一条兼良

一条 兼良(いちじょう かねよし、応永9年5月7日1402年6月7日) - 文明13年4月2日1481年4月30日))は、室町時代公卿・古典学者。名は一般にはかねらと読まれることが多い。関白左大臣一条経嗣の六男。官位従一位摂政関白太政大臣准三宮桃華叟三関老人後成恩寺などと称した。

概説

病弱であった兄の権大納言経輔隠居の後を受け応永19年(1412年元服して家督を継ぐ。翌年従三位に叙せられて公卿に列し、累進して正長2年(1429年)に左大臣に任ぜられるが、実権は従兄弟の二条持基に握られていた。永享4年(1432年)には摂政となったが、月余で辞退。その後は不遇をかこった。

しかし、学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与した。享徳4年(1455年)頃、『日本書紀纂疏』を著す。応仁元年(1467年)1月に関白に還補したが、同年9月に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」が焼失した。応仁2年(1468年)8月に奈良興福寺大乗院に子で門跡の尋尊を頼って身を寄せた。奈良でも講書、著作に力を入れ、源氏物語注釈書『花鳥余情』を完成させる。のち斎藤妙椿の招きで美濃におもむき、文明5年(1473年)には『ふぢ河の記』を執筆している。

文明9年(1477年)、応仁の乱が終息し、12月に帰京。9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうける。富子の前で『源氏物語』を講じ、『樵談治要』を義尚に贈り、政道の指南にあたると共に公武を問わず好学の人々に学問を教えた。兼良は、当時の人々からは、「日本無双の才人」と評され、兼良自身「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、有職故実の研究から、和歌連歌楽などにも詳しかった。また、古典では従来の研究を集大成し、宋学の影響を受け、一種の合理主義的な立場から、神仏儒教の三教一致を説いた。主要著作は70歳を過ぎてからのものであり、その後女児3人をもうけるという精力家であった。

文明13年(1481年)4月2日薨去。享年80。その死に対して、「五百年来この才学無し」とまで惜しまれた。墓は京都東山東福寺常楽院にある。

官歴

※日付=旧暦

系譜

日本史内に戦国観をなぞらえる

国内史において、応仁の乱頃の世情を指して、中国の春秋戦国期になぞらえる見方を、著書の『樵談治要』に記したのが兼良である。厳密には、16世紀初頭を「戦国」と表現した資料の初見は関白である近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』永正5年(1508年)4月条の「しかしながら、(古代中国の)戦国の世の時の如し」(室町将軍や細川家督が共に京から逃げた時期)であるが、当時代を戦国期と公家達が認識し、応仁の乱後を戦国の世と位置付ける役割を担った一人が兼良といえる。

著書

関連項目