上杉憲寛

戦国時代の武将、関東管領。上杉氏14代。足利高基の四男。

上杉 憲寛(うえすぎ のりひろ)は、戦国時代武将関東管領上杉氏山内上杉家)14代当主。足利 晴直(あしかが はるなお/はるただ)とも呼ばれる。

 
足利晴直 / 上杉憲寛
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文20年2月24日1551年3月31日
改名 足利賢寿王丸(幼名)→上杉憲寛→足利晴直
別名 上杉憲広、宮原晴直、通称:四郎
戒名 晴敲院
幕府 室町幕府関東管領
氏族 足利氏上杉氏→足利氏
父母 父:足利高基
母:宇都宮成綱娘・瑞雲院
養父:上杉憲房
兄弟 足利晴氏高実、雲岳周揚(甘棠院二世、俗名:時氏)、晴直大内晴泰、瑞山尼(東慶寺18世)
養兄弟:憲政
足利義明の娘
上杉義勝(宮原義勝)、東獄(甘棠院三世)
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生涯 編集

古河公方足利高基の四男として誕生した。

大叔父(祖父・足利政氏の弟)上杉顕実(足利義綱)との争いに勝利して山内上杉家の家督と関東管領職を継いでいた上杉憲房の養嗣子となる。大永3年(1523年)、憲房に実子・憲政が生まれるが、大永5年(1525年)に憲房が死去すると憲政は幼少だったことから、憲寛が跡を継いで関東管領となった。

その頃、扇谷上杉家上杉朝興は台頭する後北条氏に対抗するために、江戸湾の支配を巡って後北条氏と対立関係に陥っていた小弓公方足利義明との連携を図り、さらに上杉一族の結集を目指して山内上杉家当主である憲寛にも協力を求めた。憲寛はこれに応じたものの、実父・高基とその弟である義明は古河公方の地位を巡って敵対関係にあり、朝興を介在して義明とも同盟関係に入った憲寛は結果的に父・高基や兄・晴氏とも戦うことになった[1]

更に享禄4年(1531年)、関東享禄の内乱の結果、管領職を失う[2]。以上の経緯から古河に戻ることが出来ず、真里谷信政を頼って、義明の支配下にあった上総国宮原に移住する。上杉氏を追われた後は足利に復姓した上、同母兄・足利晴氏と同様に、12代将軍・足利義晴から[3]偏諱を受けて晴直[4]と名乗った。

天文20年(1551年)、同地で死去した。

孫の宮原義照からはその地名により宮原姓を称し[5]江戸幕府旗本となった。

脚注 編集

  1. ^ 千野原靖方『新編房総戦国史』崙書房出版、2000年、P51-62
  2. ^ 黒田基樹 「関東享禄の内乱」 『関東足利氏と東国社会 中世東国論 5』 岩田書院、2012年
  3. ^ あるいは晴氏から直接。
  4. ^ はるただ/はるなお、「直」の読みに関しては足利満直と同様。
  5. ^ 今日では、晴直自身も宮原晴直と呼ばれることがある。

出典 編集