位を請求し、1306年に王位を簒奪するものの翌年に死去。
3 インジフ   1265年頃 1335年4月2日 1307年1310年 再位。ルドルフ1世没後に王位を奪還するものの、1310年にルクセンブルク家により廃位。

ルクセンブルク家 編集

モラヴィア辺境伯 (1310年—1423年): ルクセンブルク家
Имя 肖像画 生年 没年 統治期間 没年
1 ヤン   1296年8月10日 1346年8月26日 1310年1333年 神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の息子。1310年—1346年にルクセンブルク、1310年—1346年にボヘミア王。ヴァーツラフ2世の娘エリシュカと結婚することでボヘミア王位を継承。
2 カレル   1316年5月14日 1378年11月29日 1333年1349年 ボヘミア王ヤンの息子。1346年—1378年にボヘミア王、1346年—1353年にルクセンブルク伯、1349年—1378年にローマ王、1355年—1378年にイタリア王、1355年—1378年に神聖ローマ皇帝(カール4世)。
3 ヤン・インジフ
(ヨハン・ハインリヒ)
  1322年2月12日 1375年11月12日 1349年1375年 ボヘミア王ヤンの次男。1335年—1341年にチロル伯、ローマ王に擁立されるもののカレルからモラヴィアを授けられる。
4 ヨシュト   1375年1411年 モラヴィア辺境伯ヤン・インジフの長男。1388年—1411年にブランデンブルク選帝侯、1388年—1411年にルクセンブルク、1410年—1411年に対立ローマ王。公的にはモラヴィアはヨシュトを含めた3兄弟の共同統治下におかれた。
5 プロコプ 1356/1358年 1405年9月24日 1375年1405年 モラヴィア辺境伯ヤン・インジフの息子。兄ヨシュトに封建的な忠誠を誓う。
6 ヤン・ソビェスラフ 1356/1358年 1394年10月12日 1375年1380年 モラヴィア辺境伯ヤン・インジフの息子。1380年—1387年にリトミシュル司教、1387年にオロモウツ司教、1387年—1394年にアクイレイア総大司教。兄ヨシュトに封建的な忠誠を誓う。
7 ヴァーツラフ4世   1361年2月26日 1419年8月16日 1411年1419年 カレルの息子、1378年—1419年にボヘミア王、1373年—1378年にブランデンブルク選帝侯(ヴェンツェル)、1383年—1388年にルクセンブルク公(ヴェンツェル2世)、1376年—1400年にローマ王(ヴェンツェル)。
8 ジクムント   1368年2月15日 1437年12月9日 1419年1423年 カレルの息子、1378年—1388年及び1411年—1415年にブランデンブルク選帝侯、1386年—1437年にハンガリー、1410年—1437年にローマ王、1410年—1437年にボヘミア王、1419年—1437年にルクセンブルク公、1431年—1437年にイタリア、1433年—1437年に神聖ローマ皇帝。

諸王家 編集

モラヴィア辺境伯 (1423年—1490年)
Имя 肖像画 生年 没年 統治期間 備考
1 アルブレヒト   1397年8月10日 1439年10月27日 1423年1439年 ジクムントの婿(妻のアルジュビェタはジクムントの娘)、1437年—1439年にハンガリー王(アルベルト)、1437年—1439年にボヘミア王(アルブレヒト)、1438年—1439年にローマ王(アルブレヒト)、1404年—1439年にオーストリア公(アルブレヒト4世)。
2 ラジスラフ   1440年2月22日 1457年11月23日 1453年1457年 アルブレヒトの息子、1440年及び1445年—1457年にハンガリー王(ラースロー5世)、1453年—1457年にボヘミア王(ラジスラフ)。
3 イジー   1420年4月23日 1471年3月22日 1458年1469年 1458年にボヘミア王に推戴、1458年—1471年にボヘミア王、1456年—1462年にミュンスターベルク公、1458年—1469 年に下ラウジッツ辺境伯。
4 マティアス1世   1443年2月23日 1490年4月6日 1469年1490年 1458年—1490年にハンガリー王(マーチャーシュ1世)、1469年—1490,年に上下ラウジッツ辺境伯、1469年—1490年にボヘミア王、1469年にモラヴィアとラウジッツを掌握。

ヤギェウォ家 編集

モラヴィア辺境伯 (1490年—1526年): ヤギェウォ朝
名前 肖像画 生年 没年 統治期間 備考
1 ヴラジスラフ   1456年3月1日 1516年3月13日 1490年1516年 ポーランド王カジミェシュ4世の息子、1471年—1516年にボヘミア王(ヴラジスラフ4世)、1490年—1516年にハンガリー王(ウラースロー2世)。イジー没後にボヘミア王に推戴されるもマティアス1世との対立は避けられず、モラヴィア、ラウジッツ及びボヘミア王の称号のみが残った。マティアス1世没後にその支配地はヴラジスラフに帰した。
2 ルドヴィーク   1506年7月1日 1526年8月29日 1516年1526年 ヴラジスラフの息子でヤギェウォ朝最後の君主、1516年—1526年にボヘミア兼ハンガリー王。

ハプスブルク家 編集

モラヴィア辺境伯 (1526年—1611年): ハプスブルク家
名前 肖像画 生年 没年 統治期間 備考
1 フェルディナンド   1503年3月10日 1564年7月25日 1526年1564年 神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の孫、ルドヴィーク戦死後にその姉アンナを妻としていたことからボヘミア及びハンガリー王位の権利を相続。1526年—1564年にボヘミア王、1526年—1564年にハンガリー王、1521年—1564年にオーストリア大公、1556年—1564年に神聖ローマ皇帝(フェルディナント1世)。
2 マクミリアン   1527年7月31日 1576年10月12日 1564年1576年 フェルディナンドの息子、1562年—1576年にボヘミア王、1564年—1576年にローマ王、1563年—1576年にハンガリー王、1564年—1576年にオーストリア大公、1564年—1576年に神聖ローマ皇帝(マクシミリアン2世)。
3 ルドルフ2世   1552年7月18日 1612年1月20日 1576年1608年 マクミリアンの息子、1575年—1611年にボヘミア王、1575年—1612年にローマ王、1572年—1608年にハンガリー王、1576年—1612年にオーストリア大公(ルドルフ5世)、1576年—1608年に神聖ローマ皇帝(ルドルフ2世)。
4 マティアス2世   1557年2月24日 1619年3月20日 1608年1619年 マキミリアンの息子、1611年—1617年にボヘミア王、1612年—1619年にローマ王、1608年—1618年にハンガリー王、1608年—1619年にオーストリア大公、1612年—1619年に神聖ローマ皇帝(マティアス)。

1611年にマティアスはモラヴィア辺境伯の称号をボヘミア王の名に組み入れた。

参考文献 編集

  • "Восточная Европа.". Правители Мира. Хронологическо-генеалогические таблицы по всемирной истории в 4 тт (ロシア語). М. Автор-составитель В.В. Эрлихман. 2002.
  • Генеалогические таблицы по истории европейских государств (Издание третье исправленное и дополненное (166 таблиц) ed.). Екатеринбург — Ташкент. Авторы-составители: Коновалов Ю. В., Шафров Г. М. 2008.

関連項目 編集

外部リンク 編集