中村光一

日本のゲームクリエイター、実業家

中村 光一(なかむら こういち、1964年8月15日 - )は、日本ゲームクリエイター実業家。株式会社スパイク・チュンソフト取締役会長。香川県出身。タレントの松本明子は従妹にあたる[1]

なかむら こういち

中村 光一
生誕 (1964-08-15) 1964年8月15日(59歳)
日本の旗 日本香川県
国籍 日本の旗 日本
職業 ゲームクリエイター
実業家
活動期間 1983年 -
代表作ドアドア
ドラゴンクエストシリーズ
弟切草
トルネコの大冒険 不思議のダンジョン
かまいたちの夜
風来のシレン
街 〜運命の交差点〜
428 〜封鎖された渋谷で〜
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人物 編集

アマチュア時代 編集

丸亀高校時代は数学同好会に所属していた。同会で『ギャラクシーウォーズ』をBASIC言語でタンディTRS-80に移植するなどしていた。

I/O』誌で、芸夢狂人NECPC-8001に移植した『ギャラクシアン』等を遊ぶために新聞配達で貯めた金でPC-8001を購入し、以後はそのPC-8001でプログラム開発と投稿を行うようになる。『I/O』誌に機械語入力ツールを投稿し、1981年2月号に掲載されたのが投稿デビューで、これにより原稿料2万円を得る。

この経験から、今度は高校1年の春休みにアーケードゲームスペースパニック』の移植作『ALIEN PartII』が1981年5月号に掲載され、同作はカセットテープでも販売されたことで20万円の印税収入となった。続けて1982年1月号には『スクランブル』(権利関係から後に『アタッカー』に改題)も同様にカセットで販売されて印税100万円。さらに『リバーパトロール』の移植作『リバーレスキュー』は『I/O』別冊『マイコンゲームの本4』に掲載され、高校時代にこれら『I/O』誌への投稿で、計200万円以上を稼いだ[2]。『I/O』誌での活躍によって、当時のマイコン少年の間では知られた存在であった[3]

これらで得た投稿料、印税でPC-8801を購入、プロのゲームクリエイターになることを決意し、1982年の高校3年の時にエニックス主催の第1回ホビープログラムコンテストに向けて、初のオリジナルとなるゲーム『ドアドア』を製作して応募したところ、準優勝にあたる優秀プログラム賞に入選し、50万円の賞金を獲得した[4]

エニックス時代 編集

1983年、上京して電気通信大学短期大学部電子工学科に入学する。入選作『ドアドア』をパソコンの各機種に移植し、この印税収入で大学生にして1,000万円を超える年収を得ていた[5]。その後、エニックスでの第2作となるパソコンゲーム『ニュートロン』をリリースし、大学2年の春休み中の1984年4月9日に友人らが株主となって、社員5人のチュンソフトを設立。調布市賃貸マンションの1室で営業活動を開始した。チュンソフトの第1作は1985年のPC-6001版『ドアドアmkII』。続けて、エニックスのファミリーコンピュータ(以下、ファミコン)参入に伴って、ファミコン版『ドアドア』でチュンソフトも家庭用ゲーム機のゲーム開発に参入した[6]。パソコン版が8万本だったのに対して、ファミコン版は20万本のセールスを記録し、以後は家庭用ゲーム機に注力する。続けて、同じくエニックスのプログラムコンテストの入賞者であった堀井雄二の『ポートピア連続殺人事件』のファミコン版の移植作業を行う。

この時期に中村と堀井が『ウィザードリィ』『ウルティマ』といったコンピュータRPGに熱中したことから、ファミコンの本格的なRPG『ドラゴンクエスト』の開発を担当することになった[7][8]ドラゴンクエストシリーズは『ドラゴンクエストV』までの開発に携わるが、その後エニックス作品から離れる。

エニックス後 編集

弟切草』で自社ブランドデビュー。その後、『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』『かまいたちの夜』『風来のシレン』『街 〜運命の交差点〜』と立て続けに新ジャンルを開拓する。特に『かまいたちの夜』はオリジナル版以外も含めると125万本の売り上げを飛ばし、優良メーカーの代名詞として活躍を見せる。自身は会社経営のため、プログラマーからは退いている[9]2012年4月1日付でチュンソフトは同じドワンゴ傘下のスパイクを吸収合併してスパイク・チュンソフトとなり、中村は社長職を退いて会長に就任した。

一時自社製品を真似た商品に悩まされたが[要出典]3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』のヒットで復活の兆しを見せ、セガと家庭用ゲーム事業で業務提携を結んだ。2008年にはWiiソフト『428 〜封鎖された渋谷で〜』のプロデューサーを務める。

作品 編集

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ 高橋名人Official Blog『16連射のつぶやき』2012/1/6「昨日の番組は」
  2. ^ 『永久保存版 みんながコレで燃えた! NEC8ビットパソコンPC-8001・6001』アスキー、2005年、pp.62-65。中村光一インタビュー
  3. ^ 志田英邦『ゲーム・マエストロ VOL.1 プロデューサー/ディレクター編(1)』毎日コミュニケーションズ、2000年、p.138。堀井雄二インタビュー。
  4. ^ 『みんながコレで燃えた! NEC8ビットパソコンPC-8001・6001』p.65
  5. ^ 『みんながコレで燃えた! NEC8ビットパソコンPC-8001・6001』p.66
  6. ^ 多摩豊『テレビゲームの神々 RPGを創った男たちの理想と夢』光栄、1994年、pp.102-104.
  7. ^ 滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』青春出版社、2000年、pp.166-168.
  8. ^ 志田英邦『ゲーム・マエストロ VOL.2 プロデューサー/ディレクター編(2)』毎日コミュニケーションズ、2000年、p.16。中村光一インタビュー。
  9. ^ 志田英邦『ゲーム・マエストロ VOL.2』p.24.
  10. ^ “歩くドラクエ”だった『テクテクテクテク』が『ポケモンGO』と共存する“一生歩けるRPG”になるまで──『不思議のダンジョン』生みの親・中村光一×麻野一哉が贈る“リアルな冒険”の開発秘話”. 電ファミニコゲーマー. 2019年2月18日閲覧。
  11. ^ a b ジャングル少年ジャン番外編ドッキンばぐばぐアニマル』1巻。

外部リンク 編集