三河国

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三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。三の大字を用いて参河国とも表記する。別称は三州または参州 (さんしゅう) 。領域は現在の愛知県の東部にあたる。『延喜式』での格は上国近国

「三河」の名称と表記

大宝律令以前は、三川と表記。律令制~平城京までは参河と表記。長岡京以後は、三河と表記したことが、木簡から判明している。

三河の国号の由来は、元来不明であるが、西尾の神官の渡辺政香;参河志:1836年(天保7)の中で「三川は参河国なり。此国、男川 豊川[1] 矢作川[2]とて、三の大川 ある故に、三川と名くと云えり」との記述がある。この記述は尾張藩士の岡田啓による三河国号起源にも引用されている[3]。この3つの川は巴山より流れ下る。

沿革

645年大化の改新後に穂国造と参河(三河、三川)国造の支配領域を合わせて成立したと考えられているが確証はない。参河国が確実に存在したのは律令制の成立以後である。穂国に関しては7世紀後半に石神遺跡から、三川国穂評と記載された木簡が出土しており、「穂」が三河の一集落であると読み取れることから存在を否定する説も強い。また穂国造は、偽書説のある先代旧事本紀にしか登場しない(他の史料で、東三河を穂国(穂の国)と呼称している事実はない)。

穂国造の本拠は宝飯郡であるが、確定できる主要な古代遺跡がないため中心地は不明である。

西三河に該当する三河国造の本拠は、二子古墳のある鹿乗川流域遺跡群安城市桜井町地域)と推定されている[4]。石神遺跡から出土した木簡に、桜井君、長浴部直と記載された地方国主を想定するものがある。また、三河国内では、古代の木簡は、安城市の下懸遺跡(小川町)・上橋下遺跡(古井町)からしか出土していない。また、市の付く地名が、その国の中心地と想定され、大市郷[5](安城市上条町)、古市(安城市古井町)と、「市人」と記載された墨書土器出土(二子古墳南の桜林遺跡;安城市桜井町桜林)など、安城市の鹿乗川流域にある。

地方の行政区画である郡は、豪族の支配領域が踏襲されて碧海、賀茂、額田、幡豆(はず)、宝飫(ほい)、八名、渥美の七郡であった(律令の施行規則『延喜式』民部式)が、後に設楽郡が宝飫郡から分立して八郡となった。各地に盤踞する豪族の内でも古墳時代を通じてヤマト政権と強い関係を持った国造から優先的に郡司に任命された。

国内の施設

国府

国府は2説がある。時代による移動があったという説もある。

1999年(平成11年)3月、豊川市八幡町で長さ100メートル以上、幅員22メートルの小石を敷き詰めて舗装した大道が発見されている。国府と国分寺をつなぐ道路遺構とみられている。

国分寺・国分尼寺

三河国分寺
国分僧寺は豊川市八幡町本郷にあった。1985年昭和60年)から1988年(昭和63年)の発掘調査で金堂講堂、塔跡などが確認された。現在は跡地に永正年間創建の国府山国分寺があり、古代の国分寺の銅鐘(梵鐘)を伝える。
三河国分尼寺
尼寺は同じく豊川市八幡町忍池にあった。発掘調査で遺構が確認されている。現在跡地に祇園山清光寺が建っている。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、小社26座25社が記載されている。大社はない。
総社一宮以下

守護所

承久の乱後に三河守護に任命された足利義氏が、矢作東宿(岡崎市明大寺付近と推定)に守護所を設置したと推定されている。矢作東宿には、額田郡公文所も設置された。

安国寺利生塔

地域

国境

隣国との境界線は、いずれも「境川」である。(現在名も同様。)詳しくは境川 (境川水系・愛知県)及び境川 (静岡県・愛知県) を参照。

東海道名所図会より、堺川(尾三両国堺) 三遠境川。

西三河・東三河

昔は、三河といえば西三河が指された。三河物語においても、西三河を単に、三河(国)と言い、牛窪・吉田(豊川豊橋)辺りを特段に指定する場合、東三河(国)と呼称している。

レオン・パジェス1814年1886年)の『日本切支丹宗門史』下巻の1631年の項でも三河、御油吉田と列挙していることからも、矢作川流域を三河と呼称していた。

幕末に編纂された徳川実紀において、初めて、西三河という呼称が登場する。この頃になって、ようやく三河国を東西に分割して、西三河(矢作川流域)、東三河(吉田川流域)と呼称するようになったと思われる[7]

江戸時代の藩

三河国には大藩はなく、旗本領、寺社領、幕府直轄領(天領)も多かった。

三河国の藩の一覧[8]
藩名 居城 藩主
三河吉田藩 吉田城
西尾藩 西尾城
岡崎藩 岡崎城
刈谷藩 刈谷城
挙母藩 陣屋
桜城
  
陣屋
挙母城
大給藩
奥殿藩
大給陣屋
奥殿陣屋
  • 大給松平家:1万6千石、1684年 - 1863年(藩庁を飛び地の信濃佐久郡に移す)
田原藩 田原城
  • 戸田家:1万石、1601年 - 1664年(肥後天草郡富岡藩2万1千石に移封)
  • 三宅家:1万2千石、1664年 - 1871年
西端藩 西端陣屋
  • 本多家:1万5百石、1848年 - 1871年
西大平藩 西大平陣屋
三河中島藩 中島陣屋
  • 板倉重矩:1万石→2万石→4万石→5万石、1638年 - 1672年(下野烏山藩5万石に移封)
作手藩 亀山城
伊保藩 伊保陣屋
深溝藩 深溝城
三河中島藩 中島陣屋
  • 板倉重矩:1万石→2万石→4万石→5万石、1640年頃 - 1672年(下野烏山藩5万石に移封)
大浜藩 大浜陣屋
新城藩 新城城
足助藩 足助陣屋
  • 本多忠周:1万石、1683年 - 1689年(7000石の旗本に)
形原藩 形原城
畑村藩
大垣藩支藩
畑村陣屋
  • 戸田家:1万石、1688年 - 1869年(美濃国大野郡野村に藩庁を移転)

人物

国司

守護

鎌倉幕府

室町幕府

戦国時代

戦国大名

豊臣政権の大名

三河国の合戦

脚注

  1. ^ 江戸時代末期の天保年間には、吉田川(豊川とよがわ濁音ではない)と江戸幕府は明記しているのだが、海道記に、豐河の宿に泊りぬ。この川は流ひろく、水深くして、まことに豐かなる渡りなり。と記載されているため、宿場名(集落名)と河の呼称を混同して、豊川と引用したものと思われる。鎌倉時代当時は、律令制と同じ飽海川であったと思われる。室町~江戸末期は、吉田川。明治以降、豊川(とよがわ濁音)。
  2. ^ 矢作川の呼称は、古代から現在に至るまで、矢作川(矢矧川、やはぎには各種の字が当てられている。)で不動であり、著名な1級史料その他に多数引用されているため、間違うことはない。
  3. ^ 参河国全図;天保8年
  4. ^ 平凡社マイペディア愛知県埋蔵文化財センター安城市埋蔵文化財センター
  5. ^ 石神遺跡木簡に記載あり
  6. ^ 1264年の史料に「一宮領内麻宇田村」、『三河物語』に「一ノ宮、市之宮」、元禄14年の三河国絵図に「一之宮村」、江戸後期の三河国図に「一之宮」、天保8年の三河国全図に「一宮」等の記載がある。
  7. ^ 三河国を東西に分割して、西三河、東三河と呼称したことがわかる確実な史料は、徳川実紀;嘉永2年(1849年)である。「是より先三河國帰順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次。石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の数正にゆずり。」
  8. ^ 参考文献の2、1178-1179頁・「近世大名配置表」による。

参考文献

  1. 今谷 明 『戦国大名と天皇』 講談社〈講談社学術文庫1471〉、2004年(第5版)、ISBN 4-06-159471-0

関連項目