丁鉉
生涯 編集
1415年(永楽13年)、進士に及第した。太常博士に任じられた。工部員外郎・刑部員外郎・吏部員外郎を歴任し、刑部郎中に進んだ。1438年(正統3年)、刑部右侍郎に抜擢された[1]。1444年(正統9年)、四川に出向して茶の課税を監理し、その常数を減らして、豊年を待つよう上奏した。江淮および山東・河南の飢饉に対して振恤をおこなった。1449年(正統14年)、オイラトのエセン・ハーンが侵攻してくると、丁鉉は英宗の親征に扈従して、土木の変により殺害された。刑部尚書の位を追贈された。諡は襄愍といった。
子の丁琥は大理寺評事となった。
脚注 編集
参考文献 編集
- 『明史』巻167 列伝第55