リゴベルト・ウラン(Rigoberto Urán、1987年1月26日 - )は、コロンビアウラオスペイン語版英語版出身の自転車競技選手。2006年にプロデビューし、現在はEFプロサイクリングに所属。

リゴベルト・ウラン
Rigoberto Urán
個人情報
本名 Rigoberto Urán Urán
リゴベルト・ウラン・ウラン
愛称 リゴ (Rigo)
ミック・ジャガー (Mick Jagger)[1]
生年月日 (1987-01-26) 1987年1月26日(37歳)
国籍  コロンビア
身長 173cm
体重 62kg
チーム情報
所属 EFエデュケーション・イージーポスト
分野 ロードレース
役割 選手
特徴 オールラウンダー[2]
プロ所属チーム
2006
2007
2008–2010
2011–2013
2014–2015
2016-
テナックス
ユニベット
ケス・デパーニュ
チーム・スカイ
エティックス・クイックステップ
キャノンデール・プロサイクリング・チーム(現EFプロサイクリング
グランツール最高成績
主要レース勝利
グランプリ・シクリスト・ド・ケベック (2015)
ジロ・デ・イタリア 新人賞 (2012)
 区間通算2勝
ツール・ド・フランス 区間優勝
ブエルタ・ア・エスパーニャ 区間1勝
カタルーニャ一周 区間優勝
ツール・ド・スイス 区間1勝
 コロンビア選手権 ITT(2017)
獲得メダル
オリンピック
2012 ロンドン 個人ロード
最終更新日
2022年9月12日

ステージレースを得意としており、2017年ツール・ド・フランス2013年2014年ジロ・デ・イタリア2012年は総合7位で新人賞)で総合2位に入り、ワンデーレースではロンドンオリンピックのロードレースでで銀メダルを獲得し、イル・ロンバルディアでは3度3位に入っている。

経歴 編集

生い立ち 編集

ウラン一家はメデリンから約140km離れ、犯罪率が高く、1980年代にコロンビア革命軍が支配していたウラオ出身。

父のドン・リゴベルト・デ・ヘスス・ウランも自転車プロロードレース選手の経験を持つ。しかし自転車選手としてのキャリアをスタートさせた14歳のとき、父親が『麻薬カルテル戦争』に巻き込まれてコロンビア自衛軍連合により殺害されたため、自身が宝くじの販売で生計を立て一家を支えた。16歳のとき、プロ自転車選手になるべく、メデリンヘ移住。2003年、コロンビア選手権、U17部門の個人タイムトライアル(ITT)及びポイントレースを優勝。2004年と2005年にジュニア・ツアー・オブ・コロンビアを2連覇した。

プロデビュー 編集

2005年、コロンビア選手権・ジュニア部門で、個人ロードレース、個人追い抜き、マディソン、スクラッチの計4冠に輝いた。

2006年、セカンドディヴィジョンカテゴリーのUCIプロフェッショナルコンチネンタルチームであるイタリアのテナックス・サルミアーノと契約を結んでプロに転向。イタリアのブレシアホストファミリーと暮らし始め、この頃からウランにとってイタリアが第2の故郷となった。

2007年、UCIプロチームのユニベット.comに移籍し、プロツアーで最年少のライダーとなった。しかし、チームはスポンサーの問題によりグランツールを含む多くのレースに出れないといった厳しい状況となったもの、ツール・ド・スイスでは第8ステージで残り1kmを切ったところでアタックし区間優勝。総合でも9位に入り存在をアピールした。

しかしこの年のウランは不運続きだった。エウスカル・ビシクレタでは個人タイムトライアルだった第2bステージで、暫定首位に立っていたものの残り6人がゴールしていない状態で強風によりステージキャンセル。ドイツ・ツアー第4ステージでは、ダミアーノ・クネゴらと同じ集団で走っていたものの、ゴールまで残り15kmのリートベルク峠の下りで落車し、リタイアを余儀なくされた。

ケス・デパーニュ(2008-2010年) 編集

2008年、スペインケス・デパーニュ(後のモビスター・チーム)に移籍。この年はカタルーニャ一周で総合2位、ジロ・ディ・ロンバルディアで3位と重要なレースで2回も表彰台に上った。

2009年、ツール・ド・フランスに初出場。2010年にはジロ・デ・イタリアに初出場し、翌月のツール・ド・スイスでは第7ステージまで総合2位をキープし、最終的に総合7 位に入った。

スカイ(2011-2013年) 編集

2011年 編集

チーム・スカイに移籍。ブエルタ・ア・アンダルシア総合7位、ボルタ・ア・カタルーニャ総合4位、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ5位と徐々に勢いを増していった。

ツール・ド・フランスでは、3週目の序盤に新人賞ジャージを着ると、登りがきつくなるほど実力を発揮していった。しかし第18ステージと第19ステージで大失速し新人賞ジャージを失ってしまった。最終的に優勝したカデル・エヴァンスから42分遅れの総合24位、新人賞部門6位でゴールした。

ツール終了後はワンデーレースで活躍し、クラシカ・サンセバスティアンで8位、グランプリ・シクリスト・ド・ケベックジロ・デッレミリアで3位に入った。

2012年 編集

3月上旬、パリ〜ニースに出場。エースのブラッドリー・ウィギンスのアシストとして働き、総合優勝に貢献しながら、自身も総合12位でゴールした。

3月下旬には、山岳ステージが多いボルタ・ア・カタルーニャに出場。第1ステージでは、優勝したミヒャエル・アルバジーニから約1分半遅れの集団でゴール。第2ステージではアンヘルス峠で絞られた31人の先頭集団に残り、集団スプリントで3位。第4ステージでは、飛び出していたリーヴァイ・ライプハイマーシルヴェスタ・シュミットを追って、サムエル・サンチェスデニス・メンショフダヴィ・モンクティエと共に追走し合流。その後、後ろの集団が追いつき、25名での集団スプリントを制してステージ優勝。第5ステージでは小集団スプリントでジュリアン・シモンに敗れたものの2位。第7ステージでは4位に入ったものの、初日でのアルバジーニとのタイム差を縮めるが出来ず総合5位でゴールした。

カタルーニャ終了後は、総合5位以上を目指すジロ・デ・イタリアの準備の為に、コロンビアへ帰国。

ヨーロッパに戻った後は、フレッシュ・ワロンヌに出場。エースとして臨んだものの、レース序盤で落車し、膝を数針縫うほどのけがを負ってしまった。4日後のリエージュ〜バストーニュ〜リエージュにも出場。しかし、悪天候と膝の痛み、怪我によるトレーニング不足の影響により残り100kmでのリタイアの余儀なくされた。

7月12日、コロンビア代表としてロンドンオリンピックのロードレースに出場。優勝候補最有力のマーク・カヴェンディッシュが得意な集団スプリントを嫌った各チームの波状攻撃を利用し、30人の逃げ集団に入った。そして、残り5kmでアタックし、アレクサンドル・ヴィノクロフが合流。残り300mで後ろの集団との差を見るためにウランが振り返った隙に、スプリントを開始したヴィノクロフに負けたものの2位でゴールし銀メダルを獲得。2人目の自転車競技でメダルを獲得したコロンビア人になった。

9月末、グラン・ピエモンテに出場。最後の登りで、セルヒオ・エナオのアタックに反応した8人が飛び出した。そこからさらにウランがアタックし、ゴルカ・ベルドゥゴのみが反応して先頭は2人になった。残り500mでヴェルドゥゴを振り切り、シーズン2勝目を挙げた。

2日後には、大雨の中ジロ・ディ・ロンバルディアに出場。マドンナ・デル・ギザッロの登りを終えた時点でで30人ほどにまで集団が絞り込まれ、最後のヴィッラ・ヴェルガノの登りでホアキン・ロドリゲスがアタックし、独走に持ち込む。ウランやエナオ、アルベルト・コンタドールらを含んだ集団はロドリゲスとのタイム差を縮められない。最終的にはロドリゲスに逃げ切られ、集団スプリントでサムエル・サンチェスに敗れたものの3位に入り表彰台に上った。

2013年 編集

チャレンジ・ブエルタ・ア・マリョルカで、シーズンイン。3月にはティレーノ〜アドリアティコクリストファー・フルームのアシストを務め、総合25位。前年、区間優勝し総合5位に入ったボルタ・ア・カタルーニャでは総合28位。4月には、アルデンヌクラシックに出場したが振るわず、アムステルゴールドレースでは完走することもできなかった。

ジロ・デ・イタリアには、ブラッドリー・ウィギンスのアシストとして出場。第2ステージのチームタイムトライアルで優勝し、1週目ですでに総合トップ10に入った。初の山頂ゴールとなった第10ステージではアタックを決め、ステージ優勝し、エースのウィギンスを抑えて総合3位に浮上。エースのウィギンスはこの3日後にリタイアし、ウランがチームのリーダーとなった。2週目も総合3位をキープし、第20ステージでは最後の登りでカルロス・ベタンクールら同胞のコロンビア勢と一致団結して3位でゴール。カデル・エヴァンスを逆転し、ヴィンチェンツォ・ニバリに次ぐ総合2位を獲得した。

シーズン後半は、あまり結果が振るわず、ツール・ド・ポローニュは総合47位、ブエルタ・ア・エスパーニャは第16ステージではネオプロのワレン・バルギルに次ぐ2位になったものの総合27位でレースを終えた。その後、自分向きのコースである世界選手権ロードレースに出場。最終周の登りで、ニバリとロドリゲスについていくが、下りで落車しチャンスを失ってしまい41位でゴールした。

クイックステップ(2014-2015年) 編集

2014年 編集

グランツールでのエースになるためにオメガファーマ・クイックステップに移籍。早速、ツアー・オブ・オマーンで総合3位入賞。3月には、ティレーノ〜アドリアティコのチームタイムトライアルで優勝し、総合31位。その後、ボルタ・ア・アカタルーニャで総合30位、ツール・ド・ロマンディで総合14位。

5月、ジロ・デ・イタリアにエースとして出場。第12ステージの個人タイムトライアルで優勝し、エヴァンスに変わり総合首位に浮上、コロンビア人として始めてマリア・ローザに袖を通した。しかし第16ステージで同胞の若手ナイロ・キンタナの独走を許してしまいマリア・ローザを失う[3][4]。第19ステージの個人タイムトライアルでは3位に入ったものの、総合2位でゴールした。

8月に休養から戻りレース復帰。ツール・ド・レンのプロローグで4位に入った。月末にはブエルタ・ア・エスパーニャに出場。第10ステージの個人タイムトライアルで、世界チャンピオンのトニー・マルティンに次ぐ2位に入り、総合3位に浮上。しかし、その後気管支炎に苦しみ、第16ステージで大失速し15分遅れでゴール。翌日出走せずリタイアした。

コロンビア代表として出場した世界選手権ロードレースには27位でゴール。その後、ツアー・オブ・北京に出場し総合9位でシーズンを終えた。

2015年 編集

序盤、ティレーノ~アドリアティコ総合3位、ボルタ・ア・カタルーニャ総合5位、ツール・ド・ロマンディ総合5位と順調な滑り出しだったものの、ジロ・デ・イタリアは総合14位と大失敗。シーズン後半はグランプリ・シクリスト・ド・ケベックを制した。

キャノンデール / EF(2016年-) 編集

2016年 編集

キャノンデール・ドラパックに移籍。ジロ・デ・イタリアを総合7位でゴール。2連覇を目指して出場した、グランプリ・シクリスト・ド・ケベックではゴールまで残り数mのところで集団に吸収されて10位。イル・ロンバルディアではエステバン・チャベスディエゴ・ローザに次ぐ3位で表彰台に上った。

2017年、ツール・ド・フランスに出場。難関山岳コースとなった第9ステージのモン・デュ・シャの下りでリッチー・ポートダニエル・マーティンの落車に巻き込まれかけるも回避。しかしこの影響でシングルギア化してしまう。それにも関わらずワレン・バルギルを僅差で抑えステージ優勝。総合4位に浮上する。第17ステージで総合2位ファビオ・アルが遅れたことにより総合3位に。続く第18ステージでは最終盤に失速し総合2位ロマン・バルデとの差を広げられるが、第20ステージの個人タイムトライアルでバルデを大きく突き放し[5]、総合2位でフィニッシュした。

主な戦績 編集

2007年 編集

2008年 編集

2009年 編集

2010年 編集

2011年 編集

2012年 編集

2013年 編集

2014年 編集

2015年 編集

2016年 編集

2017年 編集

2018年 編集

2019年 編集

2020年 編集

2021年 編集

2022年 編集

脚注 編集

  1. ^ Rigoberto Uran - EF Pro Cycling | EF Pro Cycling |” (英語). EF Pro Cycling. 2020年8月26日閲覧。
  2. ^ 『ciclissimo 2017 No.53 プロチームガイド選手名鑑』八重洲出版、2017年。
  3. ^ 雪降るクイーンステージを制したキンタナがマリアローザ獲得-cyclowired.jp 2014年5月28日付
  4. ^ 当ステージに組み込まれたステルヴィオ峠の下りがニュートラル扱いになるとの誤報を受けたため遅れた。
  5. ^ スタート前は6秒リードされた状態だったがステージ終了後には1分26秒の差をつけており、結果としてこのステージだけでバルデから1分32秒ものタイムを奪った。

外部リンク 編集