三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月27日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

三浦 敏事
生誕 1888年7月27日
大日本帝国の旗 大日本帝国 石川県
死没 (1953-07-31) 1953年7月31日(65歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1907 - 1939
最終階級 陸軍中将
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経歴 編集

石川県生まれ。1905年明治38年)3月、金沢第一中学校(12回)を経て、同級生の役山久義らとともに陸軍士官学校(陸士)へ合格。同級生83名から陸海軍軍人を選んだものが、20名に及ぶ。

1907年(明治40年)5月、陸士(19期)歩兵科を卒業。19期は、日露戦争における下級将校の不足を補うため、一般中学から大量採用された珍しいクラスである。このクラスから後に5人の大将(塚田攻今村均田中静壱河辺正三喜多誠一)が誕生する。三浦の卒業成績は62番/1,068名。ちなみに役山は58番。のちに大将までに上り詰める田中静壱(43番)、今村均(54番)、河辺正三(139番)たちと遜色のない優等生だった。

同年12月、歩兵少尉に任官し、出身地である金沢第9師団所属の歩兵第7聯隊附となる。1910年(明治43年)11月、歩兵中尉に進級。1914年大正3年)には大隊副官、1917年(大正6年)8月には歩兵大尉に進級。同日付けで、金沢一中の同窓生である鶴清吉(10回、陸士18期)、上田作太郎(11回、陸士18期)も歩兵大尉に進級している。鶴と作田は、同年9月時点で歩兵第7聯隊中隊長を務めている。11月に陸軍大学校29期)を卒業した三浦も同聯隊中隊長に就任している。

1920年(大正9年)9月時点では、参謀本部部員としてカムチャッカ方面地理調査に赴いている。1922年(大正11年)8月、歩兵少佐に進級。1924年(大正13年)9月頃には歩兵第38聯隊大隊長1925年(大正14年)4月13日付けで宇垣軍縮による歩兵第9聯隊附(京都府師範学校服務)となっている。

1926年(大正15年)8月、歩兵中佐に進級。1927年昭和2年)3月、第11師団参謀、1929年(昭和4年)8月に参謀本部附として漢口に駐在する。1931年(昭和6年)8月、歩兵大佐に進級、大阪聯隊区司令官に就任する。1933年(昭和8年)8月に歩兵第37聯隊長1935年(昭和10年)3月に第5師団参謀長を経て、1936年(昭和11年)3月に少将に進級、同日付で奉天特務機関長。1937年(昭和12年)8月に歩兵第21旅団長に就任し、日中戦争に出征する。平型関の戦いで苦戦を強いられた。同年10月に留守第11師団司令部附、1938年(昭和13年)7月に第2独立守備隊司令官に就任する。同年10月に勲二等瑞宝章を受章、1939年(昭和14年)3月、中将に進級。同年8月に第9師団司令部附、待命、予備役編入となった。翌月、正四位を贈られた。

ちなみに役山は、秋田歩兵第17聯隊附を振り出しに、陸軍歩兵学校教官、関東軍作戦主任参謀千葉聯隊区司令官、歩兵第15聯隊長と進み、歩兵第24旅団長(少将)を最後に予備役編入となっている。

参考文献 編集

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 陸軍省『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(1912年-1936年)(国立国会図書館デジタルコレクション
  • 石川県立金沢第一中学校一覧. 大正4年度(国立国会図書館デジタルコレクション)