ヴェクサシオン』(Vexations)は、エリック・サティが作曲したピアノ曲である。

概要 編集

 
『ヴェクサシオン』のピアノ譜

題名の意味は色々に訳されている。ヴェクサシオンには「嫌がらせ」「癪の種」という意味もある[1]。その他にも、「自尊心を傷つけるもの」という意味だと書く書籍[2]もある。52拍からなる1分程度の曲を840回繰り返す曲である[注 1]

サティによる楽譜には「このモチーフを連続して840回繰り返し演奏するためにはあらかじめ心の準備が必要だろう もっとも深い沈黙と真剣な不動性の姿勢によって」と書かれている[5]

繰り返しありで世界一長いピアノ音楽だが、メトロノーム記号によるテンポの指定がないため、全曲で18時間から25時間まで幅がある。ただし、J. S. バッハ『音楽の捧げもの』(BWV 1079)の「無窮カノン canon perpetuus」、ショパンマズルカ作品7-5作品68-4、サティの「スポーツと気晴らし」中の第16曲「タンゴ」のように終わりがなく永遠に繰り返しされる曲や、ジョン・ケージの「ASLSP」のように演奏時間を約639年も故意にかけるものが、楽譜化されたより長い曲として存在する。

作曲時期 編集

正確なことは不明であるが、1895年頃ではないかと推測されている[1]。ただし、1892-93年と書いている文献[6]も存在する。

出版 編集

「祈り」、「ヴェクサシオン」、「ハーモニー (3つの断片)」の3曲をロベール・キャビ―英語版[注 2]が『神秘的なページ』という題名をつけてまとめ、1969年にパリのマックス・エシク社から公刊した[1]。これらのうち、「祈り」と「ハーモニー」はキャビーがフランス国立中央文書館に保管されていたサティのワークブックから発見してきた断片で、共にキャビ―による命名である[7]。元々、これら3曲には何の関係性もない[8]。日本国内では、高橋アキが校訂した「エリック・サティピアノ全集」(全音楽譜出版社)の第2巻に含まれている。

作曲技法 編集

作曲にあたって、サティは次の数列 (リュカ数) を利用したと考えられている[9]

Ln = 2,1,3,4,7,11,18,29,47,...

この数列は、L0=2L1=1Ln+2=Ln+1+Ln で定義されている。

和声付けされた旋律が3声部からなっていること、バスのテーマが11音から構成されていること、18種の和音からなっていること、29個の音で構成されていること、繰り返しの回数である840は、上記の数列のうち、1から322までの総和であることなど、この数列を利用したらしき形跡がある。

演奏 編集

1963年9月9日、ニューヨーク・ポケット・シアターでジョン・ケージらによって初演された[1]。この時は10人のピアニストと2人の助っ人が夕方6時から演奏を開始し、翌日の午後0時40分まで演奏をし続けた。

その数年後の1967年10月には、イギリスの音楽学者リチャード・トープドルリー・レーンアーツラボ英語版で約24時間にわたる演奏を行った。これがこの作品における初めてのソロ演奏である[10]

ピアニストのピーター・エヴァンスは1人で演奏しようとしたが595回弾いたところで幻覚症状に陥って演奏をやめている[5]。演奏時間は約15時間。

日本初演は、1967年12月31日昼前に東京・アメリカ文化センターで始められ、年越しをして1968年1月1日朝に終了した[1]。演奏に参加したのは、一柳慧石井真木湯浅譲二ロジャー・レイノルズ黛敏郎ら16人である[1]

その後もごくたまにではあるが完全に演奏されることがある。1975年から秋山邦晴が企画した「異端の作曲家エリック・サティ連続演奏会」の中でも全曲演奏が行われた[11]。この時には演奏に約13時間かかった[11]。演奏には全部で40人が参加、音楽学生や演奏家(高橋アキら)の他にも、柴田南雄入野義朗武満徹、黛敏郎、石井真木、三宅榛名近藤譲坂本龍一らが参加している[11]

2004年5月5日放送のフジテレビ系『トリビアの泉』でも紹介され、3月24日正午12時から、東京都渋谷区にある白寿ホールで実際にピアニスト(神田晋一郎上雅子安西彩絵の各奏者)が50回毎の交替で演奏したところ、全て弾き終えるのに18時間18分かかった[5]

2020年5月30日には、ドイツ・ロシアのピアニストイゴール・レヴィットがベルリンで演奏し、15回の休憩を挟んで15時間28分で弾き終えた。ライブは無観客で、Periscopeを通じて配信された。楽譜は予め840枚用意され、1枚弾き終えたらそれを床に落とす方式が取られた[12]

2021年2月3日には、八ヶ岳南麓の清里にあるオルゴール博物館「ホール・オブ・ホールズ」にて、12名の演奏家、作曲家らによる演奏が行われ 23時間19分で演奏し終えた。演奏者は、福井真菜、岩田渉、山本雅一、山本かおり、吉原太郎、山口敬太郎、三枝数也、川乃さちこ、山本護、横山智加、小松原俊一、佐竹あゆみ。 使用された楽器は、ピアノ、ホルン、トランペット、チェロ、コントラバス、鍵盤ハーモニカ、ヴォイス、オルガネッタ(手回しオルガン)、オルガニート (手回しオルゴール)。

2021年3月、岩田渉はベルギーのレーベルOffのAlain Lefebvreとともに次のようなコンセプトをたてた:21人のアーティストがそれぞれ40回ずつ曲を録音し、エリック・サティが要求した合計回数に到達する。彼らが行なった参加者への依頼は以下のようなものである:「自分の好きな楽器、好きなテンポ、好きなアレンジで40回演奏してください。」

日本、ベルギー、ウクライナ、フランス、イギリス、スイスの21人のアーティストがこれに応え、ピアノ(エフェクトをかけたもの、立体音響など、様々なもの)、メロディカ、ボーカル、フルート、パーカッション、尺八、フレンチホルン、バイオリン、コンピューター、オルガネッタ、ギターなどでそれぞれのバージョンを録音した。

All the 21 recordings - Bandcamp

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 「52拍」という部分には若干の補足が必要である。楽譜は、両手用に書かれた部分とバスのテーマが別々に書かれており、両手用の楽譜は52拍、バスのテーマは26拍からなっている[1][3]。両手用に書かれた楽譜は、バスのテーマに和声付けしたものである[4]。バスのテーマを含めて840回演奏するか、それとも両手用に書かれた部分のみかで演奏時間は大幅に違ってくる。
  2. ^ サティの最晩年に現れた弟子。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g 秋山邦晴『エリック・サティ覚え書』青土社、1990年、347頁。ISBN 4-7917-5069-1 
  2. ^ アンヌ・レエ『エリック・サティ 高橋アキによるあとがき』白水社、2004年、218頁。ISBN 4-560-07371-6 
  3. ^ レエ『サティ』p.52.
  4. ^ レエ『サティ』pp.51-53.
  5. ^ a b c フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 8』講談社、2004年。 
  6. ^ レエ『サティ』作品表 p.2.
  7. ^ 秋山『覚え書』pp.347-348.
  8. ^ 秋山『覚え書』p.348.
  9. ^ Erik Satie Complete Piano Works, Vol.3, Grand Piano GP763、ブックレット
  10. ^ Richard Toop - obituary : Feature Article : Australian Music Centre”. www.australianmusiccentre.com.au. 2020年5月31日閲覧。
  11. ^ a b c レエ『サティ』p.217.
  12. ^ Soto, Alondra Flores (2020年5月30日). “Pianista Igor Levit interpretó obra durante 20 horas - Cultura - La Jornada” (スペイン語). www.jornada.com.mx. 2020年5月31日閲覧。

参考文献 編集

  • 秋山邦晴『エリック・サティ覚え書』青土社、1990年。ISBN 4-7917-5069-1 
  • アンヌ・レエ『エリック・サティ』白水社、2004年。ISBN 4-560-07371-6 (原著の発刊は1974年。)
  • Erik Satie Complete Piano Works, Vol.3, Grand Piano GP763、ブックレット

関連項目 編集

外部リンク 編集