リーヴァイ・ライプハイマー

リーヴァイ・ライプハイマー(Levi Leipheimer、1973年10月24日- )はアメリカ合衆国のビュート・モンタナ出身の元自転車競技選手。ドイツ系ドイツ系アメリカ人)の苗字であることから、名前もドイツ語風にレヴィ・ライプハイマーと表記する自転車競技雑誌やwebサイトもある(NHK2007年ツール・ド・フランスのダイジェスト放送でも、この表記が使用された)。かつては姓を英語読みした「ライフェマー」という表記が多く、現在でも時々この呼び方を用いるロードレース解説者もいる。

リーヴァイ・ライプハイマー
Levi Leipheimer
個人情報
本名 リーヴァイ・ライプハイマー
Levi Leipheimer
生年月日 (1973-10-24) 1973年10月24日(50歳)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
身長 170cm
体重 62kg
チーム情報
所属 オメガファーマ・クイックステップ
分野 ロードレース
役割 選手
特徴 オールラウンダー
プロ所属チーム
1998–1999
2000–2001
2002–2004
2005–2006
2007
2008–2009
2010–2011
2012–
サターン
USポスタル
ラボバンク
ゲロルシュタイナー
ディスカバリーチャンネル
アスタナ
レディオシャック
オメガファーマ・クイックステップ
グランツール最高成績
主要レース勝利
ツール・ド・スイス 2011
ツアー・オブ・カリフォルニア 2007-2009
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国選手権・個人ロード 2007
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国選手権・個人TT 1999
獲得メダル
オリンピック
2008 北京 個人タイムトライアル
最終更新日
2012年1月30日

経歴 編集

初期のレースキャリア 編集

もともとスキー滑降)の選手であったが、夏場のトレーニングの一環として自転車を取り入れたのがきっかけとなり、自転車競技に転向する。

アマチュア時代の1995年ベルギーのステージレース、ツール・ド・ナミュールで総合優勝。1996年にプロ登録選手となるが、1998年にアメリカのサターンと契約。1999年にはアメリカ合衆国選手権・個人タイムトライアルを制覇。また、同年のパンアメリカン競技大会の個人ロードレースで2位に入ったほか、カナダで開催されたツール・ド・ブオスでも総合優勝を果たした。

2000年~2006年シーズン 編集

2000年ランス・アームストロングを擁するUSポスタルサービスに移籍。翌2001年ブエルタ・ア・エスパーニャでは、総合3位に食い込む健闘を見せた。ただし、アームストロングとはチーム内では別グループだったため、いっしょに走ったことはほとんどなかったという。

2002年にラボバンクに移籍。ツール・ド・フランスに初出場し、総合8位に食い込む。さらに2004年ツール・ド・フランスでも総合9位に入った。

2005年からはゲロルシュタイナーへ移籍。アームストロングが総合7連覇を達成(ただし後日にドーピングが発覚して全成績取消、ランス・アームストロングのドーピング問題参照)したツール・ド・フランスでは総合6位に入ったほか、その後のドイツ・ツアーでは総合優勝を達成した。

2006年にはドーフィネ・リベレで総合優勝(山岳賞部門は2位)したほか、ツール・ド・フランス総合13位、ドイツ・ツアー総合2位、アメリカ合衆国選手権2位、さらにこの年より開始された、ツアー・オブ・カリフォルニアで山岳賞を獲得するなどの成績を残した。

2007年シーズン 編集

2007年USポスタルサービスのスポンサー撤退に伴ってチーム名を変更したディスカバリー・チャンネルに移籍。シーズン当初のツアー・オブ・カリフォルニアで総合優勝を果たす。

そしてこの年のツール・ド・フランスでは、チームメイトのアルベルト・コンタドールとプレディクトールロットのカデル・エヴァンスを相手に最後まで熾烈なマイヨ・ジョーヌ争いを演じ、第19ステージの個人タイムトライアルを制するなど大健闘を見せたが、コンタドールに31秒及ばず、総合3位となった。

しかし、この年はその後もドイツ・ツアーで昨年に引き続き総合2位に入ったほか、アメリカ合衆国選手権の個人ロードレースで初優勝を果たす活躍を見せている。

2008年シーズン 編集

2008年からはディスカバリーチャンネルの解散に伴い、コンタドールらとともに、アンドレアス・クレーデンらが在籍するアスタナへと移籍。同年2月、ツアー・オブ・カリフォルニアにおいて総合優勝し、連覇を果たしている。

同年のジロ・デ・イタリアではアスタナのリーダーとして出場したが、中盤ステージ以降、総合優勝を果たすことになるアルベルト・コンタドールのアシスト役に回り、自身は総合18位。その後行われたドーフィネ・リベレでは、総合優勝のアレハンドロ・バルベルデ、同2位のカデル・エヴァンスと最後まで競り合い、総合3位に入った。

8月に行われた北京オリンピックでは、個人タイムトライアルで銅メダルを獲得。ブエルタ・ア・エスパーニャではエースであるアルベルト・コンタドールのアシストを務めながらもタイムトライアルステージで2勝を挙げて、総合2位にはいる大活躍を見せた。

2009年シーズン 編集

2月にツアー・オブ・カリフォルニアの総合3連覇を達成。3月にはブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンで総合優勝を遂げた。

同年のジロ・デ・イタリアでは、第12ステージの個人タイムトライアルで好走して総合3位まで浮上するが、難関山岳ステージとなった第16、第17ステージで相次いで総合上位陣から遅れてしまい、その後も挽回できずに総合6位に終わった。同年のツール・ド・フランスにも出場。しかし第12ステージの残り2km地点での落車に巻き込まれ、右手首の舟状骨を骨折。その時点で総合4位につけていながら、第13ステージに出走せずにリタイアとなってしまった。

2010年シーズン 編集

2010年チーム・レディオシャックに移籍。

2011年シーズン 編集

2012年 編集

オメガファーマ・クイックステップに移籍。

10月10日、過去にドーピングを行っていた事を認め、全米アンチドーピング機関(USADA)は6ヶ月の出場停止と1999年6月1日~2006年7月30日、2007年7月7日~29日の成績を剥奪する処分を下した[1]
その後、2013年5月にインタビューに答え、出場停止期間明けに新たなオファーがなく、そのまま引退したことを明かした[2]

タイプ 編集

山岳コースを得意としており、タイムトライアルでも好成績を残している。対してワンデイレースにおける実績はあまりなく、ステージレース向きの選手であるといえる。

脚注 編集

  1. ^ USADAの公式声明(英語)成績剥奪期間は"Appendix AA"を参照のこと。
  2. ^ Leipheimer confirms: I'm retired(英語)

外部リンク 編集