ロナルド・アーサー・ビッグズ(Ronald Arthur Biggs, 1929年8月8日 - 2013年12月18日)は、イギリスロンドン郊外ランベス出身の犯罪者。1963年の大列車強盗の犯人の1人。

ロナルド・ビッグズ

18歳の1947年にイギリス空軍に入隊したが1949年には脱走兵として除隊処分になった。1960年に結婚して息子が3人生まれた(そのうち1人は亡くなっている。)。

列車強盗 編集

1963年8月8日、彼とその仲間はグラスゴーからロンドンに向かう郵便列車から260万英ポンド(現在の価値でいうと4000万英ポンド)を強奪した。深夜午前三時、ロンドン郊外を走る列車が赤信号で停止、不審を感じて信号に近づいた運転士のJack Millsは殴られて気絶した。一味は列車に積まれていた現金を車で運び去った。運転手はこのときの傷が元で7年後に死亡したが、当時のイギリスの刑法に「傷害事件の被害者が1年と1日以内に死亡しない場合は殺人事件として立件しない」という規定があったため、死刑適用の殺人罪での立件はされなかった。

逮捕から収監・脱獄 編集

一味は逮捕され、彼は有罪の判決後にワンズワース刑務所で服役することとなった。1965年7月8日に同刑務所を脱走、パリで顔の整形手術を施し同年英国海外航空の飛行機でオーストラリアシドニーに逃れて数ヶ月暮らした後、1966年にはアデレードに逃れそこで妻と2人の子供に再会した。1967年にはインターポール探偵が彼を探し回っていることを知った彼はメルボルンに逃れ郊外のブラックバーンノースに家を借りた。1969年にロイター通信の報道でメルボルンにいることを突き止められた彼はその5ヵ月後にメルボルン港からパナマを経由してブラジルリオデジャネイロに逃れた。

1971年に彼の長男は10歳で交通事故により亡くなった。1974年にデイリー・エクスプレスのコリン・マッケンジーは彼がリオデジャネイロに潜伏している情報を得て取材班を結成。続いてスコットランドヤードからも刑事が向かったが犯罪人引渡し条約の関係及び彼の子を妊娠していたナイトクラブのダンサーだったガールフレンドの存在で逮捕されることはなかった。これは当時「ブラジルで生まれた子供の父親が外国人である場合、その父親は身柄を拘束されない」という法律に引っかかったためである。彼は仕事をすることもなく毎日バーに現れては午後10時に帰宅した。彼は家庭でバーベキューを開いて観光客相手に列車強盗の話をしたがこれはあまり人気がなかったと言われている。

ドキュメンタリー制作のために彼がイギリスに帰るのではないかといった噂が何度も流れた。

1978年パンク・ロックバンドのセックス・ピストルズのドキュメンタリー映画、ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドルジュリアン・テンプルの映画でボーカルとしてレコーディングを行っている。これらの歌はギターのスティーヴ・ジョーンズ、ドラムのポール・クックがブラジルで収録に参加した。「No One Is Innocent (Cosh the Driver)」と「Belsen Was a Gas」に収録された。

1981年、彼は誘拐されてバルバドスに連れて行かれた。誘拐犯は彼をイギリスに引き渡そうとしたがバルバドス政府の反対でイギリスに引き渡されることなくブラジルに帰国した。1982年に彼の息子がBalão Mágicoの一員となり人気となったがこのグループは1986年に解散した。

1991年、ドイツのバンド、ディ・トーテン・ホーゼンの"Police On My Back"、"Carnival In Rio (Punk Was)"でボーカルとして歌った。1993年にはアルゼンチンのパンクバンドの3曲を歌っている。

イギリスへの帰国から釈放・死去まで 編集

2001年5月、ザ・サンで彼はイギリスに帰国したがっていることを告白した。5月7日にイギリスに帰国した彼はただちに逮捕、収監された。このときザ・サンは独占取材権を得るために2万ポンドかかった専用機のチャーター費用などを受け持った。彼は心臓の病を患っておりこのときにマスコミの一部が彼は健康問題のため帰国したと報道したことに対して彼の息子は病気の治療はブラジルでも受けられると反論した。彼は逮捕されてから6ヶ月の内に4回も病院で治療を受け、死の直前に息子の世話になりたいと早期の釈放の嘆願を出し続けた。2005年8月10日、彼がMRSA感染したことが明らかになった。しかし同年10月26日、内務大臣のチャールズ・クラークは彼の訴えを退けた。2007年7月4日に刑務所を移ったが12月にも死ぬ前に家族と共に暮らしたいと釈放されることを訴えた。

2009年1月発作が起きた後、彼は話したり自分で歩くこともできなくなった。2月13日には肺炎のため刑務所から病院に入院したことが明らかになり、彼の息子は父親の釈放を訴えた。4月23日に7月4日に彼を釈放するべきだといった意見が仮釈放判断する委員会で決まったがジャック・ストロー大法官はこれを拒否、7月28日に彼はまたしても肺炎で大学病院に入院した。その1ヶ月前、胸部の感染症や腰の骨を骨折して7月17日に退院し刑務所に戻ったばかりであった。2009年8月6日、80歳の誕生日を前にしてようやく彼は釈放された。刑務所から釈放された後、健康状態は回復しており、彼の病気は嘘であったのではという指摘に対して弁護士は彼の病気は本当のことでそれほど長く生きられないだろうと述べた。またビッグズ自身も自分はクリスマスまで生きることはできないだろうと述べている。

2013年12月18日、ロンドンの介護施設で死去[1]。84歳没。

脚注 編集

  1. ^ “英列車強盗のビッグズ元受刑者死去 自伝出版、映画にも”. 朝日新聞. (2013年12月18日). オリジナルの2013年12月18日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/O8uxJ 

外部リンク 編集