ヨークタウンUSS Yorktown, CV/CVS-10)は、アメリカ海軍航空母艦エセックス級航空母艦としては3番目に就役した[注釈 1]アメリカ海軍においてヨークタウンの名を受け継いだ艦としては、4代目。先代は、第二次世界大戦ミッドウェー海戦[2]大日本帝国海軍に撃沈されたヨークタウン級航空母艦ネームシップ[3]。 本艦は日本において「ヨークタウン2世」や[4][注釈 2][注釈 3]、「ヨークタウン(II)」と表記した事例もある[7]

1944年、ピュージェット・サウンドにて
艦歴
起工 1941年12月1日
進水 1943年1月21日
就役 1943年4月15日
退役 1970年6月27日
その後 博物館として公開
除籍 1973年6月1日
性能諸元
排水量 27,100トン
全長 872 ft
艦幅 93 ft(28.4 m)
全幅 147.5 ft(45 m)
吃水 28.7 ft(8.8 m)
最大速 32.7ノット(60.6 km/h)
乗員 士官、兵員3,448名
兵装 5インチ砲12基、40mm機銃32基
20mm機銃46基
搭載機 90 - 100機
エレベーター 中央2基、舷側1基
カタパルト

坊ノ岬沖海戦では、各艦と協同して戦艦大和」を撃沈した[8]アポロ計画では、1968年12月下旬のアポロ8号の回収任務に従事した[9]。現在は、サウスカロライナ州マウントプレザント博物館船として公開されている。

艦歴 編集

1940年7月3日、「ボノム・リシャール」の艦名でバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所と建造契約を結ぶ[10]。本艦は1941年12月1日に起工した。1942年6月5日、アメリカ海軍はミッドウェー海戦で勝利するが[11]6月7日潜水艦の雷撃で[12]、空母「ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) 」が沈没する[13]。 9月16日、アメリカ合衆国海軍省は「ヨークタウン」の喪失を発表した[注釈 4]。「USS Yorktown, CV-5」を追悼する意味で、「ヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) 」に改名された[注釈 5]

1943年1月21日にエレノア・ルーズベルトによって進水した。バージニア州ノーフォークノーフォーク海軍工廠で1943年4月15日に初代艦長ジョゼフ・J・クラーク大佐の指揮下就役した。

第二次世界大戦 編集

 
1945年3月、日本近海にて

「ヨークタウン」はノーフォークの水域に5月21日まで留まり、トリニダード近海で整調航海を続けた。6月17日にノーフォークに帰港、整調航海後の信頼性試験を行う。7月1日に補修を終了し、ノーフォーク沖で6日まで航空作戦に従事する。その後チェサピーク湾を出て太平洋に向かう。「ヨークタウン」は7月11日にパナマ運河を通過し、12日にはバルボアに展開する。7月24日にはハワイ真珠湾に到着し、ハワイ諸島で一ヶ月間の訓練を行う。8月22日に最初の戦闘に参加するため真珠湾を出港する。所属する第15任務部隊は8月31日の早朝に南鳥島から約128マイルの地点に到着した。「ヨークタウン」はその日の大半を南鳥島への戦闘機及び爆撃機での攻撃に費やし[6]、夜にはハワイへ向かった。9月7日に真珠湾に再び入港し二日間停泊した。

つづいてガルヴァニック作戦に参加し、ギルバート・マーシャル諸島の戦いに従事した。この連合国反攻作戦に伴って発生したギルバート諸島沖航空戦マーシャル諸島沖航空戦などで、日本海軍の航空機と交戦した。第58任務部隊となってからは、クェゼリンの戦い(フリントロック作戦)、トラック島空襲(ヘイルストーン作戦)、マリアナ沖海戦台湾沖航空戦レイテ沖海戦などに参加した。

1945年3月14日に第58任務部隊は僚艦のエセックス級航空母艦などとともに、沖縄上陸作戦であるアイスバーグ作戦の支援を遂行するためにウルシー泊地を出撃した。そして、まず、九州四国中国地方の日本軍飛行場や呉海軍工廠沖に停泊する日本海軍の艦艇に対する攻撃を実施するが、九州沖航空戦の初日である3月18日に、艦上爆撃機・彗星三三型と見られる日本海軍機一機の急降下爆撃を受け、250kg爆弾一発が命中する。しかし幸運にも損傷は軽微であり、応急修理ですぐに作戦を継続させることができた。

その後、引き続き、南西諸島方面への空襲作戦、ならびに沖縄戦に参加。沖縄戦では、沖縄水上特攻作戦により出撃した戦艦「大和」以下の水上特攻隊に対する空襲作戦にも参加し、「大和」以下の撃沈に貢献した[16]。その間、特攻を含む日本軍の航空攻撃を数回受けるが一度も損傷することはなかった。

沖縄戦が一段落した後は、再び第38任務部隊と名称を変えた高速空母機動部隊に加わり、7月から8月15日の終戦の日まで、日本本土各地に対する空襲作戦任務を遂行した。

戦後 編集

予備役として5年間保管された後、朝鮮戦争の激化を受けて1952年6月に再就役が命じられた。再就役の準備はピュージェット・サウンド海軍工廠で行われ、1952年12月15日にブレマートンで予備役状態のまま就役する。「ヨークタウン」の転換作業は1953年も継続され、1月末には公試が行われる。1953年1月20日にウイリアム・M・ネーション艦長の指揮下完全状態で再就役した。

「ヨークタウン」は1953年の夏を通じて西海岸に沿って通常任務に従事し、8月3日に極東に向けてサンフランシスコを出港する。真珠湾に到着すると27日まで同所に留まる。9月5日に日本の横須賀に到着、11日に第77機動部隊に加わり日本海へ展開する。しかし朝鮮戦争の停戦協定が2ヶ月前に調印されていたため、「ヨークタウン」は実戦ではなく演習作戦に従事した。1954年~1955年の第一次台湾海峡危機の際には台湾海峡に展開し、大陳島撤退作戦に参加した。

 
横須賀港に入港する「ヨークタウン」(1960年3月3日)アングルド・デッキやハリケーン・バウ化が施されている。甲板上には、乗組員による「ハロー日本」の人文字が書かれている。

その後、1950年代中期には、アングルド・デッキ付加や艦首と飛行甲板・格納庫を一体化させたハリケーン・バウ化などの近代化改装工事を受けた。なお、1950年代の終わり頃に、「ヨークタウン」は、対潜水艦作戦支援空母(CVS-10)に艦種再分類されている。

1966年以降は第77機動部隊に再び加わり、ベトナム戦争に参加、1968年までヤンキーステーションにおいて対潜哨戒・航空救難任務に当たった。

 
回収され「ヨークタウン」の甲板上に安置されたアポロ8号の司令船
1968年12月27日の撮影

1968年12月中旬、人類史上、初めての周回軌道を回った有人宇宙船であるアポロ8号のクルーと司令船(カプセル)の回収任務のために真珠湾を出発する[9][17]。本艦を支援するため、通信船「アーリントン」、駆逐艦「コクレーン」も出動した[18]12月27日、ハワイ南方海域で月一周任務を達成して地球に戻ってきた8号司令船と乗組員3名(フランク・ボーマン船長、ジム・ラヴェル司令船操縦士、ウィリアム・アンダース月着陸船操縦士)を回収する[18]。3人は飛行機で「ヨークタウン」からハワイ島ヒッカム飛行場にむかったが、その際に本艦から帽子をおくられた[19]

1970年前半にベトナム戦争からのアメリカ軍の撤退を受けて、「ヨークタウン」はノーフォークから出港し、不活性化の準備を始めた。1970年6月27日に「ヨークタウン」はペンシルベニア州フィラデルフィアで退役し、大西洋予備役艦隊に加えられ保管される。1973年6月1日に除籍されるまで同所で保管され、海軍省は1974年にサウスカロライナ州チャールストンに有るナショナル・ヒストリック・ランドマーク内にあるペイトリオッツ・ポイント海軍海事博物館に艦の寄贈を決定する。「ヨークタウン」はニュージャージー州ベイヨンからチャールストンに1975年6月に牽引される。1975年10月13日の海軍200年記念に際し、メモリアルとして公式に指定された。その他、博物艦船として「ラフィー」、「インガム」、「クラマゴア」と共に展示されている。

 
展示されている「ヨークタウン」(2009年6月5日撮影)

「ヨークタウン」は第二次世界大戦の戦功で11の、ベトナム戦争での戦功で5つの従軍星章を受章した。

その他 編集

 
トラ・トラ・トラ!』の撮影に用いられた際のヨークタウン
飛行甲板の標識は日本海軍空母に倣って描き替えられ、前部には日本海軍空母の特徴の一つである風向標識[20]が描かれている。
1968年12月2日の撮影

1943年撮影、1944年公開の戦争映画『Wing and a Prayer, The Story of Carrier Xヘンリー・ハサウェイ監督、邦題:ミッドウェイ囮作戦)』では、一部のシーンが訓練中の本艦で撮影された。映画は真珠湾攻撃珊瑚海海戦ミッドウェー海戦にかけての空母の行動をモチーフにしている[21]

1968年に撮影を開始[22]1970年に公開された日米合作戦争大作映画『トラ・トラ・トラ!』では、アメリカ軍も撮影に協力した[23]。本艦は、真珠湾攻撃に参加した日本海軍の南雲機動部隊旗艦赤城」に扮して攻撃機(艦上機)部隊の真珠湾への出撃(発艦)シーンの撮影に使用された[注釈 6]。 この映画ではアメリカ軍が民間企業に無償で協力した事が議会で問題視され、批判を受けたアメリカ政府は20世紀FOXに「ヨークタウン」航海分を含めて一部費用を請求した[24]

1956年(昭和31年)5月、ヨークタウンは神戸港に寄港し、この際には一般公開も行われた。

※いずれも1956年5月20日の撮影

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 最初に就役したのは「エセックス」、2番目が「レキシントン (CV-16)[1]
  2. ^ 制式空母[5] 商船や巡洋艦を改装したものでなく、建艦の當初から航空母艦として設計されたもの。大東亞戰勃發以來、わが航空機の活躍に戰爭様式の變化を認識した米國は、急遽空母の建造に全力を傾注しはじめ、各種に亙つて厖大な建艦計畫を實行しつゝあるが、昭和十八年上半期のみでもエセックス二世レキシントン二世ヨークタウンバンカーヒルイントレピッド等の制式空母を進水せしめ、更に同年中に三十隻の多數を完成する豫定が立てられてゐる。
  3. ^ 公刊戦史『戦史叢書』でも「ヨークタウン2世」を使用した事例がある[6]
  4. ^ 【ワシントン十六日ISS】[14] 海軍省十六日發表=米國航空母艦ヨークタウン號(一萬九千九百トン)は六月七日のミツドウヱー海戰に撃沈された、本發表は八月上旬以來南太平洋で展開中の作戰に重要な情勢推移中留保されたものである ヨークタウン號は七月十四日發表の海軍省コンミュニケに述べられた如く六月四日敵機編隊の再度にわたる爆撃と雷撃に大破、越えた六月六日敵潜水艦の發射せる魚雷二個が命中し、翌七日轉覆、沈没した(記事おわり)
  5. ^ グラニオン沈没略)[15]【リスボン五日發】桑港來電によれば過般の珊瑚海戰において日本海軍部隊に撃沈された米航空母艦ヨークタウン號に代るべき新航空母艦が五日太平洋岸の某ドツクで進水し艦名も喪失空母の名をとりヨークタウンと命名されるはず(記事おわり)
  6. ^ ハルゼー提督が艦上機の訓練シーンを見守る際、飛行甲板に「CV-14」(エセックス級空母タイコンデロガ)の番号が写る。また真珠湾帰投シーンではエセックス級空母「キアサージ」が用いられた。

出典 編集

  1. ^ 歴群53、アメリカの空母 2006, p. 119.
  2. ^ この次に戰爭が起れば 日本と共に戰ひたい スプルーヱンス提督が演説 ミ海戰記念午餐會”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times. pp. 07 (1957年6月5日). 2023年10月9日閲覧。
  3. ^ 歴群53、アメリカの空母 2006, pp. 104–105.
  4. ^ 朝日新聞社中央調査会 編東西兩戰局の展開/四 敵米海軍力の回復と擴張「戦力増強の諸問題」『朝日東亜年報 昭和十九年 第二輯』、朝日新聞社、68-69頁、1944年12月。doi:10.11501/1138724https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1138724/68 
  5. ^ 朝日新聞社『大東亞時局語』朝日新聞社、1944年2月、71頁。doi:10.11501/1126411https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126411/71 
  6. ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 389米機動部隊機の来襲
  7. ^ 歴群53、アメリカの空母 2006, p. 16ヨークタウン(II)〔 CV-10 〕
  8. ^ 戦史叢書17 1968, pp. 382–383大和部隊(第一遊撃部隊)の沖繩突入作戰
  9. ^ a b 宇宙船回収に ヨークタウン出發”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times. pp. 08 (1968年12月18日). 2023年10月9日閲覧。
  10. ^ 軍令部秘情報(S15.10米国) 1940, pp. 7–8○米國海軍建艦状況一覽表 其ノ1(軍艦、潜水艦、特務艦艇ノ部)1940-10-1調
  11. ^ ミツドウエー海戰の綜合戰果を公表す 米史上最大の海戰勝利”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nippu Jiji. pp. 01 (1942年7月12日). 2023年10月9日閲覧。
  12. ^ 歴群53、アメリカの空母 2006, p. 150.
  13. ^ 米空母ヨークタウン襲撃記”. Hoji Shinbun Digital Collection. Manshū Nichinichi Shinbun. pp. 03 (1943年4月15日). 2023年10月9日閲覧。
  14. ^ ミツドウヱー海戰でヨークタウン號撃沈”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nippu Jiji. pp. 01 (1942年9月16日). 2023年10月9日閲覧。
  15. ^ 米潜水艦太平洋で撃沈 新空母ヨークタウン進水”. Hoji Shinbun Digital Collection. Aruzenchin Jihō. pp. 01 (1942年10月7日). 2023年10月9日閲覧。
  16. ^ 戦史叢書17 1968, pp. 651–652, 785.
  17. ^ 最後の難關、大氣圏突入”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times. pp. 08 (1968年12月26日). 2023年10月9日閲覧。
  18. ^ a b 人類史上に記録される日 月宇宙船アポロ8號の歸還 空母ヨ號以外に待機していた艦艇”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times. pp. 08 (1968年12月28日). 2023年10月9日閲覧。
  19. ^ アポロ8號乗組員 月飛行の檢討開始 ハワイで大歓迎後ヒューストン歸着”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times. pp. 10 (1968年12月30日). 2023年10月9日閲覧。
  20. ^ 飛行甲板上に蒸気吹出口を設け、放射状に描かれた線により甲板上の風向きを視認するための標識
  21. ^ Hawaii Times”. Hoji Shinbun Digital Collection. pp. 10 (1944年12月22日). 2023年11月19日閲覧。
  22. ^ 東映京都のセット借りて撮影進む「トラ・トラ・トラ」”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times. pp. 04 (1968年12月28日). 2023年10月9日閲覧。
  23. ^ 零戰機大擧出動し 眞珠灣奇襲再現 "トラ・トラ・トラ"の撮影進む”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times. pp. 05 (1969年3月8日). 2023年10月9日閲覧。
  24. ^ 問題の眞珠灣映畵 米政府、費用請求”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times. pp. 09 (1969年7月7日). 2023年10月9日閲覧。

参考文献 編集

  • 防衛庁防衛研究所戦史室 編『沖縄方面海軍作戦朝雲新聞社戦史叢書17〉、1968年https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=017 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=062 
  • 歴史群像編集部編『アメリカの空母 対日戦を勝利に導いた艦隊航空兵力のプラットフォーム』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.53〉、2006年2月。ISBN 4-05-604263-2 


関連項目 編集

外部リンク 編集