リチャード・ニクソン

リチャード・ミルハウス・ニクソン
Richard Milhous Nixon
Richard Nixon.jpg

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第37代大統領
任期: 1969年1月20日1974年8月9日
副大統領: スピロ・セオドア・アグニュー(1969年 - 73年)
ジェラルド・フォード(1973年 - 74年)

任期: 1953年1月20日1961年1月20日
元首: ドワイト・アイゼンハワー

出生: 1913年1月9日
アメリカ合衆国の旗カリフォルニア州ヨーバリンダ
死去: 1994年4月22日(満81歳没)
アメリカ合衆国の旗ニューヨーク州ニューヨークシティ
政党: 共和党
配偶者: パット・ニクソン
サイン: Richard M. Nixon signature.gif

リチャード・ミルハウス・ニクソンRichard Milhous Nixon, 1913年1月9日 - 1994年4月22日)は、アメリカ合衆国の第36代副大統領および第37代大統領

冷戦下においてデタント政策を推進し、ソビエト連邦との核兵力の削減やベトナム戦争の終結、中華人民共和国との国交成立など平和主義に尽力し、また、環境保護局の設置などを通じ公害の抑制や環境保護にも力を注いだ。しかし「ウォーターゲート事件」により任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となった。

生い立ち

1913年にカリフォルニア州南部、ロサンゼルス近郊のヨーバリンダ(Yorba Linda)に生まれたニクソンは、ギリシア系の父フランシスと、ドイツ系の裕福な家の出身で熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)によって、福音主義クエーカー教徒として育てられた。なお果樹園を経営する父親は元々クェーカー教徒でなかった[1]上、1922年に母の実家の近くのウィッティアに移ってからは、父親は油田で技術者として働き、その後食料品およびガソリン販売店に専念したこともあり、それほど宗教活動には熱心ではなかった[2]

実家はクエーカー教の経典を順守し贅沢を避け、裕福でもない中産階級といった感じの質素な暮らしをしており、ニクソンの幼少時のしつけは、飲酒やダンス、罵り言葉を差し控えるような保守的な福音主義の遵守に特徴づけられる。なおニクソンは幼少時の事を「貧しかったが幸せだった」と回顧録などで記述しているが、父親が経営するガソリン販売店の経営が軌道に乗っていた上に、ピアノバイオリンを習う余裕があったことから、当時のアメリカの平均的な家庭と比べて決して貧しいものではなかった[3]。しかし4男のアーサーや長男のハロルドが肺病で闘病生活を続け、医療費がかかったこともあり、ニクソンは青年期に多くのアルバイトを体験している。

その後ニクソンは地元のウィッティア高校を卒業し、奨学金を受けてハーヴァード大学への進学が決まっていたものの、兄弟の多額の医療費の負担から、実家が東海岸での1人暮らしの資金を負担できないこともあり、母親の実家が奨学金を設けていた地元のウィッティア大学(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学、1934年に2番目の成績で卒業し、奨学金を受けデューク大学法学大学院で法律を学んだ。

弁護士

デューク大学法学大学院を三番目の成績で1937年に卒業し、同年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。ニューヨーク州の大手弁護士事務所への就職を希望したが、東部の人間との人脈に恵まれなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめ、カリフォルニアに戻って地元のウィンガード・アンド・ビウリー弁護士事務所に就職した。1939年には自らの弁護士事務所を開業した[4]

弁護士として活動中の1940年6月11日に、ネバダ州出身の高等学校教師で、演劇サークルで知り合ったセルマ・キャサリン・ライアン結婚した。その後1941年12月に物価統制局に転職し、夫婦でワシントンD.C.に移転することとなった。

海軍時代

アメリカ海軍時代のニクソン

1941年12月よりアメリカも参戦した第二次世界大戦中は、アメリカ軍が太平洋戦線で日本軍に対し劣勢に立たされていた1942年8月に士官募集に応募してアメリカ海軍に入隊し、その後補給士官に任命された。

1943年5月より、日本軍とアメリカ軍やオーストラリア軍を始めとする連合国軍との間で死闘が繰り広げられていた南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島に配属された。日本軍と連合国軍が一進一退を続ける中、戦線の移動とともにフランスニューカレドニアなどへ転属され、補給士官として前線にほど近い戦場で兵站業務を執り行った。

1944年7月にはブーゲンビル島の前線より帰還し、カリフォルニア州アラメダの海軍基地で勤務した。その後1945年1月にはアメリカ東部の基地への移転を命じられ、そこで終戦を迎えた。海軍時代には後に国務長官になるウィリアムズ・P・ロジャーズと知り合っている。

なお海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、「アメリカ海軍きってのポーカーの名手」としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル以上を稼いだといわれている。

下院議員・上院議員

1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴う海軍除隊後にペプシコ社の弁護士になり、ペプシコーラの世界進出に協力。各国の炭酸市場の切り崩しというロビー活動のもたらす「アメリカの産業を保護する」という大義名分は満足感を生み、さらに国際的な弁護士の看板はヨーロッパ日本で人脈を築くのにも役立ったが、この仕事を通じて知り合ったアメリカをはじめとする各国の政治家の倫理観の低さに本気で呆れていたという。

上院議員選挙時のニクソン

しかしその本人が、母校であるウィッティア大学の総長や、ニクソンの母の知人のバンク・オブ・アメリカのウィッティア支店長らの地元有力者からの依頼を受け、1946年に地元のカリフォルニア州の第12下院選挙区から共和党候補として立候補した。このニクソンの立候補に対して妻のパットは当初反対したものの、その後女性票を獲得するために自ら集会であいさつ回りをするなどの献身的な支えもあり、民主党選出で、労働組合をその主な支持基盤とする現職のジェリー・ヴーァリスを破り下院議員に選出された[5]

同じ年の選挙では、ニクソンの将来のライバルとなるマサチューセッツ州ジョン・F・ケネディも初当選し、同じ南太平洋地域で従軍した海軍の退役軍人出身と言う点でも共通していたこともあり、友好的な関係を築いた。

その後ニクソンは、東西冷戦の激化を受けて設けられた下院の非米活動調査委員会のメンバーになり、ジョン・フォスター・ダレス国務省顧問やウィリアム・P・ロジャースなどの協力を受けて、反共主義で高名な共和党選出の上院議員のジョセフ・マッカーシーとともに、前政府高官アルジャー・ヒスの偽証罪の裁判に協力したことで、「反共の闘士」としてその名が全米に知れ渡った。

1950年には上院への鞍替えを試み、女優であり民主党選出議員のヘレン・ギャーギャン・ダグラスと争った。地元の油田開発に反対するなどのダグラスのリベラルな言動が有権者に嫌われたうえに、選挙の活動期間中に朝鮮戦争が勃発し反共的な風潮が強まったことも追い風となり、ダグラスに大差をつけて当選し上院議員に選出されたが、この選挙の際のニクソンの言動が後々まで尾を引く。ニクソンは、夫が左翼シンパとして有名であったものの、自らは「単なるリベラル派」との評価をそれまで受けていたダグラス[6]に対して「国家社会主義者」のレッテルを貼ったが、そのことが多くのリベラル派を自認するジャーナリストの反感を呼び、後の副大統領選挙の際に執拗な攻撃を受けるきっかけとなる。

副大統領時代

しかし、これらの活動が共和党内の保守派を中心に高い評価を受け、1952年に行われた大統領選挙において、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に選ばれた。大統領選での顕著な出来事の1つは、当時普及が進んでいたテレビの革新的な使用だった。

「チェッカーズ・スピーチ」

「チェッカーズ・スピーチ」を行うニクソン

副大統領候補選定前よりニクソンは、ニクソンが金銭的に余裕がないことを知った地元の支持者たちが作った支援基金団体から、政治活動資金のための資金援助を受けていた。民主党の大統領候補のアドレー・スティーブンソンも同様の資金援助を受けていたにもかかわらず、リベラル派であったニューヨーク・ポスト紙は、副大統領候補選定後の9月にニクソンの資金援助の事のみを「ニクソンの秘密信託基金」と批判し[7]、さらに「物品の提供も受けた」とも批判した。その後アイゼンハワーの選対本部はこの記事が大統領選に与える影響を憂慮し、選対本部の一部はニクソンを副大統領候補から降ろすことや、議員辞職をさせることまでを画策しはじめた[8]

これに対してニクソンは、「候補を降りることや議員辞職すれば、これらの疑惑を認めてしまうことになる」と言って候補から下りることを拒否した上で、その後有名になるスピーチ「チェッカーズ・スピーチ」を行い、自らに対する攻撃に対して反論した。その中でニクソンは、個人資産の詳細を事細かく説明したほか、民主党のハリー・トルーマン政権の閣僚の妻達の中に、「院外活動をする人々から高価な毛皮コートを受け取った」と告発されている者がいた事を受け、横に座る妻のパットが「ミンクのコートを持ってはいないが、尊敬すべき共和党員に相応しい布で出来た質素なコートを着用している」といいトルーマン政権の閣僚を皮肉るとともに、提供された資金を私的に使用したことを明確に否定した。

併せて、「物品の提供を受けたことはないが、子供たちがを飼いたいと言っていることを耳にしたテキサス州の支援者からコッカースパニエルをもらった。しかし、娘が『チェッカーズ』と名付けて可愛がっているので返すつもりはない」と述べ、さらに「自分が副大統領候補を辞退するべきか否かについての意見を、共和党全国委員会に伝えてほしい」と訴えた[9]

この放送は、その後「チェッカーズ・スピーチ」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という批判を払しょくし、いわれのない攻撃を受けるニクソンに対する同情と支持を集めることに成功した。さらに、ニクソンを引き続き副大統領候補としてとどめることを要求する視聴者からの連絡が共和党全国委員会に殺到したことで、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンは、引き続き副大統領候補としてとどまることになった。しかし、家族だけでなく愛犬までを持ち出したスピーチに対して、一部のジャーナリストから「愚衆政治的」との批判を受けることとなった[10]

副大統領就任

リビアイドリース1世国王とともに
フルシチョフと「キッチン討論」を行うニクソン

このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは、大統領選本選で一般投票の55%、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。

その後ニクソンは初の外国への公式訪問として、キューバベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際の、暴徒化し地元国の警察でさえコントロールできなくなった反米デモ隊に対する、沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。

またその後も、この頃旧宗主国からの独立が相次いでいたアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った他、同年の10月から11月にかけて、日本中華民国韓国などの北東アジアからフィリピンラオスカンボジアなどの東南アジア、インドパキスタンイランなどの西アジア、オーストラリアニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。

「キッチン討論」

この様な外遊の一環として、1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦首都モスクワを初めて公式訪問した。

その際に、博覧会会場で、ソ連の指導者であるニキータ・フルシチョフと、展示してあるアメリカ製のキッチンおよび電化製品を前にして、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。

この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。その討論内容は、冷戦下のアメリカ国民のみならず自由諸国の国民に強い印象を残し、後に「キッチン討論」として有名になった。

アイゼンハワーとの関係

娘のジュリーとともにアイゼンハワーを迎えるニクソン

アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、1954年3月にアドレー・スティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役を押し付けられるなど、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。

しかしながら、1955年9月24日のアイゼンハワーの心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11月の発作の際の3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督したが、通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。その上、1956年の再選時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知ったレン・ホール共和党全国委員長らによって、この指示が取り消されたということもあった。

さらにアイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。これらのアイゼンハワーによる冷遇を薄々感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった[6]。また、この頃はアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを、陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている[6]

しかし、ニクソンが大統領に就任した1968年に、娘のジュリーがアイゼンハワーの孫のデーヴィッド・アイゼンハワーと結婚するなど、その後もアイゼンハワー家との関係は密接なまま続くこととなる。

1960年の大統領選挙

予備選挙

選挙中にニューヨークで歓迎を受けるニクソン

1951年アメリカ合衆国憲法修正第22条の批准完了によって、1952年1956年の2度選出されていたアイゼンハワー大統領は再度大統領職を求めて出馬することができなかった。アイゼンハワーは1960年時点でもその人気は高かったものの、健康問題とそれの影響を受けた引退の願望があり、もし可能だったとしても再出馬はありそうに無かった。この様な状況を受けて副大統領であったニクソンは共和党予備選挙に出馬することとなった。

1959年に行われた共和党予備選挙においてニクソンは、共和党中道左派の指導者で、ニューヨーク州知事で大富豪のネルソン・ロックフェラーから、あたかも共和党の指名争いで重大な挑戦を受けたような形になった。しかし、ロックフェラーは全国遊説を行った後で共和党の大半がニクソンを支持していることが分かったので、大統領候補にはならないと表明した。ロックフェラーの撤退後、ニクソンは共和党の指名については意味のある反対に直面しなかった。

シカゴで開催された1960年共和党全国大会では、アリゾナ州選出の上院議員のバリー・ゴールドウォーターが10票の代議員票を獲得しただけで、ニクソンは圧倒的な支持を得て共和党の大統領候補に指名された。

本選

テレビ討論

ケネディとのテレビ討論

大統領選挙の本選において、ケネディ陣営による大規模な選挙不正が行われた事が明らかになっているにもかかわらず、現在でも多くの人々によって「ニクソンの敗北の最も重大な要因は最初のテレビ討論だった」と喧伝されている。夕刻でひげが伸びた状態の上、スタジオへ行く途中で膝を怪我して顔色が悪かったにもかかわらず、ニクソンは「議論の内容が重要である」としてテレビ用のメイクアップを拒絶した。テレビ討論前には完全に優勢であったニクソンは、その勢いを保ったまま、外交政策への専門知識を持った思慮深い投票者を勝ち取るつもりでいた。

しかし当時のアメリカでは白黒のテレビしか普及しておらず、多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用した、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。なお、前述のようにこの時ニクソンは膝を怪我しており、そのことがニクソンの表情をひときわ気難しく見せる結果になった上、テレビ用のメイクアップを拒否したことも外観を貧弱に見せることになった。一方のライバルであるケネディは、服飾コンサルタントが選んだスーツを身に着け、テレビ用のメイクアップをこなしていたこともあり、若く健康的に見えた。

討論をラジオで聞いた人々は「討論の内容はニクソンが勝った」と考えたが、結果的には、討論内容には劣るものの、テレビ的な見栄えに勝るケネディに引き込まれたテレビ視聴者の票がニクソンからケネディに動き、選挙不正もあり最終的にケネディに僅差での勝利を与えたと言われる。これ以降、アメリカの各種選挙においては、本格的に服飾やメイクアップなどの外観のコンサルタントが導入されることになる。

ケネディの選挙不正への対応

この時の選挙において、ケネディが予備選挙中に友人のフランク・シナトラから紹介してもらったシナトラの元恋人のジュディス・キャンベルを経由して、イリノイ州シカゴマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナを紹介してもらい、ウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した他、FBIの盗聴により、シナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたことが明らかになっている[11]

さらに、禁酒法時代に密造酒の生産と販売を行っていた関係からマフィアと関係の深いジョセフ・ケネディ・シニアも、マフィアの協力の下、マフィアやマフィアと関係の深い労働組合、非合法組織を巻き込んだ大規模な選挙不正を行っていたことが現在では明らかになっている[12][13]

これらのケネディ陣営に対するマフィアによる選挙協力のみならず、選挙終盤におけるケネディ陣営のイリノイ州などの大票田における大規模な不正に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、アイゼンハワー元大統領から「告発を行い、泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている[14]。ただしニクソンは、ニクソンが過去に精神科のカウンセリングを受けた過去がある証拠をケネディ陣営がつかんでいた(現在ではこのような経歴が問題視されることはない)ものの「切り札」として公開していなかったことをつかんでおり、「やぶへびになることを恐れ告発に踏み切れなかった」という意見もあるが、いずれにしてもこの際のニクソンの潔い行動は、ニクソンに批判的な人々からも称賛を受けている。

敗北

アイゼンハワーからの説得を受けてケネディ陣営に対する告発を取りやめたニクソンは、最終的に得票率差がわずか0.2パーセント(ケネディ49.7パーセント/34,220,984票、ニクソン49.5パーセント/34,108,157票)という、歴史上に残るほどの僅差で敗れた。なおケネディは民主党党員ではあるものの、前記のように友好的な関係を築いていていたこともあり、ニクソンがアイゼンハワー政権の副大統領候補者に選ばれた時、ニクソンを祝う一番の友人のうちの1人だった。

大統領選挙落選後

大統領選挙落選後は、ニューヨーク州に移りペプシコ社などの大企業の弁護士として活動していた。なお、この不遇期には副大統領時代からの友人であった岸信介が度々世話をしており、顧問先を紹介したり、日本に招いて弟の佐藤栄作を交えてもてなしたりしている。このことは、ニクソン復権後、佐藤政権における沖縄返還などの日米関係に少なからず貢献することになった[15]

大統領選挙落選の2年後の1962年11月には、政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬するが、その思いも空しく対立候補のエドムンド・“パット”・ブラウンに大差で敗れ落選した。

選挙後にビバリーヒルズのビバリー・ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見でニクソンは焦りのあまり、詰め掛けたマスコミの記者団を痛烈に批判したあげく「もう二度と記者会見をしない」と口走る始末であった。そのため、多くの国民が彼の政治生命の終わりを感じ、同様に多くのマスコミも「ニクソンはもう二度と政治の第一線に浮かび上がることが無いであろう」と評した。

しかしその後も、ペプシコ社の弁護士として世界各国を訪れる傍ら、日本を訪問した際には駐日大使で学者エドウィン・O・ライシャワーに対して、アメリカによる中国共産党政府(中華人民共和国)の早期承認を説くなど、持ち前の洞察力と行動力を生かして政界への復活を画策し続けた[16]

1968年の大統領選挙

その後アメリカは、ケネディ政権下で軍事介入が拡大され、その後を継いだリンドン・B・ジョンソン政権下で正規軍の地上部隊が参戦するなど、軍事介入が本格化したベトナム戦争をめぐり国内の世論は分裂し、反戦運動が暴徒化するなど混乱状態に陥った。

ニクソンはカリフォルニア州知事選挙での敗北で、親共和党の保守派を含む多くのマスコミから「再起不可能」とまで言われていたものの、そのような状況を打開すべく、再び第一線の政治家への復帰を目指し1968年の大統領選挙に出馬する。

予備選

1968年の大統領選挙時のニクソン

共和党の予備選挙ではニューヨーク州知事のネルソン・ロックフェラーや、カリフォルニア州知事のロナルド・レーガン(のちの大統領)などと争い終始リードを保ち、1968年8月5日から8日にかけてフロリダ州のマイアミビーチで開かれた党大会において、ニクソンは1回の投票で候補者に指名され復活を遂げた。副大統領候補にはメリーランド州知事スピロ・アグニューを選んだ。

なお民主党は、1968年8月26日から29日にかけてシカゴで行われた党大会に、同党選出のリンドン・B・ジョンソン大統領のベトナム政策に反対するデモ隊が押しかけ、リチャード・J・デイリー市長が動員したシカゴ市警と衝突し、流血の事態となり600人以上の逮捕者を出すなど大混乱に陥った。最終的に民主党はジョンソン政権の副大統領のヒューバート・H・ハンフリーを大統領候補に選んだが、この衝突の模様が全米にテレビで流され反感を買うこととなった。

選挙戦

選挙戦でニクソンは、公民権運動やベトナム反戦運動が暴徒化、過激化し違法性を強めることに対して、「法と秩序の回復」を訴えた。さらに民主党のケネディ政権が始めたベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し、「これを実現する秘密の方策がある」と語った。

対する民主党の大統領候補のハンフリーは、「偉大な社会」計画の継承を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張したが、一方で外交政策、ベトナム政策に関して政権から次第に距離を置き始め、批判的な姿勢に転じた。なお他に第三党の候補者として、民主党の前アラバマ州知事で、人種隔離政策を支持する綱領を掲げるジョージ・ウォレスが立候補した。ウォレスは北ベトナムへの無差別爆撃の継続を訴えるカーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナム戦争における北ベトナムに対しての強硬な政策の実施を主張した。

ハンフリーは選挙戦が進むにつれニクソンに肉薄し、一時は支持率で逆転するなど接戦となった。結果は一般投票でのニクソン、ハンフリー両候補者の得票率の差が1.2%と、まれに見る接戦をニクソンが制して、第37代合衆国大統領に就任する。

第37代合衆国大統領

就任式
ニクソン大統領とアグニュー副大統領

ニクソンは1969年1月20日に大統領に就任した。大統領就任当時は、ケネディ政権によって始ったベトナム戦争に対する反戦運動が過激化しており、若者を中心とした感情的で軽薄、かつ過激な「反戦運動」を嫌う保守層が、ニクソンの掲げた「秩序の回復」のキャッチフレーズを支持した上、ジョンソン政権下で泥沼化していたベトナム戦争からの早期撤退を公約したことで、反戦的なリベラル層からの大きな支持も獲得した。

就任後は、冷戦下で対立関係にあった東側諸国に対して硬直的な態度を取り続ける国務省を遠ざけ、官僚排除、現実主義・秘密主義外交を主とするホワイトハウス主導の融和外交を展開し、国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーとともに、ハリー・トルーマン政権下より長年にわたり継承されていた「封じ込め政策」に代えて、融和的な「デタント政策」を推進する。これらの外交における大きな功績のみならず、下記のような内政における様々な功績も高い評価を受け、1972年の大統領選挙には地滑り的な大勝利を挙げて再選される。

ウォーターゲート事件の責任を取り辞任したこともあり、辞任後から1980年代頃まではその功績が過小評価された傾向にあるものの、1973年に実現にこぎつけたベトナム戦争における南ベトナムからのアメリカ軍の完全撤退や、冷戦当時ソ連と対立していた中国共産党率いる中華人民共和国承認など、主に外交面で行った施策がその後高い評価を受けている。

内政的にもアメリカ環境保護局(EPA)の設置やアメリカ全土の高速道路における最高速度制限の設定、麻薬取締局 (DEA) の設置など、主に環境対策面で大きな功績を残していることもあり、近年はその功績が見直されている。

内閣

職名 氏名 任期
アメリカ合衆国大統領 リチャード・ニクソン 1969 - 1974
副大統領 スピロ・アグニュー 1969 - 1973
  ジェラルド・フォード 1973 - 1974
国務長官 ウィリアム・P・ロジャース 1969 - 1973
  ヘンリー・キッシンジャー 1973 - 1974
財務長官 デヴィッド・ケネディ 1969 - 1971
  ジョン・コナリー 1971 - 1972
  ジョージ・シュルツ 1972 - 1974
  ウィリアム・サイモン 1974
国防長官 メルヴィン・R・レアード 1969 - 1973
  エリオット・リチャードソン 1973 - 1973
  ジェームズ・R・シュレシンジャー 1973 - 1974
司法長官 ジョン・ミッチェル 1969 - 1972
  リチャード・クラインディーンスト 1972 - 1973
  エリオット・リチャードソン 1973 - 1974
  ウィリアム・B・サクスビー 1974
郵政公社総裁 ウィントン・ブローウント 1969 - 1974
内務長官 ウォルター・J・ヒッケル 1969 - 1971
  ロジャース・C・B・モートン 1971 - 1974
農務長官 クリフォード・モリス・ハーディン 1969 - 1971
  アール・ラウアー・バッツ 1971 - 1974
商務長官 モーリス・H・スタンス 1969 - 1972
  ピーター・G・ピーターソン 1972 - 1973
  フレデリック・V・デント 1973 - 1974
労働長官 ジョージ・シュルツ 1969 - 1970
  ジェームズ・ホジソン 1970 - 1973
  ピーター・ブレナン 1973 - 1974
保健教育福祉長官 ロバート・ハチソン・フィンチ 1969 - 1970
  エリオット・リチャードソン 1970 - 1973
  キャスパー・ワインバーガー 1973 - 1974
住宅都市開発長官 ジョージ・ロムニー 1969 - 1973
  ジェイムズ・トマス・リン 1973 - 1974
運輸長官 ジョン・ボルプ 1969 - 1973
  クロード・ブリンガー 1973 - 1974


ホワイトハウス

ニクソン大統領と側近、左からキッシンジャー、ニクソンを挟んでフォード副大統領、ヘイグ
ニクソン大統領と側近、左からハルデマン、ジーグラー、エーリックマン
ニクソンの政権の特徴は、就任直後から以前の大統領よりさらにホワイトハウスに権力を集中させ、閣僚の権力を奪ったところにある(帝王制大統領 Imperial Presidency)。特にロジャース国務長官、レアード国防長官、ヒッケル内務長官などは重要政策でも蚊帳の外であった(郵政長官などは以前から問題外とされていた)。たとえば商務次官補(上院承認の必要な高官)に首を言い渡したのは国家安全保障会議のヒラのスタッフ(バーグステン)であった[17]。特にハルデマン、エーリックマン、キッシンジャーの3人に権力が集中していた(ともにドイツ系のため「ジャーマン・シェパード」と呼ばれていた)。
副補佐官 スチーブン・V・ブル
日程担当特別補佐官 ドワイト・L・チェーピン
副補佐官 アレキサンダーM・ヘイグJr.(後に陸軍大将)
副補佐官 W・ブレント・スカウクロフト(後に空軍中将)
上級スタッフ C・フレッド・バーグステンJr.
上級スタッフ モートン・H・R・ハルペリン(沖縄返還交渉で若泉敬に関与)
上級スタッフ デービッド・R・ヤング(元NSA、エーリックマンの部下)
副顧問 フレッド・F・フィールディング
局長 ジョージ・P・シュルツ
局長 ジェームズ・R・シュレジンジャー
次長 フレデリック・V・マレク

大統領任期中の主な施策

昭和天皇(左から2人目)、香淳皇后(左から1人目)とニクソン(右から2人目)、妻のパット
田中角栄首相を迎えるニクソン
ソビエト共産党書記長レオニード・ブレジネフ(左)とニクソン(右)

最後には辞任という不名誉な形で自ら政権の幕を下ろしたものの、2期に渡り大統領職を務めた中で、デタントの推進やベトナム戦争からのアメリカ軍の撤収、アメリカ環境保護局や麻薬取締局の設置など、その政治力を生かして内外で多くの実績を残したことは高い評価を受けている。

デタント推進

ニクソンは、ハリー・トルーマン政権下より長年にわたり継承されていた、ソ連を中心とした東側諸国に対する「封じ込め政策」に代えて、融和的な「デタント政策」を推進した。これを受けて、1969年よりフィンランドヘルシンキでソ連との間で第一次戦略兵器制限交渉(SALT-Ⅰ)が開始され、1972年5月に交渉は妥結し、ニクソン出席のもとでモスクワで調印が行われた。また同時に弾道弾迎撃ミサイル制限条約も締結するなど、米ソ両国の間における核軍縮と政治的緊張の緩和が推進された。

この背景には、ベトナム戦争の早期終結を実現するためのソ連を含めた東側諸国の関係改善と、同じくベトナム戦争により膨らんだ膨大な軍事関連の出費を押さえる目的もあったと推測されている。

なお、第一次戦略兵器制限交渉が開始された1969年の4月には、北朝鮮近くの公海上でアメリカ海軍偵察機が撃墜される事件が発生し、31人の搭乗員が死亡した。この事件の報復のために、ニクソン政権内では戦術核兵器で北朝鮮の基地を攻撃することも検討されたが、当時デタント推進を最優先していた上に、ベトナム戦争を抱えていたニクソンは、北東アジアにおける新たな戦争を招くことを避けるために、北朝鮮の金日成政権に対する報復を行わなかった[18]

ベトナム(インドシナ)戦争の終結

選挙公約
南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領と(1968年)
カンボジア戦線の状況について説明を行うニクソン(1970年)

ニクソンは、フランスに代わってのアイゼンハワー時代の軍事援助から始まり、ケネディ大統領により本格的な軍事介入が開始され、その後ジョンソン大統領によって拡大・泥沼化され、その後10年以上続いていたものの国民からの支持、支援も失っていた上に、「勝利」への道筋も見えないベトナム戦争を終了し「栄誉ある平和」を実現することを大統領選に向けた公約とした。

併せて、当時アメリカの若者を中心に増加してきた「ヒッピー」文化の信奉者や過激なベトナム反戦論者、そして保守主義者らなどの強い主張を持つ少数派を嫌っていたアメリカ人の大多数を占める「サイレント・マジョリティ」(物言わぬ多数派層)に向かって自らのベトナム政策を主張し、一定の支持を受けることに成功した。

ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉

大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日南ベトナムへ予定外の訪問をし、グエン・バン・チュー大統領およびアメリカ軍司令官と会談を行った。その5日前、1969年7月25日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始した。しかしその後の1970年4月にアメリカ軍は、中華人民共和国から北ベトナムへの軍事支援の経由地として機能していたカンボジアへ侵攻、翌1971年2月にはラオス侵攻を行い、結果的にベトナム戦争はさらに拡大してしまう[19]

しかしその後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、様々なチャネルを使った北ベトナム政府との秘密和平交渉を継続させた。

ニクソンはキッシンジャーを使い南ベトナム政府内の強硬派と、戦線の拡大と縮小を巧みにコントロールした上に、1972年には北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問し北ベトナム政府に揺さぶりをかけるなど、様々な手段を使いながら、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日に北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、結果的に「ニクソン・ドクトリン」の発表後も4年以上に亘って戦争を継続する結果となったことは批判を受けた。

アメリカ軍の完全撤退

そして4日後の1月27日に、ウィリアム・P・ロジャーズ国務長官とチャン・バン・ラム南ベトナム外相、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。なおこの功績に対して、キッシンジャー大統領補佐官とト特別顧問にノーベル平和賞が授与された(ト特別顧問は受賞を拒否した)。

中華人民共和国の承認

北京エアフォース・ワンから降りるニクソン夫妻(1972年)
ニクソンと毛沢東
ニクソンと握手をするエルヴィス・プレスリー。プレスリーはこの際ニクソンより麻薬捜査官の資格を与えられた(1973年)
電撃訪問

1949年の国家成立後、長年の間対立関係にあった中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国と和解し、国家として承認することで、冷戦下でアメリカと中華人民共和国の両国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける覇権を樹立することを狙い、1971年7月にキッシンジャー大統領特別補佐官を、秘密裡にパキスタンイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。

また、ベトナム戦争に早期に決着をつけるとともに、アメリカ軍のベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンは、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国と親密な関係を築くことで北ベトナムもけん制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進める狙いもあったと言われている。

この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国の周恩来首相と会談。その後の記者会見で、「近日中にニクソン大統領が中華人民共和国の北京を訪問する」と発表し、世界を驚愕させた。

国交樹立へ

その後、1972年2月21日エアフォース・ワンで北京を訪問、毛沢東主席と釣魚台で会談し、中華人民共和国との国交樹立への道筋を作った。しかし、このことにより、第二次世界大戦前より長年友好関係にあった蒋介石総統率いる中華民国と結果的に断交することとなった為、アメリカ国内のみならず西側諸国の多くの自由主義者と反共産主義者から非難を浴びた。

なお、中華民国との断交など解決しなければいけない懸案が多かったことから、アメリカと中華人民共和国の間の国交回復は、ジミー・カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。

環境対策の推進

工場などからの排出物による大気汚染水質汚染土壌汚染に対する非難の声が高まっていたことを受けて、市民の健康保護と自然環境の保護を目的とする連邦政府の行政機関であるアメリカ環境保護局 (EPA) を1970年12月2日に設立した。設立に先立ち、共和党の支持基盤である大企業からの反発は大きかったものの、環境保全に対する信念と、環境問題に敏感な地元のカリフォルニア州民を中心とした国民の声を背景に、持ち前の政治力でこれを推進した。

さらに1974年2月には、第一次オイルショックによるOPEC諸国の石油禁輸の影響によるガソリン節約、そして交通事故による死亡者の増加を押しとどめることを目的に、自動車の最高速度を全国で時速55マイルに制限する法案に署名した。その後全国の最高速度規制は州により設定する形に戻ったものの、カリフォルニア州をはじめとする多くの州では時速55マイルの制限は続けられており、自動車による石油消費の削減に貢献していると評価されている。

麻薬取締局の設置

ニクソンは、ベトナム戦争やヒッピーの流行に合わせてアメリカ国内で若者を中心に流通が増加し、当時アメリカにおいて深刻な社会問題になっていた麻薬に対して強硬な態度をとり続けた。1970年には特定の薬物の製造、輸入、所有、流通を禁止した規制物質法の策定を行い、1973年5月には、連邦麻薬法の国施行に関する主導機関であり、国外におけるアメリカの麻薬捜査の調査及び追跡に関する単独責任を有している「麻薬取締局(DEA)」の設置を行った。

大統領選挙の大勝利

1972年の大統領選におけるニクソン
2期目の就任式で宣誓を行うニクソン
フォード副大統領とキッシンジャー国務長官
ホワイトハウスを去るニクソン
ニクソン大統領図書館

1972年の大統領選挙では、1期目の実績を高く評価されたニクソンは予備選段階で圧勝し、共和党候補としての指名を受けた。副大統領候補は1期目においてその実務能力が高く評価されていたスピロ・アグニューが引き続き努めることとなった。

民主党は上院院内幹事のテッド・ケネディが民主党候補としての指名を得る有力候補とされていたが、ケネディの大統領候補としての将来は、1969年にケネディが起こした飲酒運転の上での人身事故を伴う女性スキャンダル、いわゆる「チャパキディック事件」によって頓挫した。その結果ニクソンはジョージ・マクガヴァンと争うことになった。

しかしマクガヴァン陣営は、副大統領候補のトマス・イーグルトンが病気で急遽候補を降り、ケネディの遠縁に当たるサージェント・シュライバーが変わって候補となるなど混乱したことや、マクガヴァンの妊娠中絶や麻薬合法化容認に対する姿勢の甘さなどが指摘されたこともあり劣勢に置かれることとなった。

投票は1972年11月7日に行われ、ニクソン/アグニュー陣営は一般投票の60%以上を得て、得票率で23.2%という大差を付け、マクガヴァン/シュライバー陣営を破り、かつアメリカ政治史で最も大きな地滑り的大勝の1つで再選された。全米50州のうちマサチューセッツ州でのみ敗れた(州ではないコロンビア特別区でも敗れた)。

しかしこの選挙において、ニクソンの再選に向けて動いていた大統領再選委員会のスタッフが(恐らくニクソン本人の指示の元に)、ニクソンの大統領として、そして政治家としての命運を絶つ事件を起こすことになった。

副大統領交代

高い実務能力でニクソン政権を支えた功績を評価され、2期目も引き続き副大統領を務めたアグニューは、ボルチモア連邦地方検事のジョージ・ビールにメリーランド州知事時代の収賄の証拠をつかまれ、1973年10月10日に副大統領職を辞任した(その後法曹資格も失った)。

同日にニクソンはジェラルド・R・フォード下院内総務を副大統領に指名した。その後上下両院の承認をうけて(上院は11月27日に賛成92対反対3で承認、下院は12月6日に賛成387対反対35で承認)、フォードは第40代副大統領に就任した。

これはケネディ大統領暗殺を契機に1967年に制定された合衆国憲法修正第二十五条(大統領が欠けた時の副大統領の昇格、ならびに副大統領が欠けたときの新副大統領の任命に関する規定)が適用された初めてのケースとなった。

ウォーターゲート事件と辞任

外交と内政で大きな成果をおさめ、内外からその手腕が高い評価を受け、中間選挙で大勝利し大統領再選を果たしたニクソンを、アメリカ史上初めての大統領任期中の辞任という不名誉な状況に追い込んだのが、中間選挙の予備選真っ只中の1972年6月に起きた民主党全国委員会オフィスへの不法侵入・盗聴事件、いわゆる「ウォーターゲート事件」である。

1972年6月17日に、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会オフィスへの不法侵入と盗聴器の設置容疑で逮捕された5人のうちの1人であるジェームズ・W・マッコード・ジュニアの所持品から、ニクソン大統領再選委員会のスタッフであるエドワード・ハワード・ハントのホワイトハウス内の連絡先電話番号が見つかった。このために、ニクソン政権に近いものがこの事件に何らかの形で関与されていると疑われたが、当初ニクソン大統領とホワイトハウスのスタッフは「民主党全国委員会オフィスへの侵入事件と政権とは無関係」との立場を取り続けた。

しかし、事件調査の過程でニクソン本人がこの盗聴に関わっていたことが明らかになったため、ニクソンは1974年8月8日夜に行われたテレビ演説で辞意を表明し、事件の責任をとる形で8月9日に正式に辞任した。なお、任期中の大統領の辞任はアメリカ史上初めてのことであり、その後も任期中に辞任した大統領は現れていない。

後任のフォード大統領はウォーターゲート事件の調査が終了した後、同年9月8日にニクソンに対する特別恩赦を行った。ニクソンが何のために不法侵入と盗聴を指示したかは未だに定かではないが、結局、自ら辞職したことでニクソンは現実に弾劾されず有罪と判決されもしなかったが、恩赦の受理は実質的に有罪を意味した。

なお事件後に、ニクソンや事件関係者が証拠隠滅のためにウォータゲート事件の資料を廃棄できないよう、アメリカ合衆国議会が制定した大統領録音記録および資料保存法によってウォーターゲート関連書類は政府が押収した。資料はワシントンD.C.地域外への持ち出しが禁止されたので、カリフォルニア州ヨーバリンダの「ニクソン生誕地図書館」ではなくアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)に保管されていた。なお、ニクソンの死後から10年以上が経過した2005年3月に、合衆国アーキビスト (国立公文書記録管理局長)とリチャード・ニクソン生誕地図書館財団との間で書簡が交わされ、2007年7月11日にこれまでは私営として運営されてきた「ニクソン生誕地図書館」は、NARAによって完全に運営されるアメリカ連邦政府管轄の大統領図書館に変わった[20]

支持基盤

大衆受けするものの実現が困難な政策に走らず、堅実な政策を地道に推し進めたことにより、「サイレント・マジョリティ」に代表されるような、幅広い中道保守派層が支持者の多くを占めていた。また、ベトナム戦争の終結を公約に当選したことや、デタントを進めたことから、共和党選出であったものの民主党員やリベラル層にもその支持層を広げていた。

経済界では、自らが顧問弁護士を務めていたペプシコやカリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、さらに連邦議員時代から副大統領時代にかけては、地元のヨーバリンダの近隣のアナハイムで大規模遊園地の「ディズニーランド」を経営していた他、映画界でも高い影響力を持っていた保守派の実業家のウォルト・ディズニーなどから多くの支援を受けていたといわれる。

なお、前任者のジョンソンやケネディ、さらにアイゼンハワーなどの冷戦期の大統領と同様、ニクソンの支援基盤の1つが軍産複合体であり、特に地元の南カリフォルニアに工場を所有していたヒューズ・エアクラフトマクドネル・ダグラスロッキードなどとも関係が深かったといわれている。しかし、ジョンソンやケネディ、アイゼンハワーなど、軍産複合体の利益になるような政策を多数推し進めた前任者らとは異なり、デタントの推進やベトナム戦争からの全面撤退という、軍産複合体の利益にそぐわない政策も果敢に遂行した。

大統領辞任後

ウォーターゲート事件の後遺症

歴代大統領とともに(左から2番目がニクソン)
レーガン大統領とともに

ニクソンの首席補佐官であったH・R・ハルデマンや、内政担当補佐官であったジョン・アーリックマンがウォーターゲート事件への関与により有罪宣告を受け、1976年から1977年の間に懲役刑を受けたことや、その後のウォーターゲート事件関連のさらなるテープの公開。さらにニクソンの死後の2003年7月に、1972年の大統領選挙の際の再選運動本部長だったジェブ・マグルーダーが、「ニクソンが電話で個人的に民主党本部侵入と盗聴を命じてきた」と主張したことは、事件の隠蔽および不法な資金融資、民主党本部への侵入と盗聴に対するニクソンの関与に関する疑惑をさらに明らかなものにした。

イメージの修復

しかしながらニクソンは、ソ連や東欧諸国との冷戦が続く中で「外交問題に詳しい長老政治家」として、ソ連や中華人民共和国へ足繁く訪問しこれらの国々との関係構築に貢献した。さらに1968年の大統領選挙で対立候補として戦い、1980年に大統領に就任したロナルド・レーガンに多くのアドバイスを授けた。

これらの活動を通じてアメリカや西側諸国のみならず、東側諸国の政治家や国民からも高い尊敬を獲得したことや、任期中に行った数多くの政策がその後高い評価を得たこと、さらに回顧録を含む多数の書籍を執筆し、そのいくつかは全米でベストセラーとなったことで、晩年までにニクソンはある程度公のイメージを修復することに成功した。

死去

ニクソンは、1993年6月に肺浮腫ならびに肺がんで死去した妻パットの後を追うように、1994年4月22日にニューヨークで脳卒中とその関連症で81歳で死去した。しかし、アメリカの歴史上初となる任期中の辞任を行ったことなどから、通常大統領経験者の死去の際に行われる国葬は行われず、一市民として生まれ故郷のカリフォルニア州のヨーバリンダにある「ニクソン記念図書館」の敷地内にある妻の墓のそばに埋葬された。

評価

ウォーターゲート事件の後遺症や、一部の反共和党のマスコミからの執拗な攻撃もあり完全な名誉回復はついになされなかったこともあり、アメリカの一般大衆からの人気は現在も決して高いとはいえないものの、デタントの推進や冷戦崩壊への貢献など、外交面で大きな成果を上げたのみならず、内政面においても様々な環境保護政策を実現させたことなどで、アメリカの有識者の間では「偉大な功績を残した歴代大統領の1人」との評価を受けている。

さらに、冷戦下におけるニクソンの外交手腕に高い評価を与える外国の有識者も多く、フランスの元外務大臣で、1960年代後半にシャルル・ド・ゴール大統領の下で首相を務めたモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルは、1986年1月に行われたニューヨーク・タイムズ紙のインタビューの中でニクソンの外交政策とその手腕を絶賛している。

プライベート

弁護士時代の1940年6月に、ネバダ州出身の高等学校教師であるセルマ・キャサリン・ライアンと結婚した。なお、娘のジュリーは、ニクソンが大統領に就任した1968年にアイゼンハワーの孫のデーヴィッド・アイゼンハワーと結婚した。

日本語文献

著書

関連文献

ニクソンに関係する作品

「フロスト×ニクソン」でニクソンを演じたフランク・ランジェラ(左)とニクソン

ニクソンを描いた映画

ニクソンを(基として)描いたテレビドラマ

ニクソンを描いた舞台

ニクソンが出演する映画

脚注

  1. ^ 『ニクソン わが生涯の戦い』P.117 (福島正光訳、文藝春秋、1991年)
  2. ^ デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 1950年代アメリカの光と影 第2部』(金子宣子訳、新潮文庫、2002年)元版は新潮社で上下巻、1997年
  3. ^ 「戦略家ニクソン」P.20 田久保忠衛著 中公新書
  4. ^ リチャード・ニクソン 『ニクソン わが生涯の戦い』略年譜より (福島正光訳、文藝春秋 1991年)
  5. ^ 「戦略家ニクソン」P.54 田久保忠衛著 中公新書
  6. ^ a b c ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第2部』
  7. ^ 「ザ・フィフティーズ」P.267 デイビッド・ハルバースタム著 新潮社
  8. ^ 「戦略家ニクソン」P.66 田久保忠衛著 中公新書
  9. ^ 「ザ・フィフティーズ」P.270 デイビッド・ハルバースタム著 新潮社
  10. ^ 「ザ・フィフティーズ」P.272 デイビッド・ハルバースタム著 新潮社
  11. ^ 『ピーター・ローフォード―ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』P.344 ジェイムズ スパダ著、広瀬順弘訳 読売新聞社刊 1992年
  12. ^ 『マフィアとケネディ一族』朝日新聞刊 1994年 ジョン・H. デイヴィス著、市雄貴訳
  13. ^ 『アメリカを葬った男―マフィア激白!ケネディ兄弟、モンロー死の真相』 サム ジアンカーナ、チャック ジアンカーナ著、落合信彦訳 光文社刊 1992年
  14. ^ 「戦略家ニクソン」田久保忠衛著 中公新書
  15. ^ 原彬久編『岸信介証言録』
  16. ^ 『ライシャワー自伝』エドウィン・O・ライシャワー著 文藝春秋刊
  17. ^ 補佐官は大統領行政特権があるため、行動や任免について議会に対する説明責任がないとされ、議会の規制を受けずに政策を実行できる
  18. ^ “北朝鮮への核攻撃検討―米公文書=偵察機撃墜受けニクソン政権”. 時事通信. (2010年6月24日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010062400278 
  19. ^ これが意図的なものか軍の独走によるものかは定かではない
  20. ^ Joint Use Agreement Launches New, Federal Nixon Library(英文)

関連項目

外部リンク


先代:
アルバン・W・バークリー
アメリカ合衆国副大統領
1953 - 1961
次代:
リンドン・B・ジョンソン
先代:
リンドン・B・ジョンソン
アメリカ合衆国大統領
1969 - 1974
次代:
ジェラルド・R・フォード